第1話 新しい生徒来たる
リュシエンヌは、病床の夫を見守りながらも、どことなくそわそわしていた。
パリ音楽院を卒業してからすぐ、パリの自宅で開いたバイオリン教室だったが、まだまだ生徒が多いとは言えない。リュシエンヌはまだ齢にして二十六、しかも女性だ。社会的な信頼を勝ち取るには相当苦労することだろう。
しかも去年の秋からは戦争が始まっている──宣戦布告をしたにもかかわらず敵国ドイツとの間には未だ目立った戦闘もなく、いかさま戦争、だなんてラジオのニュースで言われてはいるが、情勢が緊迫しているのは確かだ。皆、どことなく余裕が無い気分でいる。
そんな中、今日は、新しく生徒になりたいと言ってくれた人が、来てくれるのである。
「ああ……」
不安のあまり思わず溜息が出てしまった。夫のアンリは心配そうな様子で、目だけをこちらに向けた。
「どうしたんだ、そんな顔をして。新しい生徒さんが来るのを楽しみにしていたじゃないか」
リュシエンヌは微笑した。
「ええ、そうよ。もちろん嬉しいのだけれど、上手くやれるか少し不安で。私の教室のこと、気に入ってもらえるかしら」
「そりゃあ、大丈夫だよ。いつも上手くやっているのだから、いつも通りやればいいんだ。俺は君のことを信頼しているよ」
「……うふふ。ありがとう」
その時、リンリンと呼び鈴が鳴った。リュシエンヌは、スカートをはたいて形を整えつつ、席を立った。
「来たわ。行かなくちゃ」
「うん。……笑顔を忘れずにね。君の笑顔は、それは優しくて魅力的だから。自信を持って」
「そう……そうね。それじゃあ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
リュシエンヌは寝室を後にした。ややこじんまりとした居間には、既にバイオリンと譜面台と楽譜を用意してある。部屋を横切り玄関まで辿り着いたリュシエンヌは、小さく息を吸って吐いて気持ちを落ち着けてから、扉を開けた。
「こんにちは」
「こんにちは!」
立っていたのは、金髪碧眼の若い男だった。体つきはひょろりとしていて、男子にしては背が低く、手には古びたバイオリンケースと手提げ袋を持っていた。花々の咲き始めるこの季節にしてはかなり防寒をしているようで、ワイン色のマフラーをぐるぐる巻きにしている。
「ロジェ・ランヴァンです! どうぞよろしくお願いします」
はきはきとした声で挨拶される。ニカッと笑んだその顔には、いささかの緊張も気負いも感じられない。
「いらっしゃい。リュシエンヌ・グリュンベールです。待っていたわ、ロジェ。お入りなさい」
「お邪魔します!」
コツコツと靴音を鳴らして、ロジェは教室に踏み入った。
「寒い中ご苦労様」
リュシエンヌは微笑みかけた。
「荷物はここに置いてね。コートやマフラーはこちらにかけておいて。楽器を持ってこちらへ来て頂戴。そう、それで良いわ、ありがとう。それじゃあ、ひとまずこちらの椅子に座ってね」
リュシエンヌは机を挟んでロジェの向かい側に座った。ロジェはクリーム色の生地に暗めの赤色の模様があしらわれたセーターを着ていた。さっきのマフラーと言い、赤が好きなのだろうか。よく似合っている。
「では、最初に少しだけお話しをします。あなたは、パリ音楽院の入試に合格したいのよね?」
「はい」
「バイオリン科の年齢制限は二十二歳まで。あなたは今……いくつだったかしら」
「あっ、ええと、十九です」
「そう。まだ余裕はあるわね。あなたが無事に入学できるよう、私が全力でお手伝いしましょう。それで、お月謝のことだけど……前に言った通り、毎月末にこの額を用意して持ってきて欲しいの。できそう?」
ロジェは差し出された紙に書かれた金額を読んでから、リュシエンヌを真っ直ぐ見据えた。
「可能です」
「そう、良かったわ。レッスンは電話でお伝えした通り、毎週火曜日のこの時間に二時間行います。それでいいかしら」
「勿論です。ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします!」
「ええ、こちらこそよろしく。期待しているわ」
リュシエンヌは立ち上がると、椅子を持ち上げて譜面台のそばまで持って移動させ、そこで再び腰掛けた。
「では早速、ロジェの音を聞かせて頂くわね。楽器を出して、そこに立って」
「はい」
「あなたの好きな協奏曲を一楽章だけ、無伴奏で披露してもらいたいの。何にする? こちらにも一通り有名な楽譜は用意してあるから、使いたかったら言ってね」
「はい。メンデルスゾーンの第一楽章を弾かせて頂きます。暗譜しているので、楽譜は不要です」
