第8話 代々伝わってきた宝物

 幸華は父親にせがまれて、買ってきたドレスを見せることになった。

 大きく店名のロゴが印刷された紙袋から、丁重に畳まれたドレスを出して、広げる。

「へえ、良いんじゃない。綺麗だし」

 偶然その場に居合わせた母は言った。一方の父は目をまん丸にして幸華のことを見た。

「幸華……」

「何」

「凄いじゃないか! お友達と出掛けて! 買い物をして! こんな素敵な衣装を選んでくるなんて! 素晴らしいよ、感激だ!」

 幸華はちょっぴり顔をしかめた。

「そんなに騒ぐようなことじゃない」

「いやあ、成長したなあ、幸華! お父さんは嬉しい」

「良かったね」

「幸華、それ、今から着て来てくれないかな? ここで見てみたいんだ」

「え、やだ」

「頼む、娘の晴れ姿を見せてくれよ。記念に写真も撮らせてもらいたい」

「断る。そんなに見たければ演奏会に来ればいいし」

「そんな。演奏会だけじゃ近くで見られないのに」

「仕舞ってくる」

「そんなあ」

 幸華はさっさと自室に上がると、無駄に大きくて中身がスカスカのクローゼットを開けて、青いドレスを吊るした。黒や灰色の地味な服がちらほらと掛かっている中、ドレスは一段と煌めいて見えた。

 やっぱり派手過ぎたかな、と気後れしてしまう。しかし折角鈴乃が協力して一緒に選んでくれたものなのだから、きっと似合うのだろうと思うことにする。たまには、普段選ばない色の物を身につけるのも、気分転換になって良いだろう。

「……やるか」

 幸華はいつも通り、バイオリンの練習を始めた。今日は買い物に出かけた分時間があまり無いから、基礎練習に絞って取り組む。満足するまで一通り弾き切る前に、夕食の時間となってしまった。幸華はバイオリンを拭いて仕舞うと、階段を降りた。

 家事手伝いのおばさんが作ってくれた食事を、両親と手分けして運んで、席に着く。いただきますを言って料理に手を付ける。

 母親がハンバーグを箸で割りながら、こんなことを言ってきた。

「幸華、来週日曜に二十歳の誕生日でしょ。何か欲しい物無いの」

「あ、えっと……」

「早めに決めておいて。用意が間に合わなくならないように」

「分かった」

「そうだ!」

 父親がぱっと顔を上げて言った。

「今年の誕生日パーティーには、お友達を誘ったらどうかな!?」

「えっ」

「鈴乃ちゃんにうちに来てもらおう。良いよね、お母さん」

「良いんじゃないの」

「えっ」

「善は急げだ。早速お手伝いさんたちにチャットを送ろう」

「待って、私は呼ぶなんて言ってない。勝手に決めないで欲しい」

「でももう送っちゃったよ」

「は?」

「お友達のこと、ちゃんと誘うんだぞ。約束だからな」

「私の誕生日なのに私に拒否権が無いってどういうこと? 向こうの予定だって聞いてないけど?」

「まあまあそう言わずに。どんな子なのかな。会うのが楽しみだ!」

 見るからにわくわくしている父親の目線が痛くて、幸華は目を逸らし黙り込んだ。にんじんのグラッセを口に入れて咀嚼しながら考える。

 ──自分が主役の誕生日会に友達を招待する? そんな自意識過剰な成金趣味の行動なんて、恥ずかしくて出来ない。子どもの頃であればぎりぎり許せるが、大学生にもなってこんなことではしゃぎたくない。ただでさえ誕生日パーティーは自分一人がやたらと目立つから気が乗らないのに。面倒なことになってしまった。

