03 気づかいと昼下がりのモーニング

 蟹江先輩は小さく息を呑んだ。


「死んだ誰かが私に何か伝えようとしてるってことですか? それも、怨念みたいなものを? なんでそんなことが……」

「この現象が始まったのはふた月前からだと仰いましたね。何かきっかけなど、思い当たることはありませんか」

「飼ってた犬が病気で死んだんです、二ヶ月前に。だから親にはペットロスが原因だろうって言われて。心療内科にも行ってみたんですけど、睡眠導入剤をもらっただけでした。確かに哀しかったですし、全くストレスがないわけじゃないとは思うんですけど……」


 ふむ、と樹神こだま先生は顎に指を添える。


「では、わんちゃんを亡くされたタイミングで何か変わった出来事はありませんでしたか。あるいはそれを機に新たに始めたこと、逆にやめたことなんかは。どんな些細なことでも構いません」

「朝の散歩は私の役目だったんで、それはなくなりました。早起きしなくなって生活リズムが変わった感じはあります」

「散歩というのは、ご自宅の近くで?」

「はい、春日井なんですけど」

「春日井。参考までに、どの辺りを散歩されていました?」

「近所に庄内川が流れてて、その堤防沿いとかが定番コースでした」

「庄内川……川、ですか。そこを、通らなくなった?」

「そうです。川に何かあるんですか?」


 先生が長い脚をゆったり組む。


「川は境界線です。単に土地を区切るだけでなく、あの世とこの世の境目と考えられる。つまり、彼岸と此岸しがんを隔てるもの」

「彼岸……」


 ——つぼどん つぼどん

 ——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか


「あなたがその川べりに立ち寄らなくなってから、彼岸参りの誘いを断る歌が夢の中で聞こえるようになった。ここに何らかの繋がりがあるように思います」


 蟹江先輩がはっとした表情になった。


「まさか死んだハルが、私を恨んでるとか?」

「まだ何の断定もできませんが……何か心当たりでも?」

「いえ、そういうわけじゃないです……ただ、あの子がちゃんと幸せだったかどうか、私には分からないんで」

「なるほど。もし私どもに調査をご依頼いただけるのであれば、現地へ出向いて原因を突き止め、解決に当たります。そうすれば『念』に苛まれることもなくなる」

「えぇっと……」


 困惑した瞳が僕へと向いた。それが今にも泣き出しそうに見えて、内心どきりとする。

 一方的に引っ張ってきた手前、無理強いはできない。それでなくとも怪しい商売に見えるのだ。

 僕はどうにか口元に笑みを作る。


「蟹江先輩、お話ししてくださってありがとうございました。こういう他人には分かりづらい体験や出来事って、言葉にするのも難しいと思います。『念』を軽く祓うくらいだったら僕でもできますし、調査依頼はしてもしなくても、どちらでも大丈夫ですよ」


