彼岸参りをながむ歌 〜なごや幻影奇想短篇〜
陽澄すずめ
01 つかれてますよ
——つぼどん つぼどん
——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか
——去年の春も めぇたけど
——からすという くろどりが
——足をつつき 目をつつき
——それが怖ゃぁて よぅめぇらん
暗闇の中で、誰かが歌っている。
男性のような女性のような、大人のような子供のような、誰のものともつかない声で。
最初ははっきり聞こえた歌は、何度も何度も繰り返すうち、どんどん小さくなっていく。
それが完全に消え去ろうかというタイミング。
突然、喉が詰まった。
息ができない。
苦しい、苦しい、助けて——
「……うわぁっ!」
私は掛け布団を跳ね上げるように飛び起きた。
遮光カーテンの合間から朝の光が覗いている。
心臓がばくばく鳴っていた。浅く短く息を吐けば、頭がガンガン痛み出す。
ベッドの上で、ゆっくりと部屋を見回した。いつもと同じ、見慣れた私の部屋だ。
期末レポートの作成途中で眠気に耐えられなくなって諦めたので、机上のノートパソコンはスリープ状態になっていた。
まだ眠い。でも、もう眠る気にはなれない。
ある時を境に、繰り返し同じ夢を見るようになった。
暗闇の中、鬱々と続く不気味な童歌。
最後は必ず呼吸困難に陥って、今にも死にそうになる。
おかげでしょっちゅう寝不足だし、頭痛もひどい。
のろのろと部屋を出て、階下へ降りた。
少し前までは、私の足音を聞き付けて駆け寄ってくる存在がいたんだけど。
ハルが死んだのはひと月前。
うちで飼っていたミニチュアダックスの男の子で、椎間板ヘルニアが急に悪化したのが原因だった。ダックスには多い病気らしい。
すきま風のような寂しさには、まだ慣れない。
お父さんと高校生の弟は既に家を出ている時間帯。ダイニングでは、お母さんがトーストを齧っていた。
「おはよう
「おはよぉ……今日は三限に筆記があるだけだでさ。後はレポートだけだよ」
「そっか。私ももうちょっとしたら仕事行くでね」
「うん、分かった」
「……あんた、今日も顔色悪いよ。また寝れんかったの? いい加減病院行きゃあよ」
「そんなこと言ったって、何科に?」
「ほら、心療内科とか」
「えぇ? そんな大袈裟な」
「ペットロスで心の調子を崩す人も結構おるみたいだで」
「んー、そうかなぁ……」
いつまで経ってもぼんやりしている私を放って、お母さんはさっさとパートへ出かけて行った。
しんと静まり返った家の中。夢で体験した息苦しさを思い出して、ぞっとする。
私はどうにか菓子パンを食べて、強めの鎮痛剤を胃に流し込んだ。
頭がすっきりしないのは運動不足のせい、という可能性はある。
ちょっと前までは毎朝、庄内川の堤防の道をハルと一緒に散歩していた。その日課がなくなり、生活リズムが崩れたせいで眠りが浅くなって、おかしな夢に悩まされるようになったのかも。
この症状は、ちょうどハルが死んだ後に始まったから。
……いや、でも、やっぱりおかしい。
朝のラッシュを過ぎたJR中央本線名古屋行き快速。ガタゴト揺られながら薄っすら眠気に誘われて、頭の中に蘇る。
——つぼどん つぼどん
——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか
そもそも私、あんな歌、ぜんぜん知らない。
テストの出来はまずまずだったと思う。
部活の先輩にもらった過去問そのままだったから、たぶん通るはず。『
バイトまでの時間を自主練で潰す。
女子部室で弓道着と袴に着替えて射場へ足を踏み入れると、先客がいた。一年生ばかり、三人。
「香奈実先輩、こんにちは!」
「こんにちは!」
はきはきした元気な挨拶はいいことだけど、未だに鈍く痛む私の頭には鋭く響く。
「先輩、テスト終わりました?」
「うん、あとレポートだけだよ」
「もしかして徹夜です?」
「まぁねぇ、そんなとこかなぁ」
「先輩ー、ただでさえ色白なんですからぁ」
「うーん、あはは……」
そんなに顔色悪かったか。「心配ですぅ」と眉をハの字にする後輩女子に、どうにか笑ってみせる。
冴え冴えとした二月の空気の中で、板張りの床がえらく冷たい。
ふと。射場の端にいた男子が、どこか驚いた表情でこちらを見ていることに気付いた。
だけど一瞬合った視線は、すぐに逸らされる。
文学部一年の服部くんだ。高校からの経験者で、射型の綺麗な子。
真面目で大人しいタイプ。人当たりは悪くないけど、特定の誰かと仲がいい様子はない。私自身も、あんまり話したことはなかった。
でも、子犬っぽい可愛い系の顔立ちで、密かに彼を気に入っている女子が私たち二年生の中にも何人かいるのを知っている。
服部くんは何事もなかったかのように淡々と自分の弓に戻った。美しい縦横十文字から放たれた矢は、スパン!と見事に的中する。
