竜の宝石への二重奏

白里りこ

プロローグ 妖精の国

 人間界を覗き込んでいる。遥か雲の下、ただ一点のみを見つめている。


 天上の楽園、妖精の国。そよ風に揺られてふわふわと草木がなびく丘。その端っこの崖のふちで、私は腹這いになっている。こんな高所からでも、持ち前の特殊な眼があれば、遠くまでお見通しだ。特にこの国は、いつの時代も人間の世界と繋がりを保つよう気を配っているから、容易く様子を観察できる。

「姫様!」

 後ろから耳馴染みのある声が私を呼んだ。瞬きをして振り返ると案の定、付き人である小さな赤い竜が飛んできていた。

「どうしたの」

「こちらにいらっしゃったんですか、姫様。お探し申し上げていたのですよ」

「そっか。ごめん」

「一体何をなさっていたのです?」

「例の人間を見てたんだよ」

「ああ……またですか……」

 付き人は小さな頭で俯いたかと思うと、上目遣いに小言を言い出した。

「姫様。仮にもこの妖精の国の女王の娘ならば、お世継ぎのことを真剣に考えなくてはなりませんよ」

「えー、やだ」

「そう我儘を仰らずに」

「……」

 私は幾分むすっとして、尻尾で地面を叩いた。

 私の一族はヴイーヴルという種の竜である。その中でも、妖精の国を長らく統治してきた血筋の竜だ。現に母親は立派に女王をやっている。

 ヴイーヴルの容姿は、他の妖精や竜を従えるのに相応しい、風格のあるものである。いかめしい顔つきの頭部、大きな口に鋭い牙、煌めく大きな目玉、がっしりとした足腰、全身を覆う乳白色の鱗、巨大な翼。

 ついでにもう一つ特徴を挙げるとするなら、ヴイーヴルは雌しか生まれて来ないという点だ。

 これでは繁殖は困難である。故にヴイーヴルは、子孫を残すために、稀に人間の雄を捕まえることがある。ヴイーヴルはなべて長命なせいもあって出産の頻度は低いのだが、夫となるべき存在が必要になることも当然あるから致し方ない。かの有名なメリュジーヌという名の水妖もまたヴイーヴルの親類で、遥か昔に人間の雄と結婚して子孫を残したと伝わっている。といっても竜の姿のままではどうしようもない。そこでヴイーヴルは、偉大なる力を備えた種族にのみ可能である変身能力を用い、人間の姿になって雄と会うのだ。

「でもさあ」

 私は再び目を人間の世界の方に向けながら、こぼした。

「王家の娘って言ったって、私は三女でしょう。母上も、毎日遊んでばかりの私には、特に期待していないみたいだし。世継ぎのことなら姉上たちの方が適任だって。私はもっと自由に楽しく生きたいの。窮屈な城の中でずうっと暮らすなんて嫌」

「そんなことを仰ってはなりませんよ。恵まれたご身分であらせられるのですから。それに……よりにもよって既婚女性に熱を上げておられるとは。身勝手が過ぎます」

「しょうがないでしょ。見つけちゃったんだから。あの子が私の運命の人なんだ」

 私は彼女の後ろ姿を見つめたまま言った。

 そもそも、私が最初に人間の世界を覗き始めたのは、結婚相手を探すためではなかった。師匠を探すためだったのだ。

 私は変身がすこぶる得意だった。故に、好奇心の赴くまま、人間にしかできないあれやこれやを試してきた。二百年ほど色んな遊びを体験したところで、私の一番のお気に入りの遊びが決まった。

 バイオリンである。

 実家の城には、私と同じく人型をとってバイオリンを弾くのを趣味としている家臣がいたから、彼女に手ほどきをしてもらった。あとは人間の世界を見て上手い人間の真似をしていた。だが最近は、本当に上手い人間から直接教わりたいという気持ちが大きくなっていた。

 一度人間の世界に降り立って、バイオリンを習ってみたいものだ。そう考えて人間の世界を見守っていたら、偶然見つけた。彼女を──リュシエンヌ・グリュンベールを。

 私は一目でその人間が好きになってしまった。疑いようもなく、これは一目惚れだった。

「どうして雌なんです。せめてお相手が雄であれば……」

「あのねえ。そんなの、大した問題じゃないんだよ」

「と、申しますと?」

「分からない? 簡単な話だと思うけどな。私が人間の雄に変身すればいい。子どもは相手に産んでもらう。それだけのこと」

「え? え?」

 付き人は狼狽していた。

「いや、いや、そんな、前代未聞ですよ。男女が逆転している婚姻だなんて。というか、相手が既婚者という問題も残っていますからね。姫様は、彼女の夫から彼女を奪うおつもりですか」

