第2話 隻眼のバイオリニスト

 新型コロナウイルスが流行し出してから早数年、相変わらず日本国内外の罹患者や死亡者が続出しているが、皆この状況にも慣れてしまって、危機感は薄れつつある。室内でのマスク着用義務や手指のアルコール消毒の義務だけは律儀に守られているが、政府は既にこの病のレベルを五類とやらに移行する予定でいるから、それもいつまでもつか。各種のイベントや集まりなども、再び開催されるようになってきた。

 そんな中で幸華さちかは先日、一人前のバイオリニストになるべく、音楽大学に入学した。一浪しているから、昨年の一年間は殊更に練習に明け暮れていてつらかったが、入学後はもっと厳しい競争の中に身を投じることとなる。改めて気を引き締めなければなるまい。

 一口にバイオリニストと言っても多種多様な活動形態があるが、幸華の夢は、プロのオーケストラに入団することだ。小学生の頃、勉強のために母が演奏会へ連れて行ってくれてからというもの、幸華はオーケストラに憧れを抱き続けてきた。その後も親にせがんで何度も演奏会に足を運んだ。その度に気分が高揚していたのを憶えている。

 今日がその夢への第一歩だ。今から幸華が向かうのは、一年生の中から希望者を募って結成されたオーケストラの練習場である。ここでの活動を通して、先生方からバイオリンの素質が認められれば、この大学の擁する正規のオーケストラに入団する権利が与えられる。

 大学には常設のオーケストラが三つあるが、幸華が狙うのはもちろん、その中で最も優秀なところ。一軍という俗称のある管弦楽団である。

 広くて綺麗で洗練されたデザインの学内をスタスタと早足で進み、幸華は練習会場に着いた。入口から中を覗いてみると、早く着いていたらしいバイオリン科の学生が幾人か、既に前列の席に座っていた。残された席のどこに着こうかと考えていた幸華は、急に声をかけられた。

「ね、ちょっといい? バイオリンの人で合ってる?」

「……?」

 見ると、バイオリンケースを背負った、やや背の高い茶髪の女性がいた。左目に黒い眼帯をつけているのが特徴的だった。加えて感染症対策のために黒いマスクを装着しているので、顔はかなりの面積が隠れてしまっている。ちょっと気の毒である。

 物珍しさについ眼帯を注視していた幸華は、慌てて目を逸らし、彼女の質問に答えた。

「……うん。セカンドバイオリン……」

 オーケストラではバイオリンはファーストとセカンドという二つのパートに分けられる。幸華は事前に、セカンドを担当するようにと伝えられていた。

「本当? 良かった! 私もセカンドなんだよね。良ければ一緒にプルトを組まない?」

「あ……うん……」

 オーケストラにおいて、弦楽器は基本的に二人一組で演奏することになっている。この二人組の単位としてプルトという言葉が用いられる。演奏する曲目によって、プルトが幾つ必要なのかが変わってくる。また、プルトを組む際に、客席側の椅子に座る者は表、奥側の椅子に座る者は裏と呼ばれ、両者で役割分担をするのが常だ。

「表と裏、どっちがいい?」

 眼帯の彼女に尋ねられ、幸華は少し迷ったが、すぐにこう返答した。

「……表」

「分かった。私が裏ね」

 幸華たちは、セカンドバイオリンの三つ目のプルトの椅子に腰掛けた。眼帯の女子生徒は、手に持っていたファイルの中から、可愛いマスキングテープで製本された楽譜を取り出して、プルトで共用の譜面台に置いた。

「これでよし。今日はよろしくね」

「……よろしく」

「私、銀川鈴乃ぎんかわすずの。鈴乃って呼んでね」

「……田宮たみや幸華です」

「幸華ね、了解。一緒に頑張ろう」

「……うん」

「初合奏、楽しみだね」

「え、あ、……うん」

「やっぱり大勢いるとテンション上がる! 幸華は?」

「あ……上がる、かも」

「だよねーっ」

 もう少し気の利いた返しができたらいいのに、と幸華は俯いた。

 人との会話はかなり苦手だ。これまでの人生だってろくに友達も作らずに、暇さえあればバイオリンの練習をしていたものだから、コミュニケーション能力というものが全く培われていないという自覚がある。

 ……まあ、別にいいか。

 今ここにいるバイオリニストは、全員がライバルなのだ。全員を蹴落として、一軍のオケに入る資格を得なければ。だから当然、鈴乃も敵だ。仲良しこよしをする必要は無い。むしろ踏み台にするつもりでいた方が良い。

 じきに、学生たちが思い思いに課題曲の練習を始め、練習場は音でいっぱいになった。やがて練習開始時間となり、指揮者の先生がやってきて指揮台に上がった。オーケストラのメンバーたちは、手順通りにチューニングを行うと、立ち上がって指揮者に「よろしくお願いします」の挨拶をして、再び席に座った。