 翌々日、月曜日の朝、大学に出かける幸華を見送って、父親がこう声を掛けた。

「行ってらっしゃい。鈴乃ちゃんによろしく!」

「あの……」

「もうパーティーの段取りは進んでいるからね」

 共に出勤するために隣でパンプスを履いていた母親まで、そんなことを言い出した。

「向こうに予定が無い限りはちゃんと誘うこと」

「うげー……」

 幸華は不安とストレスが黒雲のように胸を覆うのを感じながら、憂鬱な気持ちで音大に向かった。空模様は幸華の胸中とは反対によく晴れている。

 一限目は音楽理論の座学であった。幸華がいつもの通り二つ分の席を確保し、鈴乃が遅めにやって来て幸華の隣に座る。

「おはよう、幸華」

「おはよう。……あの、鈴乃」

「うん?」

「寝ちゃう前に、聞いておきたいことがある」

「え、何々?」

 そわそわしながら一時間半を過ごすのは御免だ。嫌なタスクはさっさと終わらせるのが吉である。幸華は思い切って言ってしまうことにした。

「じ、実は次の日曜日、私の誕生日なんだけど……」

「へえ! 良いね。めでたいね! おめでとう!」

「ありがとう……。あの、それで、家でパーティーをすることになっていて。良かったら、鈴乃を招待しようかなって……。お、親も、それが良いって言ってて……」

「えっ! 良いの?」

 鈴乃が身を乗り出した。幸華は早々に気後れがしてきた。

「あの、別に、無理に来なくても良いんだけど。他の人との予定があるとかだったらそっちを優先して欲しいし」

「大丈夫だよ。他に遊ぶ友達もいないし、日曜は予定入ってないから。誕生日パーティー、行きたいな!」

「……そうなんだ……?」

「ん? 何?」

「いや、鈴乃って絶対友達沢山いると思ってたから、意外で」

「あはは、これが、いないんだなぁ。軽く喋る程度の人ならいるけどね」

「へえ……」

 そんなやりとりをしている内に、先生が学生たちの前に立った。スクリーンには講義に使うための画像が映し出された。

 幸華はテキストとルーズリーフとペンケースを出した。鈴乃は寝るのかと思いきや、頬杖をついて前を見ている。

「今日は寝ないんだ」

「まあね。音楽理論も基礎的なところは知ってるけど、応用的なこととか、新しい説とかは、知らないことが多くて。そろそろ真面目に聞いておかないとまずいんだ」

「へえ」

 その後鈴乃は一度も眠ることなく一時間半を乗り切った。乱雑ながら、ルーズリーフにメモも取ってある。幸華はまたしても意外に思った。

「鈴乃って、やれば出来るんだね……」

「ふふん。もっと褒めても良いんだよ」

「講義を真面目に受けた程度のことで、そこまで褒めはしない」

「ちぇー、けちだなあ」

「けちじゃない」

 さて、二限目の座学は二人で別々の講義を選択していたので、幸華と鈴乃は違う教室に行かねばならない。

「それじゃ後でね、幸華」

「うん」

「パーティー楽しみにしてる!」

「うっ……うん」

 幸華が次に受けるのはドイツ語の講義だった。先生の話が長引いて、お昼の時間までかかってしまった。ようやく終わったので、幸華はカフェテリアに行くべく早足で教室を出た。

 すると何故か、教室の前で、鈴乃が待っていた。

「幸華! 幸華!」

 興奮したように声を掛けてくる。幸華はつんのめりそうになりながら足を止めた。

「どうしたの。こんなところまで来て」

「見てこれ!」

 鈴乃はスマホを突き出して、画面を見せた。

「オーディションの結果が出てるよ!」

「えっ、オーディションって、オーケストラの?」

「そうだよ! ほら、ここ見て!」

 画面にはこの大学のポータルサイトが映っていた。

 一年生のオーケストラ志望者の合否と組み分けが載っている。

 幸華は画面を凝視した。

「第一管弦楽団……セカンドバイオリン、銀川鈴乃」

「そう! それからこっちも!」

 鈴乃がスクロールして指し示した小さな文字列には、こうあった。

 第一管弦楽団、セカンドバイオリン、田宮幸華。

「私も、一軍に受かってる……!?」

「そうだよ! やったあ! 良かったね幸華、夢が一つ叶ったね!」

「うん……良かった……!」

 ほっとして力が抜けた。後からじわじわと嬉しさが込み上げて来る。これでようやく、プロへの道を一歩進めたのだ。今まで頑張ってきて良かった。

「幸華と一緒に弾けることになって嬉しいよ」

「わ、私も」

「イェーイ‼」

 鈴乃がハイタッチを要求してきたので、幸華はそっと腕を上げてパチンと互いの手の平を合わせた。うきうきとした気分で、二人でカフェテリアに向かう。食べている間も鈴乃はひっきりなしにオーケストラの話をして来た。

「オーディション受けてて思ったけど、オケの曲って一人で弾く分にはそんなに難しくないよね。超絶技巧とか必要無いし」

「それは当然では……。ほとんどの曲はアマチュア団体だって一応は弾きこなせるし。それでもクオリティの違いは出るし、加えて大勢で弾くための技術が必要な感じもするけど」

「そうそう。ソロ曲とはまた違った難しさがあるよ。私、これまでほとんどオーケストラに乗ったことが無かったから、新鮮だったな。これからも楽しみ」

「そっか」

「幸華はオケの経験あるの?」

「それなりに……。毎年夏に合宿に参加してた」

「へえ、凄い」

「凄くはない」

「……あっ、一軍のメンバー宛てにメールが来たよ! どれどれ……一軍のやる曲目は、ボロディンの『韃靼人の踊り』、リムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』、ラフマニノフの『交響曲第二番』だって」

「へえ、ロシアもの縛りなんだ」

「ロシアはね……今は戦争を仕掛けて大変なことになってるけどね。でも名作の良さは変わらないから。どれも良い曲だよ」

「そうだね」

 そんな訳で、幸華のこなすべき課題は増えた。

 オーケストラの曲が三つと、ソロ曲が一つと、デュエットが一つ。

 忙しく過ごしているうちに、一週間は矢の様に過ぎ去り、土曜日になった。

 誕生日の前日である。

 夜、家での練習をキリの良いところでやめた幸華は、お風呂に入って一息つき、部屋着を着て、短い黒髪をさっとドライヤーで乾かした。ベッドに入って小説でも読むことにする。