「うん」

 私は迷いなく頷いた。横恋慕、というものは人間界の倫理観からすると良くないものらしいが、私にはそれがあまり理解できていない。

「とにかく、やれるだけのことはやってみたい」

「……おすすめしません、とだけ申し上げておきます」

「まあ、もし結婚を断られても、バイオリンを教えてもらうことはできるだろうし。それだけでもいいんだ、私は。……一緒にいられるならそれでいい」

「……」

 私ははーっと溜息をついた。

「リュシエンヌ・グリュンベールがこうして人間の世界で生きているのも、私にとっては一瞬の出来事。できることなら一刻も早く、あの子に会ってみたいんだけどなあ」

「……姫様」

 しばらく沈黙が降りた。私は頭をもたげて付き人を見据えた。

「そういえば、あなたはどうして私を探していたの?」

「あっ、そうでした。もうすぐ城で集会がございますので、お呼びするよう仰せつかりまして」

「ははん。集会ねえ。そう言えばそんなものもあったなあ」

 私は首を捻った。

「んー……よし、決めた」

「何をですか?」

「母上に直接お会いできることなんてあまり無い。この機会に母上には、私が人間の世界に行くことを許可してもらおう」

「えっ?」

「ようし、そうと決まったら、急がなくっちゃ。行くよ」

「えっ? えっ……? あ、あわわ、姫様、お待ちくださいませ!」

 慌てている付き人の叫びを後ろに、私は大胆に翼をはためかせて舞い上がると、城まで一直線に飛んで行った。

 空は、目が眩むほどに青い。




 外壁が大理石で造られた壮大な城。他の多くの妖精よりうんと体の大きいヴイーヴルにとっては、暮らしやすい建物だ。

「構いませんよ。それがお前の望みであるならば」

 私の母、つまり女王陛下は、あっさりと私の希望を許した。

「お前が不便をしないよう、下級の妖精に、準備を整えさせましょう。戸籍も身分証明書も用意するよう言っておきます。そして、お前が行きたがっている国──フランスは、我が妖精の国との繋がりが最も深い地域。故にいつも連絡役の妖精を配置していますから、そこに身を寄せると良いでしょう。必要な物資も適宜こちらから届けます」

 あまりに至れり尽くせりなので、私はすっかり驚いてしまった。母がこんなに親切だとは知らなかった。

「母上、よろしいのですか。こんなにお世話になってしまって」

「まあ、勉強代です」

 母は言った。

「お前は上の子たちに比べてまだ若く、未熟です。今は、珍しい体験をすることを通して、心身を鍛えてきなさい。帰ってくる頃には怠惰な生活を改めて、妖精の国に貢献できるような人材に成長していることを願いますよ」

「……はい、母上。精進します」

 私は正直、人間の国で自分がどんな役に立つのかなどといった事柄にはちっとも興味が無かった。ただあの人に会いたい、それからバイオリンの腕も上げたい。目的はその二つだけなのだから。確かに私はさっき付き人が言った通り、姫として恵まれた生活をしてきたのだから、妖精の国のためになることをしなければならない……理屈は分かる。だが私だって望んで姫に生まれたわけじゃない。もし許されるのであれば身分など返上したっていいから、好きなもののために生きたい。

 ……ともあれ、難しいことを考えるのは後だ。人間の世界でうまくやっていけるよう下級の妖精たちが計らってくれるのならば、ありがたいことである。早速、好きにやらせてもらおう。

「ああ、それから」

 母が思い出したように付け足した。

「今はどうやら、人間の世界が大いに揉めているようです。巻き込まれないように注意すること」

「? はあ……」

 あそこでは揉め事なんていつだって絶え間なく起こっているではないか、と私は思ったが、口には出さなかった。

「分かりました。気をつけます」

「よろしい」

 そういうわけで、私は人間の男性に変身し、人間の世界、中でも芸術の都として名高いという、フランスのパリに降り立つことになった。

 未知なる新生活が幕を開ける。


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