 蟹江先輩の強張った頬が、わずかに緩んだ気がした。彼女は先生に向き直り、控えめに唇を動かす。


「あの、もしお願いした場合、いくらくらいになりますか……?」


 そんなこんなで。

 正式に調査契約を結んだ後、未だ顔色の優れない蟹江先輩を、僕が金山駅まで送っていくことになった。

 まだ昼下がりの時間帯、居酒屋やカラオケ店の並ぶ道は閑散としている。薄曇りで日差しは頼りなく、時おり吹く風が冷たい。


「服部くんが探偵の助手をしてたなんて、知らんかった。探偵さん、イケメンだね」

「変な人ですけどね。ちょっと他人に説明しづらいバイトなんで……」

「じゃあ、みんなには内緒にしといた方がいいかなぁ」

「あ、はい、お願いします」

「分かった、誰にも言わんどくね」

「ありがとうございます、助かります」


 内心で胸を撫で下ろした。言いふらされて変な広まり方をしたら、きっと面倒なことになる。

 同時に、腹の底が重くなった。わざわざお節介を焼いたのは僕なのに、面倒は避けたいだなんて。


「何かすいませんでした。いきなり契約の話とか、びっくりしますよね」

「でも、このまんまずぅっと謎の夢に悩まされるよりいいかなって」

「うちの先生、腕は確かなんで。きっと解決できると思います」

「うん、ありがと」

「いえ、僕は何も」

「そんなことないよ。服部くんが気遣ってくれてホッとした。だからお願いしても大丈夫だと思ったんだよ」


 むしろ、先輩の方が僕に気を遣って調査依頼をしてくれたのでは。変なプレッシャーで胃が痛くなってきた。


 駅舎の付近まで来れば、さすがにそこそこ人がいる。持て余した微妙な会話の間も、誰のものとも知れない喧騒が埋めてくれる。

 見送りはJRの改札口の前までだ。


「服部くん、今日はありがとうね」

「いえ。では蟹江先輩、また明日伺いますので」

「あっ……呼び方、下の名前でいいよ」

「え?」

「うちの部、女子はみんな下の名前で呼んどるでしょ」

「あぁ、確かに」


 郷に入っては郷に従えということか。

 周囲の人間関係の中で、境界線を引きすぎていたかもしれない。


「えぇと、では、香奈実先輩。僕はここで失礼します。お気を付けて」

「うん、じゃあね、服部くん」


 蟹江……ではなく、香奈実先輩の後ろ姿が改札の奥に消えるのを見届けて、僕は踵を返した。



 事務所に戻ると、先生はのんびりと煙草をふかしていた。


「おかえり、色男」

「ただいま戻りました。何ですか急に……」

「いやぁ、服部少年も隅に置けんなと思ってさ。彼女が妬くぞ」

「やめてください。別にそういうのじゃないですから」


 冷たい視線で刺しても、ニヤついた笑顔はどこ吹く風だ。


「初めてだろ、君が知り合い連れてくるの」

「……目の前で『念』まみれになって倒れたら、見て見ぬふりもできませんよ。知らん人ならともかく、部活の先輩ですから」

「まぁ、そりゃそうだわな。ちょうど君が気付いて良かったと思うよ」

「えぇ、だといいんですが」


 自分の取った選択肢は正解だったのか。いつも後から不安になってしまう。

 もしあそこで知らぬ存ぜぬを決め込んでいたら、今ごろぐるぐると無限に気にして病んでいたはずだ。大丈夫、間違ってはいない。

 だけど、もし。

 もし万が一、うまく解決できなかったら。

 仮に解決できたとしても、香奈実先輩にとって良くない結果を齎すものであったら。それによって部活で気まずい感じになってしまったら。

 初めから声をかけなければ良かったと、思ったりしないだろうか。


 僕の過度の心配をよそに、先生は緩い調子で言った。


「腹減ったな。もうすぐ二時か。ランチも終わる時間帯だ」

「すいません、遅くなって」

「いいよ。俺、今日は朝メシだいぶ遅かったんだ。そういや、近くに一日中モーニングやっとる喫茶店ができたみたいでさ」

「一日中モーニング」


 もはやモーニングとは。


「行ってみよう」

「お供します」


 先生が煙草を吸い終わるのを待って、僕たちは事務所を出た。


 噂の喫茶店は、五分ほど歩いた場所にあった。古いビルの一階部分を改装して作ったらしく、内部は流行りの昭和レトロ風だ。

 いつでもモーニングを食べられるだけあって、中途半端な時間帯にも関わらず、席はそこそこ埋まっている。年配の女性グループに若いカップル、一人で来ている中年男性など、客層は幅広い。


 テーブル備え付けのメニュー表を手にした先生が、感嘆の声を漏らした。


「なかなか豪勢だな」

「本当ですね」


 各ドリンクに無料サービスで付くのは、厚切りトーストにゆで卵、サラダ、ヨーグルト。写真を見るに、それぞれしっかり量がある。

 追加料金で小倉トーストセットにできたり、サンドイッチセットやカレーセットにもできるらしい。その他、追加や大盛りやトッピングなどオプションも豊富だ。


「じゃあ俺はホットと小倉トーストセット」

「僕はホットとカレーセット、カレーは大盛りで」


 カレーにコーヒーという取り合わせについて言及するのは野暮だろう。あくまでドリンクに付いているサービスなのだ。


「モーニングは一宮いちのみやや岐阜の方が多いみたいだな」

「発祥は一宮市なんでしたっけ」

「諸説あるが、一宮の喫茶店が昭和三十年代に始めたのが最初と言われている。地域によって特色があって、岐阜のモーニングは特にボリュームがすごいらしい。茶碗蒸しが付いたりして」

「あぁ、テレビで見たことあります。おにぎりとか焼きそばとかが付いたりする店もあるって」


 繰り返すけれど、あくまでコーヒー等に付くサービスだ。


 程なくして運ばれてきたモーニングセットは、写真より迫力があった。

 先生の頼んだ小倉トーストの分厚さたるや。こんがりきつね色に焼かれた食パンの上につやつやした大粒のあんこが盛られ、そこに埋もれた四角いバターがじわじわと溶け出している。


 僕のカレーは大盛りにしたこともあり、モーニングの概念を覆すほどの存在感だった。

 白く輝くごはんと、スパイス香る琥珀色のカレーソース。具はごろごろ大きめで食べ応えがありそうだ。


 二人して「いただきます」と手を合わせ、僕は一口目のカレーを頬張る。

 まろやかなコク、野菜の旨み、咀嚼すればほろりと崩れるジャガイモやニンジン。それがごはんの甘さと渾然一体となり、五臓六腑に染みていく。まさにカレーの中のカレーという味わいだ。


「うま……」


 食べ始めたら早かった。気が緩んだ反動か、いつも以上にごはんが美味い。


「相変わらず気持ちいい食いっぷりだな」


 先生はのんびりコーヒーに口を付けている。

 いつもと同じだ。どんな時でも。例えこんなふうに昼過ぎにモーニングを食べることになっても。


 食事を終えて、店の前で先生と別れる。


「じゃあまた明日。今回も頼りにしてるよ、我が助手」


 いつもと同じ、気障なセリフ。

 むしろ頼りにしたいのはこちらの方なのだけれど。

 なぜだか、ふわっと気持ちが軽くなった気がした。まるで重い荷物を半分持ってもらったみたいに。

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