有名どころの曲で堂々と勝負するつもりか、とリュシエンヌは感心した。これまで見てきた生徒の中には、最初から奇をてらった難曲を選んで技術力を示そうとする者も少なくなかったが、ロジェにはそのつもりは無いらしい。リュシエンヌとしても、やり尽くされた定番の曲の方が、生徒の癖やこだわりが分かりやすくて好感が持てる。とは言えもちろん、ヴィヴァルディのような初歩的な曲を選ばれても困るし……やはりメンデルスゾーンくらいならば妥当な選択と言える。音楽院の入試ではもう少し難しい曲を要求されるだろうが、そのことはまだ後回しだ。
ロジェはバイオリンをケースから出すと、軽く音を出して調弦を済ませた。
「準備できました。始めます」
「どうぞ」
リュシエンヌは少しばかりの緊張感を持って、膝の上で手を組み合わせながら、ロジェの動きを見守った。ロジェは、やはり特段気張った素振りも見せず、自然な動作で楽器を構え直した。
そして、最初のシの音が鳴る。
メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲は、作曲された当時としては画期的な曲だった。それまで他の数多の作曲家によって作られてきた協奏曲というものは、だいたい冒頭にオーケストラによる前奏が長々と入っており、曲がある程度進んだところで満を辞して主役のバイオリンソロが入ってくるという構成が基本だった。ところがメンデルスゾーンは、曲が始まってからすぐにバイオリンソロをぶち込んだ。しかもその旋律は非常に印象的なことで知られている。要は冒頭のフレーズこそがこの曲を最も端的に表現するものであり、それ故に最初の音には並々ならぬ覚悟と美しさが求められる。
ロジェの演奏は──美麗である、と言わざるを得なかった。だがより正確に表すとすれば──それは、美麗であるようにと計算された技術力の賜物であった。「こうすれば良い音が出る」という、一つの正解を正確になぞっているような、……良く言えば優等生で、悪く言えば個性が無い。
もちろん、ロジェの方針が間違っているわけではない。美しい音色とは、磨き抜かれた演奏技術なくしては出せないものだ。下手な者がいくら気持ちを込めたところで、決して感動的な音にはならない。当然のことである。
だが、リュシエンヌには、ロジェが何を表現したいのか、いまいちよく分からなかった。
十数分間かけて、ロジェは第一楽章を弾き切った。楽器を下ろし、真剣な表情でリュシエンヌを見据えるロジェに、リュシエンヌはまず拍手を送った。
「上手。技術はしっかり身に付いているようね」
「わあ……! ありがとうございます!」
そう言ってやや頬を上気させたロジェに対し、リュシエンヌは笑みを絶やさぬまま、ずばりと切り込んだ。
「でも駄目ね。はっきり言って、つまらないわ」
「……えっ」
ロジェは体を硬直させ、ぱっちりとした目を更に大きく見開いた。
「つ、つまらない、ですか?」
「あなたが、美しい音色を実現するために、あらゆる技術力を注ぎ込んでいるのは、よく伝わってきたわ。でもね、それではお行儀が良すぎるの。見栄えだけ良くて中身がスカスカよ。月並みな言い方をすると、心がこもっていない、ってところかしらね。うふふ」
「心が……?」
ロジェは面食らっていたが、すぐに意を決したようにリュシエンヌを見つめた。
「お言葉ですが、そんな抽象的なことを指摘されても困ります。僕は、心のありようによって、演奏が左右されるとは思いません。技術とは、自分の体を如何に上手く操るかが鍵ではないのですか?」
「……あらあら」
骨のある生徒だなと、リュシエンヌは思った。リュシエンヌの言うことをまるっと受け入れる生徒は多いが、こうして意見をぶつけて来る生徒は稀だ。もちろん、ぶつけられるのはリュシエンヌとしても大歓迎だ。自分をしっかりと持っていた方が、将来有望というものである。
「そうね。では、言い方を変えるわ。ロジェ、あなたの演奏は非常に模範的だけれど、個性的ではない。私はね、この協奏曲に対するあなたなりの解釈を知りたいの。例えば、そうね……あなた、オペラや演劇や映画は好きかしら?」
「え……? 特に見ませんが」
「そうなの? まあいいわ。ああいう舞台って、歌手や役者が登場人物になりきって、台本にあるものを感情豊かに表現するでしょう」
「そう、ですね」
「バイオリンも、あれと同じよ」
「と言いますと?」
「演奏っていうのはね、演技と似ているというのが、私の持論なの。臨場感のある演技をするためには、気持ちの面から作る必要があるでしょう。実際の役者の心の内がどうであれ、演じる時には心身共に役柄に没入するでしょう。そんな感じで、あなたには、体を操るだけではなく、感情も操って欲しいの。曲を演じて欲しいってことね。分かるかしら」
ロジェはしばし考え込んでいる様子だった。
「……そういう視点を、僕は今までほとんど持っていませんでした」
ロジェは言った。
「心を込めれば良い音が出るだなんて、幼稚な夢物語だと思っていました。でも、解釈とか、演技とか言われて、なるほどと思いました」
