第4話 デュエットの約束を

「あ、いたいた。幸華!」

 講堂の中、大袈裟に手を振りながら階段を登って近付いて来る者がある。黒い眼帯をつけたその姿は、数多の学生たちの中でも一際目立って見えた。

「……鈴乃」

「あー、知ってる人が見つかって良かった! ここ座っても良いかな?」

「良いけど……」

「ありがとう!」

 鈴乃はストンと幸華の左隣に座ると、鞄を雑に机の上に置いた。

「だるいよねえ、座学」

「……そうかな」

「西洋音楽史なんてテキスト読めば分かるもん。それなのに一年生の必修科目で、しかも出席を取るなんて。ひどいカリキュラムだよ」

「そっか」

「だから私、寝るね。終わったら起こしてくれる?」

「寝るんだ」

「うん。どうせまだロマン派の時代辺りをのろのろと進めているんでしょ? そんなのとっくの昔に勉強してあるから知っているし、聞かなくてもテストは解けると思うから」

 そう言って机に突っ伏した鈴乃を、幸華は呆れた気持ちで見下ろした。音大の学生は皆苛烈な競争を勝ち抜いて来たのだから、学ぶのに熱心なものかと思っていたが、そんなことは無かったらしい。何ともったいないことであろうか。青春の時を全て練習に注ぎ込み、馬鹿みたいに高い学費を払うことで、ようやく音大の学生として講義を聞く権利を得られるというのに、その機会をむざむざと捨てるとは。まさかこの講義の貴重さが鈴乃には分からないのだろうか。

 やがて先生が教壇に立った。前方のスクリーンに画像が映し出され、講義が始まる。幸華は集中して話を聞き、内容を分かりやすくルーズリーフにまとめていく。名のある大学が大勢に向けて用意した講義なのだから、当然ながら有意義なものであるに違いない。こんなに恵まれた環境なのに、お話をむざむざと聞き漏らしては、罰が当たるというものだ。殊にロマン派には、クラシック音楽で王道かつ定番とされる楽曲が数多くあるのだから、理解を深めることは重要であるに決まっている。

 何事も、手は一切抜かない。出来ることは全部やる。全力で知識と技を吸収し、大学の頂点まで上り詰めてやる。

 一時間半の講義を終いまでしっかりと聞き、幸華はやっと肩の力を抜いた。うーん、と伸びをしてから、鈴乃の肩に触れる。

「鈴乃。終わった」

「んあ?」

 眠たそうに顔を上げた鈴乃は、幸華の取ったノートを勝手に覗き込んで、渋い表情をした。

「まだそこ? せめてチャイコフスキーくらいには到達すると思ったのに」

「ロマン派は人数が多いから」

「現代音楽だって人は多いよ。早く現代の話にならないかな」

「現代音楽が好き?」

「んー、嫌いではない」

「そっか」

「そんなことより、早く食堂に行こう」

「あ、うん」

 幸華はルーズリーフを失くさないようにファイルにきちんと綴じて、鞄に荷物を入れてから、立ち上がった。

「……お待たせ」

「んーん、平気。さ、早く行こ行こ」

「うん……」

 同じプルトに座ったあの日以来、鈴乃は何かと幸華に付き纏うようになった。最初は戸惑っていたし、ライバルとして警戒していた幸華だったが、他に一緒に過ごす友達も作っていなかったし、わざわざ邪険にする理由も無いので、今は成り行きで受け入れている。

 今の講義の他にも、鈴乃は幸華には理解できない行動を取ることがままあったが、不思議と嫌悪感は湧かなかった。真面目にやらずとも上手く弾けるのだから、鈴乃には鈴乃のやり方があるのだろうと思うことにしている。

 むしろ、コミュニケーションが苦手な幸華に積極的に絡んでくれるので、その点に関しては感謝している。気安く接することが出来る相手がいることは、思いのほか嬉しいものだった。

 カフェテリアはいつも通り混雑していた。二人分の席を何とか確保し、幸華と鈴乃はそれぞれランチを買いに行った。

 幸華は学食のカレーライス。鈴乃はいつも通り、購買のヨーグルトの小さいパックを一つだけ。

 このあまりにも少量の食事を、鈴乃はゆっくりと食べる。スプーンの進みが遅いのは、大方お喋りをしているせいだ。幸華はたまに相槌を打つくらいでほとんど喋っていないのに、鈴乃は飽きずに次々と話題を出してはひたすら話している。

 今日は、幸華が食べ終えてスプーンを置いたタイミングで、鈴乃が身を乗り出して来た。

「ねえ、幸華」

「何」

「この前、学内発表会のお知らせがあったでしょ」

「うん」

「私、あれのアンサンブルの部に出たくて。良いバイオリンデュエットの楽譜があるから」

「へえ」

「幸華、協力してくれない? 一緒に出ようよ」

「! ……」

 いや、私にはソロ曲とオーケストラの練習が、と言いかけてやめた。

 条件は鈴乃も同じだ。鈴乃にもソロとオケがあるのだから、これは断る理由にはならない。それに、場数を踏んだ方が今後のためになると思う。オーケストラのメンバーになれたとしても、アンサンブルなどを組む機会は沢山あるのだから、経験値を溜めておくのも悪くない。