「はい、よろしく」

 先生は言った。

「皆も知っている通り、この授業は、うちの正規のオケに入るためのオーディションという面がある。でも、折角集まってくれたんだから、ギスギスするばっかりでは何も面白くない。是非、楽しんで演奏して欲しい」

 先生はそう言うと、白い指揮棒を持ち上げた。

「早速やろう。まずはドヴォルザークの九番『新世界より』。いきなりだけど今から全楽章を通して、感覚を掴んで行くよ。途中でバテないよう気をつけてね」

 先生が指揮棒を上げると、ピリッとした緊張感が走った。指揮棒が振り下ろされ、ミの音から曲が始まる。

 さすが、音大に合格するだけあって、どの奏者も質の高い音を出す。

 負けるわけにはいかない。幸華はこの交響曲の醸し出す雰囲気に気持ちを寄り添わせ、時に丁寧に、時に軽快に、時に元気に、時に厳かに、音色を操った。周囲と息を合わせることももちろん必須だった──口頭でのやり取りはともかく、音楽を通じてなら幸華にだって周囲と調和することができる。その一環として幸華は、隣の鈴乃の演奏もしっかりと耳に入れていた。そして密かに度肝を抜かれた。

 鈴乃は、べらぼうに上手かった。音色の豊かさも、響きの美しさも、表現の多彩さも、周囲とのバランスの取り方も、全てが桁違い。隣で弾いているだけで自分の稚拙さが恥ずかしくなるくらいだ。

 一体どれほどの練習をすれば、こんなに上手くなれるのだろう。ああ、とんでもないライバルと同期になってしまった。

 だが嘆いている暇は無かった。先生は時間を少しも無駄にすることなく、さくさくと授業を進めていく。学生たちには雨霰と指導が入り、言われた点をすぐさま改善することが求められた。怒涛の勢いで指摘事項を並べ立てられた後は、即座に指揮棒が振り下ろされてまた音出し。目まぐるしいことこの上ない。

 授業が終わる頃には、幸華は疲労のあまり頭がぼんやりしていた。

「もう時間なので、今日のところはこれでおしまい。次回までにきちんと復習をしておくこと。ではお疲れ様」

 ありがとうございました、と学生たちは先生に挨拶をしたが、声に覇気は無かった。

 とっとと昼食を摂って無理にでも元気を取り戻して、次の授業に備えなければ、と幸華は回らない頭でそう考えた。力が上手く入らない腕をやっとこさ動かして、バイオリンを片付ける。

「疲れたね、幸華」

 鈴乃が声をかけてきた。

「え……ああ、うん。疲れた」

「ねえ、この後一緒にカフェテリアに行かない?」

 幸華はいっとき手を止め、改めて鈴乃を見た。

「……あの」

「うん?」

 こんな風に他人から気軽に食事に誘われることなんて、過去には数えるほどしか無かった。大学に入ってから今日までだって、毎日一人で食べていたのに。

「……いいの、かな」

「うん? 何が?」

「……何でもない。……私で、良ければ」

「ありがとう!」

 鈴乃は嬉しそうに笑んだ。

 そういうわけで幸華は、鈴乃と隣り合って座りながら、きつねうどんを食べていた。鈴乃は何故か、小さなヨーグルトのパックを一つだけ購入し、スプーンでちまちまと口に運んでいた。

「それしか食べないの」

「うん。これでいい」

「バテない?」

「平気!」

「ふうん」

 幸華はつゆの染みた油揚げを齧った。咀嚼しながら、何とは無しに鈴乃の横顔を見る。今はマスクを外している分、眼帯がより目立って見えた。それを差し引いて見ると、割と美人の類に入るのではないかと幸華は思った。

「……あの、鈴乃、……。聞いていいか分からないんだけど」

「ああ、もしかしてこれのこと?」

 鈴乃は左目の眼帯を指差した。

「……うん。それ……どうしたの」

「子どもの頃に怪我をしただけだよ」

「だけ、って……大怪我じゃないの」

「まあ、そうかもね。もう完全に見えなくなったし、見栄えも良くないから、眼帯で隠してるの」

「……。災難だったね」

「まあね」

 鈴乃はヨーグルトの最後の一口を食べ終え、水を一口飲んだ。

「ところで幸華は、何でオケの授業を選んだの?」

「……将来的に、プロオケに入りたいから」

「へえ。それならやっぱり、一軍狙い?」

「……うん」

「そっか。凄いね」

「別に……。……あの、鈴乃は……」

「私? 私は、えっと……オケに入るよりは、ソリストとして活動していきたいと思っていてね。でも折角、学生なんだし、視野を広げて色んな体験をしておきたくって」

「そう……。だったら一軍を狙ってはいないのかな」

「いや? レベルの高い環境に身を置く方が良い刺激になるだろうし、一軍に入れるなら入りたい」

「……そっか」

 では、やはり鈴乃も敵ということになる。こんな上手い人と争うことになるとは、ついていない。だがどんな条件であろうと負けるわけにはいかない。プロになったらもっと熾烈な争いが待っているのだ。