 時刻は零時を少し回った頃。

 自室の部屋の扉がトントンと叩かれた。

「幸華。入って良い?」

「え、あ、うん。どうぞ、お母さん」

 幸華は本を置いてベッドから出ると、扉を開けて母を招き入れた。母は幸華と同じく部屋着姿で、両手には黒くて重そうな箱を持っていた。

「お誕生日おめでとう、幸華」

 まず母はそう言った。

「うん、ありがとう……」

「あなたが二十歳になったら譲ろうと決めていた物があるの。プレゼントとは別に」

「そうなんだ。その箱のこと?」

「そう」

 母は幸華の勉強机に黒い箱を置いた。重そうである。

「こっちへ来なさい」

「うん」

 幸華はスリッパをパタパタ言わせて机に近付いた。母は箱の蓋の部分を指差した。

「暗証番号が鍵になっているから、数字を幸華の誕生日に合わせて」

「分かった」

 金属で出来た装置をくるくると回して、四桁の数字を入れる。カチッと鍵が開いた音がした。

「開けて」

「うん」

 幸華はそろりそろりと黒い箱の蓋を開けた。中には黒いクッションが敷き詰められていて、その中央には真紅の石が鎮座していた。大きさは拳一つ分くらい。寸分の狂いもないまん丸な球体をしている。最も目を引くのは透き通った美しい赤色であった。

「これ……宝石?」

「そう」

「でっか……。こんなでかいの見たことない……」

「この大きさのものは珍しいでしょうね」

「これは……何ていう宝石? ルビー?」

「ガーネット」

「へえ」

「触ってみたら?」

「え、良いの」

「もうあなたのものなんだから好きになさい。ここに専用の手袋も入っているから」

「へえ」

 幸華は白手袋をはめると、恐る恐るガーネットを両手で持ち上げ、部屋の明かりに透かして見てみた。ひんやりとしていて、つやつやだ。一点の曇りも無い。

「重い……綺麗」

「でしょう」

「こんな物がうちにあるなんて知らなかった。お母さんがお父さんからもらったとか?」

「いいえ。これはお母さんの家に代々伝わってきたもの。私も、二十歳の時にこれを譲り受けた」

「え……そうなんだ」

「代々と言っても、お祖父ちゃんが……あなたにとっての曽祖父ちゃんが、ベトナムで買ったものだけれどね」

「ベトナム」

 幸華はそっとガーネットを元の位置に置いた。

「ベトナムって、ガーネットの産地なのかな」

「詳しくは知らないけど、一大産地という訳ではなさそう」

「ふうん」

 幸華は首を捻った。

「曽祖母ちゃんがベトナム出身だっていうのは聞いていたけど、そもそも曽祖父ちゃんはどうしてベトナムに行ったわけ? 旅行……?」

「戦争で」

「ああ……。えっと、ベトナム戦争? だっけ?」

「いや、第二次世界大戦。曽祖父ちゃんは、ベトナム戦争が始まる頃には帰国していたそうだから」

「そっか」

 人を殺すためにベトナムに赴き、嫁と宝石を得て帰国したということか。幸華の知る戦争のイメージとはかけ離れている。

「それじゃ、ガーネットはあなたの好きにして良いから」

「うん。ええと……ありがとう」

 母はひらひらと手を振りながら出口まで向かい、去りしなに「おやすみ」と言って扉を閉じた。

「……おやすみなさい……」

 幸華は再びガーネットを見つめた。

 どうしよう。貴重なものだろうしすぐにでも仕舞い込んでおきたいが、それではもったいない気もする。せめて今日一日くらいは、箱を部屋に飾っておこうか。いつでも中身を見られるように。

 幸華は黒い箱を閉じて鍵をかけると、そっと出窓の所に持って行った。他に何も飾りを置いていない小ざっぱりとした部屋だから、箱は堂々と目立って見えた。

「……宝石」

 最近、自分の周りにやたらと登場するこの言葉。何かの運命か、因果関係でもあるのだろうか。──いや、単なる偶然に過ぎないだろう。多分。

 下らないことを考えていないで寝るか、とベッドに戻る。ガーネットのあの煌めきを思い出して、どことなく幸せな気分になる。

 朝になったら、父やお手伝いさんからもおめでとうを言われるだろう。それから午前中いっぱいはバイオリンを練習して、午後には車に乗せてもらって鈴乃を迎えに行く。

 友達を家に呼ぶなんていつ以来だろう。気恥ずかしいような気もしたが、行きたいと言ってもらえて嬉しかったのも事実だ。

 明日を良い気分で迎えられるよう、今は気持ちを落ち着けて、ゆっくりと眠りたい。幸華は掛け布団を引っ被って、目を瞑った。

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