第3話 教師かつ奏者として
リュシエンヌは意識的に柔らかい笑みを浮かべながら、ロジェを真っ直ぐ見た。
「初回だった先週は、好きな曲をやってもらったけれど、今週からは私が課題を与えるわ。まず、これ。知っているかしら」
リュシエンヌは机に置いていた分厚い楽譜の本を手に取ってロジェに示した。
「私のおすすめの、基礎的な音階練習のための教則本なのだけれど」
「いえ、存じ上げないです。基礎練習は別の楽譜を利用していました」
「そう。……ロジェは基礎的な技術は概ね身に付いていると思うけれど、入試では基礎の練習曲も出題されるから、改めて対策しておいて損は無いと思うの。それに、音階はやればやるほど役に立つものね。これは一旦貸してあげるから、いつもの基礎練習に加えて、これを今日から毎日みっちりやってね」
「はい!」
ロジェは本を受け取ると、ざっと内容に目を通した。
「へえ、凄い量ですね! ページが音符で真っ黒だ。これ全部音階なんですか?」
「大半がそうね。あらゆる種類の音階が網羅されているはずよ。後の方のページには、応用的な練習曲が収録されているの」
「なるほど」
周知の通り、バイオリンは、弦を指で押さえることで音程を調節する。その際に頼りになるのは己の慣れと感覚のみだ。ギターなどと違って、バイオリンには目印になる線も存在しないから、奏者は地道な訓練によって左手の指の間隔を体に叩き込んでおかねばならない。少しでも指の位置がずれたら違う音程になってしまう。全ての種類の音程を、ミリ単位で、正確に、瞬時に、ピシャリと当てることが、バイオリニストに最低限求められる技術なのだ。ついでに、音程を正確に当てられれば音色や響きも良くなるので、そういった意味でも音階の練習は有意義だった。
「それじゃあ、基礎練習の話は一旦ここまで。今日はもう、曲の練習に移りましょうね」
「はい」
ロジェは鞄の中からごそごそと自分用の楽譜を取り出した。
「ブラームスの手応えはどうかしら?」
「かなり骨が折れましたが、ひとまずグリュンベール先生にお聞かせできるくらいにはなったと思います!」
自信満々に言い切るロジェが何だか可笑しくて、リュシエンヌは苦笑した。
「それは楽しみね。それじゃ、始めて頂戴。まずは通しで聴きましょう」
「はい!」
ロジェは真剣な表情でバイオリンを構えた。
ブラームスのバイオリンコンチェルトは、オーケストラによる前奏の後、バイオリンソロによる悲哀を帯びた激しい旋律が展開される。バイオリニストにとってはお馴染みの出だしだ。どっしりした低音とそれに続く音の駆け上がりの後には、重音と言って同時に二つ以上の音を出すよう記譜がしてある。そこを過ぎれば、今度は速い音階の嵐。他にもまた、厄介な重音だの、眩暈がするほどの高音域だの、様々な技術が求められる。
「ふう……」
一通り弾きこなしたロジェは、すっと力を抜いて楽器を下ろし、リュシエンヌの顔を伺った。リュシエンヌは彼に優しく微笑みかけた。
「ふふっ。全然駄目ねえ」
「ぜっ、全然駄目!?」
ロジェは驚愕の表情を浮かべたが、リュシエンヌは手を緩めない。
「そうよ。お話にならないわ」
「ええっ!? こ、これでも一週間ずっと頑張って来たのですが」
「あら……。寝言は寝てからお言いなさいな。結果が伴わない努力なんて、何の意味もないわ。そんなものを自慢したところで、何にもならないのよ」
「……」
ロジェは言葉を詰まらせて黙り込んだ。落ち込むかと思って見ていたが、ロジェはじきに声を上げて笑い出した。
「あは、あっははは。仰ることが結構キツいですね、グリュンベール先生」
リュシエンヌは頷いた。見込み通り、骨のある子だ。
「よく言われるわ。それで辞めちゃう子もいるくらいなの」
「そうなんですか。それは勿体無い」
「ふふっ。……で、まず言いたいことがあるのだけれど」
「はい」
「先週教えたことがまだあまり身に付いていないようね。あなたは、表情豊かに演奏することを、後回しにしているでしょう。まずは技術的に一通りさらえるようになってから、表現を付け加えようとしている」
「あ……はい」
「逆にしてみましょうか。最初の段階で、何を表現したいのか考えておくの。練習というのはね、そうして研究した理想に沿って、技術を工夫していくものよ」
「なるほど」