その弾ける音を聞いた途端、なぜか頭痛がすぅっと消えた。
何だったのかな。まぁいいか。
久々に深い呼吸をして、正しい姿勢で弓を引いたら、少しだけ気分がマシになった気がする。
だけどそれも、一時的なものだった。
——つぼどん つぼどん
——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか
あの夢を見る回数は……いや、見るというより聞くといった方が正しいかもしれないけど、だんだん増えていた。
二月が過ぎて三月に入ると、ますますひどくなった。比例して、頭痛や吐き気も。
——去年の春も めぇたけど
——からすという くろどりが
——足をつつき 目をつつき
——それが怖ゃぁて よぅめぇらん
歌の意味は分からない。分からないけど、絶望的な気持ちだけがひたすら湧く。
そろそろ春の彼岸の季節だ。
起き上がるのも怠い日が増えた。
心療内科に行ってみたけど、原因は結局よく分からないまま睡眠導入剤だけを処方されて終わった。
春休みで、まだ良かったかもしれない。
パン屋のバイトはどうにか週三回、部活の全体練は週二回。どちらにしても、周囲の人から顔色を心配される。濃い目のチークも意味がない。
ある日の練習でとうとう射場に立てなくなって、私は見学を申し出た。
「香奈実、あんまりえらいんなら、しばらく休んだ方がいいんじゃない?」
「でも、もう幹部交代しとるし……」
四月から三年生になる私たちは、既に先輩方から幹部を引き継いでいた。覚えることも多くて大変な時期なのに、みんなに迷惑をかけたくない。
「それで倒れたら元も子もないよ。あんま無理しんようにね」
「うん、ごめんね……」
情けない。涙が出そうになったのを、唇を噛んで堪えた。
部員たちの声出し。矢が的に刺さる音。どれもぼんやりして、まるで耳の奥に綿でも詰まっているみたい。
一方で、頭の中では例の歌が無限に繰り返されている。
——つぼどん つぼどん
——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか
いったい何の歌なんだろう。どこで知ったか、本当に記憶の片隅にもない。
だから、そんなものに苛まれる原因も分からない。
ペットロスが、知らず知らずに強烈なストレスに繋がっていたのだろうか。
ハルのことは、ちゃんと供養した。
私なりに一番いいと思える方法で弔った。
寂しいけど、気持ちに区切りは付けたと思ったのに。
兎にも角にも身体がおかしい。本当は大きな病院で精密検査を受けた方がいいのかもしれない。重い病気の可能性だってある。
——からすという くろどりが
——足をつつき 目をつつき
——それが怖ゃぁて よぅめぇらん
急に目の前が真っ暗になった。
何も見えないのに、世界がぐるぐる回っている感覚。
ここはどこ? 息が苦しい。誰か、誰か……
「蟹江先輩!」
二の腕をぐいと引かれた。何が何だか分からないまま、誰かに半ば抱えられるようにして移動させられる。
耳元で、何かがパチンと弾けた音。同時に頭痛が軽くなる。
「呼吸を整えて。丹田を意識してください」
やや高めで柔らかい響きの、若い男性の声。
丹田。弓を引く時には身体の軸を支えるのに大事な場所だ。
言われた通りに、丹田に気を巡らせるイメージで息をつく。呼吸の通りが良くなると、やっと視力が戻ってきた。
大学構内、文学部棟の前にあるベンチに、私は座らされていた。
そうだ、部活が終わって帰るところだったんだっけ。ここまでどうやって歩いてきたのか、あんまり思い出せない。
「先輩、落ち着きましたか」
顔を上げれば。
「……は、服部くん……?」
「良かった、危ないとこだったんで」
「ええと……?」
頭の中はハテナマークだらけだった。
ろくに喋ったこともない後輩が、しかも積極的に誰かと関わるタイプに見えない彼が、なぜ。
「蟹江先輩のこと、こないだから気になっとったんです。いきなりこんなこと言うのは、おかしいかもしれないんですけど」
「えっ?」
澄んだ春の光が射した。
正面からじっと見つめてくる、真剣な瞳。さっき私を支えてくれた腕。小柄な子なのに、意外と力強くて男らしかった。
急にドキドキと胸が騒ぎ始める。
気になってたって。
私のことが?
しかし。
「先輩、つかれてますよ」
「……え?」
ホケキョ、とどこかでウグイスが啼いた。
何?
アメリカの超常現象のドラマかな。
拍子抜けしすぎて、二の句も上手く継げない。
ぱちぱち瞬いて、掠れた喉をどうにか動かす。
「え、えと、確かに最近寝不足ひどくて疲れとるけど……」
「いや……そうじゃなくて」
服部くんは少し口ごもってから、きっぱりと言った。
「憑かれとるんです、霊か何かに」
本当に超常現象の話だった。
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