「そう。良かったわ」
「僕の演奏を一度聞いただけなのに、そんなことまで見通してしまうなんて、驚きです」
「うふふ。……さあ、お喋りはこれくらいにして、レッスンに戻りましょうか。折角だから、今回の課題曲はこのままメンデルスゾーンで行きましょう。来週からはもっと難易度の高い曲を出すけれど、その話はまた後で」
「はい」
「では、もう一度冒頭のフレーズを頂戴」
「はい!」
リュシエンヌは終始笑顔を保ちつつ、ビシバシと指導を行なった。ロジェは飲み込みが早く、リュシエンヌの要求をすぐに演奏に取り入れたし、慣れないなりに曲の解釈に頭を捻って、恐れずに自分の意見を口にした。なかなか教え甲斐のある子だと、リュシエンヌは感じた。ついつい指導に熱が入ってしまい、二時間はあっという間に過ぎ去った。
「今日はここまでね」
「ありがとうございました!」
「ありがとう。……それで、来週からの話だけれど」
「はい」
リュシエンヌは棚から一冊の楽譜を取り出した。
「ロジェ、あなたこれ弾いたことあるかしら? ブラームスのバイオリンコンチェルト」
「いえ、ございません」
「あら。それならこれを次回までの課題にするわ。一楽章をさらっておいて」
名曲として知られるこのコンチェルトは、難易度の高さでもよく知られている。そう簡単にさらえるものではない。
だが、ロジェは嬉しそうに頷いた。
「承知しました!」
リュシエンヌも笑みを返した。ロジェは手早く楽器の片付けを済ませると、改めてリュシエンヌの方を向いた。
「それでは、今日はありがとうございました! また来週、よろしくお願いします!」
「ええ。楽しみにしているわ」
リュシエンヌはロジェを玄関まで見送った。そのまま出ていくかと思いきや、ロジェはくるりと振り返った。
「グリュンベール先生」
「あら、どうしたの」
「僕はあなたのことが好きです!」
リュシエンヌには、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……はい?」
「僕、バイオリンの教室を探している時に先生を見かけて、一目惚れしたんです。つきましては、僕とお付き合いをしては下さいませんか? そしてゆくゆくは結婚して頂きたいのですが」
満面の笑みで、ロジェはそんなことを言った。予想外すぎる発言に、リュシエンヌは完全に凍りついてしまった。
「……頭がおかしいの? それとも目が腐っているのかしら……」
「どちらでもありません! これは僕の純粋な気持ちなんです」
「あなたは私が既婚者だと知っているでしょう」
「存じてます! でも想いをお伝えしたかったんです!」
冷静になるのだと、リュシエンヌは自分に言い聞かせた。本来ならこのまま外に蹴り出してしまいたいところだが、ロジェは大事な生徒であり、技術力のある音楽家であり、貴重な収入源でもある。夫アンリの治療費のことを考えると、あまり邪険にしてはいけない。何とか理性的に、かつ穏便にお見送りをしなくては。
「……そう。確かに聞き届けたわ。意気だけは買いましょう。でも駄目よ。私とあなたはあくまで先生と生徒。バイオリンに関すること以外であなたと関わることは無いわ。今後ともそのつもりでいるから、来週までにすっぱりと諦めてきてね」
「はい!」
ロジェは元気に返事をした。これで本当に諦めてくれるかどうか、リュシエンヌは大いなる不安に襲われたが、それは胸の奥に押し込めることにして、ほんのり微笑んだ。
「じゃあ、気をつけてお帰りなさい」
「はい! ありがとうございました!」
ようやく、ロジェは玄関を後にした。
リュシエンヌは平常心でいられるよう注意しつつ、自分のバイオリンを仕舞い、アンリの容体を確認しに寝室へ向かった。
「アンリ、具合はどう?」
アンリは、こけた頬を緩ませてリュシエンヌを見上げた。
「今日はまあまあ調子が良いよ。新しい生徒さんはどうだった?」
「……技術はあったわ。曲の解釈については勉強不足のようだけど」
「そうかい」
「ええ」
あの唐突な愛の告白の件は、アンリの耳に入れたくないと、リュシエンヌは思った。たとえ、若者の一時の気の迷いだったとしても、自分がアンリ以外の男に好意を向けられただなんて、知られたくない。
だって、リュシエンヌとアンリは、思い合って結婚して、仲睦まじいまま今に至るのだから。リュシエンヌが愛するのはアンリだけだと誓ったのだから。
やれやれ、面倒なことになった。さっきまではロジェへの好感度が高かったのに、あっという間に複雑な気持ちになってしまった。全く、若気の至りとは恐ろしい。
今後のレッスンのためにも、今回のことは努めて忘れよう。
「お水、持ってくるわね」
リュシエンヌは台所に向かった。ありがとう、とアンリは言った。
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