ロジェはどうして音楽をやりたいのだろう、とリュシエンヌは不思議に感じていた。表現者を志すならば誰しも、多かれ少なかれ音に乗せて届けたい感情があるものだと思っていたが、どうもロジェからはそういう気迫を感じない。
この世界には実に多様な人間が生きているのだと思い知らされる。
自分の教育方針は果たして正しいのだろうか。純粋に技巧を極めんとするロジェには、もっと別の、相応しい指導法というものがあるのではないか。自分が口を出したせいで、ロジェの持つ良さが潰れてしまいはしないだろうか。
……いいえ、とリュシエンヌは思い留まる。
この子はリュシエンヌの力を信じて、丸一週間の練習の末に二回目のレッスンへ足を運んでくれた。その信頼に最大限応えるのが、教師の務め。
自分から提供できるものは何でも与えよう。そこから何を学ぶかは、ロジェ次第。
リュシエンヌは改めてロジェを見据えた。
「ロジェ、参考までに聞きたいのだけれど。あなたは何が楽しくてバイオリンをやるの?」
ロジェは真面目くさった顔でリュシエンヌを見つめて答えた。
「音が出ると面白いので」
リュシエンヌはきょとんとした。
ちょっと、予想外な答えだった。
「音?」
「はい。他にも楽器を試したことはありますが、バイオリンの音が僕の一等のお気に入りです。美しい音を出せると幸せな気分になります。だから極めたいのです」
「……へえ」
単純明快にして稀有な志だ。
ふわりと、幼い頃の記憶が蘇る。
親に買ってもらった子ども用のバイオリン。先生の言う通りに顎で挟んで、弓を弦に当てがって、初めてラの音を出した。あの時の興奮。
音を出すことそのものを、純粋に楽しんでいた瞬間。
そんな最も根源的なところから来る動機を、ロジェは持ち続けているのか。それは非常に尊いことのように、リュシエンヌには感じられた。
「そうなのね。教えてくれてありがとう」
「はい」
ロジェは他のことは考えず、ただひたむきに美しい音だけを追求しているのだ。それでああいう弾き方になるのか。
透明度の高い湖のような音色──綺麗すぎて魚が住めない程の。
どうにか、この長所を生かしたまま、もっと自由で多様な奏法も覚えさせて、上の段階に行かせてあげたい。
この先の人生をバイオリンで戦っていくなら、武器の種類は多い方が良い。
「では、最初から考えてみましょうか。この出だしはどういう意図で弾きたい?」
「意図……。あの、えっと、大きくしている、つもりですが」
「そうよね。何かこう、ドーンと行きたいところよね」
「? ドーン、とは何ですか?」
「えっとね」
しまった、つい自分の感覚で喋ってしまった。
「重みをつけて、存在感を出して、堂々と、という感じかしら。満を辞して真打が登場する場面であること、そこから一気に高音へと駆け上がる一歩目であること……それらを踏まえて、深みのある派手さを出したいところね」
「なるほど、ドーン、とはそのような意味なんですね!」
「まあ。ふふっ、違うわよ。今のは私の声音とか、勢いとか、表情とか、動作とかで、弾き方を表したんだもの。そこを汲んでくれないと。同じ『ドーン』でも、『ドーン!』と『ドーン‼』だと、全然違うでしょう」
「ああ……! 確かに仰り方が異なっていらっしゃいますね」
「全く、困った生徒さんねえ。こんな子は初めて。音楽院に入れば、もっと擬音語が多い先生もいらっしゃるわよ。言葉選びだけでは伝え切れないことも多いのだから。今後は他人の喋り方や雰囲気も注視するようにね」
「はい! そうします」
「じゃあ、最初のレの音を頂戴。一音だけでいいわよ」
「はい」
こんな調子で、リュシエンヌは今週もビシバシと指導を行なった。今回は実際に弾くのに加えて、一緒に考える時間を頻繁に設けた。ロジェはどちらにも真剣に取り組んでくれた。
やがて時間切れとなり、リュシエンヌは次回までの課題を申し渡した。ロジェは元気良く礼を言って、楽器と楽譜を片付け出した。リュシエンヌも楽器を拭く布を出すために、机の上のケースを開けた。その拍子に、机から一枚の紙が落ちた。それは床を滑ってロジェの足元まで行ってしまった。
「あら」
「拾います」
ロジェは身を屈めて紙を拾い上げた。ちらりと紙に書かれている内容を見たロジェは、興味深そうに尋ねてきた。
「グリュンベール先生。この楽譜は何ですか?」
「それは……」
リュシエンヌはもじもじした。