 それに、これまで他人にこんな風にお誘いを受けたことなど、数える程しか無いのだ。鈴乃が幸華を選んでくれたのを、無碍にするのは心苦しい。

「……私で良ければ」

 幸華はそう言っていた。鈴乃はぱっと顔を輝かせた。

「本当? やった! 私、この曲を一緒に弾いてくれる人を、ずっとずっと探していたの」

「ふうん」

「楽譜はね、実家に仕舞い込まれていたのを偶然見つけたんだけど、これがなかなか良いもので」

「何て言う曲?」

「『竜の宝石への二重奏』!」

「……ん?」

 風変わりな名前だ。聞いたことが無い。

「ちょっと待って、今楽譜出すから」

「持ち歩いてるの?」

「そう! これ!」

 鈴乃は満面の笑みで、数枚の紙を差し出してきた。一つは総譜、一つはバイオリンのファーストのパート譜、もう一つはバイオリンのセカンドのパート譜だった。

 それぞれ題名のところにはフランス語らしき文字が印刷されており、作曲者名のところにはL.Grumbertと記されている。

「グランバート……? 誰?」

「グリュンベール」

「ん?」

「リュシエンヌ・グリュンベール。フランス出身のバイオリニスト」

 幸華は首を傾げた。

「知らない人……」

「まあ、決して有名な人ではないからね。残念ながら」

「現代の人?」

 リュシエンヌというのは多分、女性の名前だ。そして女性が作曲家として活動できるようになったのは現代以降。

「うん。二十世紀の人」

「二十世紀」

「生まれは一九一四年」

「なるほど」

 となると、同郷で同年代の作曲家としては「フランス六人組」の面々などがいるだろうか……いや、違う。彼らより一回りくらい若いような気がする。

 幸華はざっとスコアに目を通した。短い曲だ。軽快そうな二拍子。最初に出たテーマが、他のメロディーを挟んで繰り返し出現する、ロンド形式。単純そうな作りだが、技術的には上級者向けと言って良いだろう。学内発表会でも聴き映えがするに違いない。

 とりあえず、一つ疑問に思ったことを質問しておく。

「あの……竜の宝石って何」

「さあ?」

「ご両親とかに聞いてないの」

「聞いたけど分からないって」

「そっか」

 謎の表題だ。題したからには何かしらの意図があるのだろうが、何を指しているのかまるで分からない。確か、西洋の一部地域では、ドラゴンには宝石を溜め込む習性があると伝わっているとかいないとかいう話を思い出したが……記憶があやふやで不確かだ。

 それにしても、無名のフランス人バイオリニストの楽譜が、海を越えて日本の家に仕舞われていたとは。鈴乃の祖先に、関係者でもいたのだろうか。

「どう? やってくれる?」

 鈴乃が期待の眼差しを向けてくる。こうして当てにされるのは悪い気分ではないなと、幸華は思った。

「……うん」

「わーい! ありがとう!」

「パートは、私がセカンドを弾くので良いんだよね」

「どっちでも良いよ!」

「折角だし、持ち主がファーストをやるのが良いと思う……」

 こう言う時のファーストとセカンドというものは、別に巧拙や序列によって決めるものではないのだが、主旋律を受け持つことが多いファーストが主導権を握るのが慣例である。

「そう? じゃあ私ファーストやるね!」

「うん」

「初合わせ、いつにしようか。明日とかで良い?」

「え、いや、私にとっては初見だから……。今日を入れて二日は欲しい」

「分かった! 明後日に時間を作って合わせをやろう!」

「うん。練習、しておく……」

「よろしく! あー、嬉しいな!」

 鈴乃は見るからにほくほくしていた。幸華はスコアとファーストの楽譜を鈴乃に返した。

「セカンドのは、コピーして明後日に返すよ」

「あ、良いよ良いよ。それもうコピーしてある奴だし、そのまま使っちゃって。スコアもコピーだからあげる。はい」

「……どうも……」

 幸華は貰った楽譜を丁寧にファイルに仕舞い込んだ。

「さて、午後のコマはようやく実践だ! 私はそろそろ行かなくちゃ。幸華はこの後どうするの?」

「空いてるから、自主練……」

「そっかあ。頑張って」

「……うん」

「それじゃあね!」

「うん」

 去りゆく鈴乃に、幸華は遠慮がちに手を振った。

 幸華も早めに練習室に行って場所を確保した方が良い。やる曲が増えたことだし、練習スケジュールも組み直さなければ。

 オーケストラの課題曲であるドヴォルザークの交響曲の練習も手を抜けないが、今はソロの課題曲として選んだベートーヴェンのバイオリンコンチェルトの質を上げるのが優先かも知れない。技術的な難易度で言えば圧倒的にコンチェルトの方が高い。基礎練の後に軽くベートーヴェンに触ってから、デュエットの譜読みを始めよう。