「そういえば」

 鈴乃が思い出したように話し出す。

「さっき、隣で幸華の音を聞いていて思ったんだけど」

 幸華の箸を持つ手が僅かにぴくっと動いた。

「何」

「いや、幸華って上手いなあと思って」

 完全に予想外の言葉だった。幸華は瞬きをした。

「……嘘。鈴乃の方がずっと上手い」

「私の話はいいから。……最初に私が幸華を見つけた時ね、何だかずっと真顔だし、おとなしそうな雰囲気だったから、バイオリンも弱くて暗い音を出しそうだなって、勝手に思ってたの」

「……ふうん」

 割と失礼な言われようだが、仕方ない。これまでだって、表情が暗いだとか、発言がそっけないだとか、他人に色々と苦言を呈されることがよくあった。

「でもね」

 鈴乃は続ける。

「いざ聴いてみたら、全然違ったから驚いた。幸華って、楽器を持つと雰囲気がガラリと変わるよね。びっくりするくらい情感豊かな音を出すものだから、凄いなって感心しちゃったよ」

「……そう……」

 そのような傾向にあるということは幸華も自覚している。幸華はバイオリンの演奏を通して、雄弁になれる。自由になれる。バイオリンこそが幸華の自己実現の手段なのだ。

「ねえ、どうやってるの? 弾く時、いつも何に気を付けてる?」

 鈴乃に尋ねられた幸華は、うどんを飲み込むと、考え込みながらゆっくりと答えた。

「一番、気を付けているのは、多分……心を込めること、かな」

「心」

「……正確には……考えたことをそのまま音に出せるように、工夫してる……」

「どういうこと?」

 んんん、と幸華は唸った。口で何かを説明する時になると、案の定上手くいかない。でも質問してくれた相手にがっかりされたくはないので、懸命に言葉を探す。

「何というか、まずは、曲に合わせて気持ちを作るでしょ……それで、表現したい気持ちを音に反映させる……。音楽の練習って、気持ちを如何に再現するか……そのための特訓だと思うから……そのために技術を磨くものだから……。私の理想的な音楽は、作っておいた気持ちを、忠実に、なおかつスムーズに、音で表現すること、かな……」

「ほー……」

 鈴乃は感心したように幸華を見た。幸華は急に恥ずかしくなった。

「……ごめん。喋りすぎた」

「そんなことないよ」

 鈴乃はにこりと笑った。上品な仕草だなと、幸華は思った。

「良い話だった。特に、気持ちを作るっていうのは、納得できる。演奏するということは、演技をすることと似ているって、私も思っているし」

「演技。……そっか。そうかもね」

「うん」

 それからは、幸華がうどんを食べ終わるまで、沈黙が続いた。汁を飲み干した幸華は、小さく一息つくと、しばしの逡巡を経て、口を開いた。

「さっきも言ったけど……バイオリン、鈴乃の方が、断然上手いと思う」

「そうかな?」

「うん……。鈴乃は、何か気をつけていること、あるの」

「んー」

 鈴乃はにこやかに言った。

「秘密!」

「え」

「……に、したいところだけど、少し教えてあげる。あのね、あまり根を詰めないこと」

「……え」

 意表を突かれた幸華は、僅かに口を開けた。

「私はリフレッシュの時間を大切にしてるの。だって、やる気をギラギラに燃やして、ずーっと集中して向き合い続けるのって、つらいし、しんどいし、疲れるし、楽しくないもの。やっぱり、ストレスが溜まった人が出す音と、純粋に音楽を楽しんでいる人が出す音って、違うものでしょう。長い音楽家人生、適度にストレスを発散しつつ楽しんでやっていく方が、ためになるよ」

「……そう」

 幸華はどうにも釈然としない気持ちに陥った。

 浪人中は、寝食も忘れるほどバイオリンに向き合って、自分をとことん追い詰めて、練習して練習して練習して……それでようやくこの大学に合格できた。少なくとも幸華にとっては、きつい練習こそが成功への道だ。

 恐らく、鈴乃は才能があるのだ。だから、死に物狂いにならなくても、あそこまで上達できる。それに比べたら幸華には才能が無い。凡人は、何かを犠牲にでもしない限り、上へは行けない。

「……」

 才能に溢れた人間なんて、この大学にはわんさかいることだろう。幸華はその中で頭角を現さねばならない。音大に入学した者のうち、本当にプロになれる人間は限られているのだから、うかうかしているとあっという間に転げ落ちてしまう。

 まずは、この大学の正規のオーケストラの一軍に入る。この目標のために、今後も励もう。

 他人を言い訳の材料にしている暇は無い。鈴乃にも、他の誰にも、決して負けられない。

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