「私が書いたのよ。バイオリンの独奏曲」
「へええ!」
ロジェの目が輝いた。
「先生は作曲もなさるんですか! 凄いですね!」
「凄くなんてないわ。出版できるようなものでもないし。今のところはただの落書きのようなものなのよ」
別に謙遜でも何でもない。単なる事実だ。音楽院で作曲を習った訳でもないし、手慰みに独学でやってみたまでのこと。
だがロジェは尊敬の眼差しでリュシエンヌと楽譜とを見比べた。
「見た感じ、良い曲だと思いますよ! 特にここの旋律、僕は好きだなあ。フーンフフーンフンって言うところ」
「そう……ありがとう」
「そうだ!」
ロジェは一段と明るい声で言った。
「折角ですし、この曲のお披露目会をしましょうよ! 僕の家で!」
思いもしなかった提案に、リュシエンヌは少なからずぎょっとした。
「お披露目?」
「はい! 前も申し上げた通り、両親は音楽喫茶を経営しているのですが、店ではレコードをかけるだけではなく、音楽家の方に来て頂いて生演奏をお願いすることもあるんです。グリュンベール先生なら大歓迎ですよ! お客さんの前でこの曲を弾いてみましょう!」
急な話に、リュシエンヌは激しく狼狽していた。
「そんな、大層なものでもないのに。こんな、ただの素人が書き散らしたもの」
「ええー、とても立派で素敵な曲じゃありませんか! 僕は聴いてみたいなあ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけれど、嫌なものは嫌」
「どうしてですか? 謝礼は弾みますよ」
「……」
リュシエンヌが詰まった隙に、ロジェは畳み掛けた。
「あはっ、決まりですね! 早速帰って、両親に許可を取って来ます。では、今日はありがとうございました! またお願いします!」
「……あの、ロジェ」
「それと、今日もお慕いしております、グリュンベール先生! では失礼します!」
ロジェは、羽でも生えているのかと錯覚する程の軽い足取りで、教室を出て行ってしまった。
「まあ……」
なにゆえ去り際にまた好意を伝えられたのか。先週きちんと手酷く振ったというのに、ロジェは全く懲りていないようだ。まさか毎週あのように気持ちを言って来るつもりだろうか。正直とても鬱陶しい。
……そんなことより、ともかく。
「どうしましょう」
リュシエンヌは困り果てて、楽譜を手に取った。作曲活動に手を付けてからまだ日が浅いのに、こんなに早く他人に聴いてもらう機会が来るなんて、想定していなかった。嬉しさよりも、恥ずかしさと焦りの方が先に立つ。
リュシエンヌは自分の楽器を手に取り、顎に挟んで構えてみたが、すぐに下ろしてしまった。
まだ、これを人前でやると決まってはいない。それに、今は動揺している。
「お夕飯の用意、しなくっちゃ」
ここは別のことをして気持ちを落ち着けよう。そしてアンリに話を聞いてもらおう。
リュシエンヌは籠を手に持ち、薄手の外套を羽織って外に出た。パンと牛肉を購入して帰途につく。台所で肉を焼いて、じゃがいもを付け合わせにして、パンも皿に乗せた。この頃は物価が高騰しているから、品数は控えめだ。
準備が整ったところで、寝室にアンリを迎えにいく。起き上がるのを手助けして、車椅子に乗ってもらい、食卓まで押して行く。
「いつもありがとう」
「どういたしまして。さあ冷めないうちに頂きましょう」
簡単に祈りの言葉を言ってから、二人は料理に手を付けた。
「あのね、アンリ」
「うん?」
「さっきロジェ・ランヴァンに、私の作った曲を音楽喫茶で弾かないかと言われたの」
「へえ」
アンリはゆっくりとフォークを動かしながら言った。
「君は何て答えたんだい?」
「特に何も。でもあの子はすっかりやる気になっているの。困ったわ」
「おや、何故困るのかな」
「自信が無いの」
「珍しいね」
「そう?」
「だって君は、自信が無いなら自信が付くまでとことん練習するだろう」
「それは弾く時の話よ。作曲は勝手が違うわ」
「いや、同じだよ。納得行くまで書き直せば良い」
「……」
リュシエンヌはしばらく、肉をもぐもぐやりながらアンリを見ていた。
「……それもそうね」
「うん。僕も協力するよ。意見を述べるくらいしか出来ないが」
「ありがとう。助かるわ」
共に音楽を学んだアンリだ。感性は信用できる。
「本番は僕も聴きに行きたいな」