 そうしてあっという間に一日は過ぎた。

 さっさと帰って夕飯を食べて、家でも練習だ。バイオリンケースを背負ってさっさと構内を後にした幸華は、電車とバスを乗り継いで帰宅した。

 無駄に広い庭を突っ切って、家のドアを開ける。スリッパに履き替えてリビングルームまで向かうと、テレワーク中だった父親が、パソコンから顔を上げた。

「おお、お帰り、幸華」

「……ただいま。仕事、部屋でやらなくていいの」

「何だかここでやる方が捗るんだよ。ああ、もうこんな時間か」

「お母さんは」

「今日は会社に行ってる。帰りは遅くなるって。ご飯はいつも通り、お手伝いさんが作ってくれたから、先に温めて食べようか」

「うん」

 食卓に、おかずを並べる。ぶり大根、高野豆腐、ほうれん草のおひたし、きんぴらごぼう、お漬物。それに白いご飯と、しじみ汁。毎度のことながら、ちょっと品数が多い気がする。

 幸華は黙々と箸を動かした。だが父親が色々と話しかけてくる。

「今日は、大学はどうだった?」

「……まあまあ」

「何か面白いことはあった?」

「別に。……ああ、でも」

「うん?」

「バイオリンのデュエットに誘われた」

「デュエット! 誰に?」

「銀川鈴乃っていう……同期の子」

「ひょっとしてお友達?」

「え、あ……多分友達……」

「ひゃっほう!」

 父親が急に立ち上がって万歳をした。

「幸華に友達が出来た! めでたい! めでたいぞー!」

「あの」

 恥ずかしくなるから、あまり大騒ぎしないで欲しい。

 その時、ガチャッと玄関の扉が開く音がした。

「ただいま」

「おかえり」

「聞いてくれお母さん! 幸華にお友達が出来たんだ! 一緒にデュエットをやるらしいぞ!」

「はあ?」

 母親は疲れた様子で、キッチンに入って手を洗った。

「お友達? あなたに?」

「あ、うん、多分……」

「どんな子なの」

「……目が片方しか無くて」

「え?」

「あと、あんまり真面目じゃない」

「は?」

「でも上手い……。同期の中ではトップクラスに入りそう」

「上手いって、バイオリンが?」

「うん」

「そう。良かったね」

「良かったよおお!」

 父親がまたもハイテンションで割り込んで来る。

「昔から幸華はちっともお友達と遊ばなくて、お父さんは心配してたんだぞ!」

「あ、そう……」

「この子には遊ぶ暇なんて無かったでしょ。プロになりたいんだから」

「お母さんは厳しいなあ。そんなに練習漬けでは、情操教育に問題が出てくるよ。若者はもっとのびのびと遊んだ方が……」

「何? 文句でもあるの?」

「えー、文句と言うか何というか」

 何故、今更になって、娘の教育方針で揉めるのか。こちらはもう成人しているのに……。面倒なことになりそうなので、幸華は急いでご飯をかき込んだ。

「ご馳走様。……部屋に行く」

「また話を聞かせてくれよ、幸華!」

「あー、うん」

 生返事をして自室に上がる。置きっ放しにしていた譜面台に「竜の宝石の二重奏」の楽譜を乗せる。ほとんど無意識的にバイオリンを取り出して調弦し、簡単に音階練習をした。改めて譜面台に向き合い、構えの姿勢を取る。

 思えばこうして練習ばかりの人生を送ってきた。小学生の頃はまだ誰かと遊ぶ余裕があったが、家に帰ってからは必ず二時間以上は練習していたし、中学・高校でも部活に入らずに練習に明け暮れた。夏季休暇には合宿に参加してオーケストラの経験を積み、冬季休暇にはバイオリン教室の先生が主催する演奏会のために朝から晩まで稽古した。

 それでも優秀な人間には遠く及ばない。

 音大には現役合格できなかった。

 浪人中に寝食を忘れて練習して、ようやく合格を貰っても、鈴乃のような人物がいて、やっぱり手が届かない。プロになるためには、あと幾つの壁を突破せねばならないのか。

 自分には才能が無いのだと思いたくなる。

 だがそれは恥ずべき発想だ。上手く出来ないのなら、他人より長時間の練習を、他人より質の良い練習を心掛ける。それを徹底せずに言い訳をして逃げるのは甘えだ。

 ──あまり根を詰めないこと。

 鈴乃の言葉が脳裏をよぎる。

 そんなの、と幸華は歯を食いしばった。

 限られた人間にしか許されないやり方だ。

 幸華には時間を無駄にする余裕は無い。意地でも這い上がって食らい付かなければ。

 せめて今は、鈴乃とデュエットで並び立つに値するくらいのレベルになりたい。

 ギッ、と弦に置いた弓を持つ手に力が入った。体の強張りを解くために、幸華は一旦弓を下ろした。

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