第5話 状況は変わってしまった

 先日はありがとうございました、お陰様で大反響でした。

 ロジェがそのように言ってくれてから、四週間ほど経った頃。毎回ロジェは目覚ましい成長を見せ、ブラームスのコンチェルトも第三楽章をさらうようになった。ついでに毎回欠かさず元気に愛の告白をして来たが、良い加減に慣れてしまったリュシエンヌは軽く受け流していた。もはやちょっとした挨拶と化している。

 この頃になると、リュシエンヌの受け持つ他の生徒たちが何人か、レッスンをやめると言い出していた。昨今の物騒な情勢のせいである。そんな中でも毎週きちんと教室に足を運んでくれる生徒もいた。ロジェもその一人だ。

 その週は特にパリ中が大変な騒ぎになった直後だったのだが、ロジェは変わらず教室に来た。

「逃げなかったのね、ロジェ」

「はい! パリを離れることに特に意味は無いと思ったので」

 ロジェはにこにことして答えた。

「先生こそ、お逃げにならなかったんですね」

「あの混乱の中、夫を連れてパリを出るのは難しくて」

 先週の金曜日、ドイツ軍の手によって、パリは陥落した。フランス軍ならばもう少し善戦するだろうと誰もが思っていただけに、このあっという間の敗北は衝撃的だった。

 虐殺や略奪を恐れて多くの市民が逃亡を試み、荷運びやら渋滞やらで一時パリは大混乱に陥った。道路は車で大渋滞し、家具を抱えた人々は立ち往生し、パニックを起こす者や泣き出す子どもがあちこちにいた。そんな慌てふためくパリ市民たちを横目に、ドイツ軍は速やかにフランスを支配下に置いた。フランスという国家の存続は辛うじて認められたが、国土は分割統治されることになった。パリ含む北部地域はドイツの直轄地になり、南部地域はドイツの傀儡政権であるヴィシー政権に委ねられた。これとは別に、ド・ゴールらがロンドンに亡命政権を樹立したと言うが、そちらには今のところさしたる影響力は無いようだ。

 パリに入城したドイツ軍は、極めて規律正しい態度でもって町を占拠した。今や町中に鉤十字のついた真っ赤な旗が掲げられているし、ナチスの軍服を着た軍人たちが我が物顔で闊歩するようになっている。だが市民が理不尽に蹂躙されるということは起こらなかった。少々の爆撃はあったそうだが、町が壊滅することは無く、ほとんどの建物が無事だった。パリがワルシャワのように火の海になることは避けられたのだ。パリ市民たちは拍子抜けした。結果的には、あんなに慌てて逃げる必要は無かったということになる。

 

「ドイツが大規模な空爆なんかをして来なくて、本当に良かったですね」

「そうね。ドイツ軍の人たちも乱暴なことはしていないし。今ここに無事でいられることには、ほっとしているわ」

「ヒトラーの奴も、思ったより非道ではないのでしょうか」

「……。どうかしら」

 この先自分たちが置かれるであろう境遇を思い、リュシエンヌは暗澹たる気分になったが、努めて不安を振り払った。

「さあ、時間が惜しいわ。早く始めてしまいましょう」

「はい!」

 ロジェは楽器ケースの蓋を開けた。リュシエンヌはロジェの初回レッスンのことを思い出して、何となくこう言った。

「ロジェの今の課題が、メンデルスゾーンでなくて良かったわね」

「え? どうしてです?」

「どうしてって……メンデルスゾーンはユダヤ系だからよ。ナチスはユダヤ系の作曲家の音楽を禁止してしまったでしょう。メンデルスゾーンは駄目、マーラーも駄目。本当に馬鹿馬鹿しいことだけれど」

「ああ、なるほど……。いや、でも、おかしいですよ。メンデルスゾーンはルター派のキリスト教徒ではありませんか。確か親が改宗したとかで」

「いえ、関係無いわ。ナチスの連中はユダヤ人のことを人種だと思っているそうよ。生まれがユダヤ系ならばその人は終生ユダヤ人なんですって」

「んん……? ちょっと意味が分かりませんね」

「私もよ。馬鹿げているとは思うわ。でも、このくらいのことなら我慢して従わなくてはね……。それはそうと、準備は出来た?」

「あ、はい! いつでも弾けます!」

「それじゃあ、まずは基礎練習から見ます。いつもの音階をやって」

「承知しました!」

 リュシエンヌは変わらぬ笑みと変わらぬ厳しさで、今回もロジェのことを鍛えまくった。レッスンが終わる頃には、ロジェはすっかり息が上がってしまっていた。リュシエンヌはふふっと笑った。