「あら……。体は大丈夫なの」
「少しなら問題ないよ。君の晴れ舞台を見逃すことの方が、後悔が大きくなりそうだ」
「ふふっ。まだ弾くと決まったわけではないのよ」
そう言ったリュシエンヌだが、翌々日の朝には、ロジェからの手紙が届いていた。リュシエンヌの出演について両親が快諾してくれたので、次のレッスン時に日時を調整したいと言う。ありがたいことに謝礼の金額も記されていた。
もう、後には退けなくなってしまった。
リュシエンヌはアンリが車に乗るのを手助けし、後ろにバイオリンと車椅子を積んで、自分も車に乗り込み運転席に座った。事前にもらった地図を頼りにパリ市内を走り、ランヴァン家の経営する音楽喫茶「カフェ・グルナー」に辿り着く。
ゴロゴロと車椅子を押しながら向かうと、店先ではロジェが出てきて待っていてくれた。
「こんにちは! お待ちしておりました、グリュンベール先生」
「こんにちは、ロジェ。こちらは私の夫のアンリ」
「どうも、アンリ・グリュンベールです。よろしく」
「よろしくお願いします。お会いできて光栄です!」
「こんなご時世なのにお招き頂いて感謝しているわ」
これまで沈黙を続けてきたドイツ軍が動き出したという報があったのは、一昨日のことだ。フランスに隣接するベネルクス三国が侵攻されたと、リュシエンヌはラジオで聞いていた。
戦況が悪くなったら喫茶店の経営も難しくなるだろう。だがロジェはちっとも憂えた様子がなく、嬉しそうにしている。
「何てことはありませんよ。こちらこそ、おいで下さって感謝しております。さあ中へお入り下さい」
「ええ、お邪魔します」
キイ、と扉が開いて、リュシエンヌたちは店に案内された。
カフェ・グルナーは、古風な内観の喫茶店であった。幾つかの丸い机と布張りの椅子が置かれていて、席はそれなりに埋まっている。壁や調度品は木目調で、どこかほっとする雰囲気だ。右手奥の方に簡素な舞台のような場所が設けられており、譜面台が一つ立っていて、その奥にはアップライトピアノが鎮座している。
ロジェは進んで車椅子を押す役目を引き受けた。
「ご主人は一番前のお席へどうぞ。ああ、こちらが僕の両親です」
「初めまして、グリュンベール先生。ロジェがお世話になっています」
「お会いできて光栄ですわ。今日はどうぞよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
リュシエンヌは二人と握手をした。ロジェはにこにこしていた。
「それじゃ、先生は一旦こちらの控え室へお入りください。僕はここで待っておりますので、準備が出来たらお声がけをお願いします」
「分かったわ」
控え室には簡素な机と椅子があって、ご丁寧に全身鏡も用意してあった。リュシエンヌは楽器と鞄を机に置き、まずは紺色のドレスを身に纏った。鏡を見ながら、長い黒髪をささっと編み込んでシニョンにし、化粧直しを済ませた。
次いで楽器ケースを開ける。古くなっていた弦は、この日のために張り替えた上で弾き込んで慣らしてある。贅沢を言うと弓の毛も張り替えてもらいたかったが、まだそこまで古びてはいなかったので今回は諦めた。
音をしっかり鳴らせるように、弓の毛に松脂を滑らせる。バイオリンの本体には顎当てを設置。いつもより念入りに四つの弦の音程を調整する。曲の冒頭だけ試しに弾いて、今日の調子を確かめる。
「……よし」
リュシエンヌはいつも通り深呼吸してから、扉を開けて廊下に出た。すぐにロジェが気付いて歩み寄って来る。
「わあ、素敵な衣装ですね。いつもお美しいですが、今日は一段と輝いて見えます」
「まあ、ありがとう。ちょっと気合いを入れすぎたかしら」
「そんなことはございません。お似合いです。今から舞台袖までご案内しますね」
「ええ、よろしく」
リュシエンヌは拍手をもって舞台に迎えられた。
「こんにちは。リュシエンヌ・グリュンベールと申します。今回は教え子のロジェ・ランヴァンくんのお招きで参りました。今から演奏いたします曲は、自作のバイオリン独奏曲、『ワルツ イ短調』です。よろしくお願いします」
またしても拍手が湧く。リュシエンヌは楽器を構えて、すうっと息を吸い込み、優雅な舞踏曲を奏で始めた。
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