「毎度のことながら、体力が無いのねえ」

「あは、ははは。お恥ずかしい限りです」

「見たところ、体に余計な力が入っている訳でも無さそうだし、単純に持久力の問題ね」

「はい」

「何回か、全楽章を通しで弾いてみると良いかも。体力の配分の仕方とかを身につけるために」

「分かりました」

 ロジェはリュシエンヌに恒例の愛の告白をしてから、教室を出た。リュシエンヌは困り顔でそれを見送った。

「……ふう」

 足りない点の指導は色々としたが、ロジェの成長は著しい。元々技術面では高いものを持っているし、自分なりに研究した曲の解釈を毎回持って来るようにもなったし、このまま上手くやればどんどん次の高みへと登って行けるはずだ。まだブラームスを始めてから間も無いが、次にやらせる曲のことも考えておくべきだろう。

 さて、気持ちを切り替えよう。早く部屋を片付けて、買い物に出掛けて、全ての家事を二十時までに終わらせなくては。ドイツはフランスに、二十時からの灯火管制を敷いている。暗くなる前に用事を済ませないと困ったことになる。

 まずは、品物が売り切れになる前に、商店街に行こう。夕飯のパンなどは今朝に配給のものを貰っておいたから、おかずになる食材だけ買って来る。

 状況が変わっても、生活は続けなければならない。戦時下の社会に何とか順応して、この町で生きる術を見つけなければならない。

 リュシエンヌとアンリに、今後ともそれが可能かどうかは、非常に疑わしいが。ドイツで独裁体制を作り上げたナチスは、リュシエンヌたちのことを決して許しはしないだろうから。

 ──ナチスはその後も、次々と新しい決まり事をフランスに課していった。違反して逮捕されたらどんな目に遭うか分かったものではないので、リュシエンヌは淡々とそれらに従っていた。不自由さばかりがどんどんと増して、パリが日に日に窮屈な町になっていく。

 八月のある日、リュシエンヌはナチスの命令通り、教室の前に黄色い星の印をぶら下げた。閑静な街並みの中、その旗は悪目立ちしていて、酷く歪に見えた。本来は大切にされて然るべきこの神聖な印が、このような形で使われるようになるとは思わなかった。憤ろしい気持ちさえ湧いて来る。

 だが、印を掲げる程度で済んでいる内が花かも知れない。

 事態がこれ以上悪化する前に、連合軍には一刻も早く勝利して欲しいものだ。

 次の火曜日のこと、いつもの時間にロジェが来なかったので、リュシエンヌは心配して外の様子を窺いに行った。

 扉からひょっこりと顔を出すと、家の前にロジェはちゃんと居た。彼は黙って星印を見上げながら複雑な表情をしていた。

「ロジェ。どうしたの」

 リュシエンヌが声を掛けると、ロジェは印を見たまま言った。

「……グリュンベール先生って、ユダヤ人だったんですね」

「ええ、そうよ。私も夫もユダヤ系なの」

 ユダヤ人が営む店の前には必ず、ユダヤ教の象徴である黄色の六芒星の印をつけること。ついこの前にナチスから出された布告だ。

「知りませんでした」

「だって、わざわざ言う程のことでもないでしょう」

 ユダヤ系の人はもう随分と古い時代から代々ヨーロッパに住んでいて、他宗教の人間と区別が付かないことも多々ある。明確に分けて考えることは現実にそぐわない。だから特に言ってはいない。

 もしかしてロジェも反ユダヤ主義の人なのだろうか。リュシエンヌはちくっと胸を刺されたような感覚になった。しかしそれは杞憂だった。ロジェは悲しそうな顔をしてこちらを見た。

「この国から逃げなくて良いのですか。グリュンベール先生も、ご主人も」

「ええ。それはもう良いの」

「でもほら、危ないじゃないですか。ナチスがユダヤ系の人に酷い仕打ちをしていることくらい、先生もご存じでしょう。それに……僕も、ユダヤ系の音楽家がナチスから逃げてアメリカに渡ったという話は、幾つか聞きます。オーストリアのコルンゴルトだとか、このフランスのミヨーだとか。……あ、あと、ドイツのヒンデミットもスイスに亡命したとかアメリカに行くとか何とか。それから……」

「ロジェ」

 呼ぶと、ロジェは口を閉じ、リュシエンヌの言葉を待った。

「……空爆を避けて田舎へ疎開するのとは、訳が違うのよ」

 リュシエンヌは静かに言った。

「亡命という手段については、既に何度も夫と話し合っているわ。でも、今はどこの国もユダヤ人の受け入れに慎重になっていて、渡航費は跳ね上がっている。よほどお金持ちの人しか、外国には渡れないの。売れっ子ならアメリカへ行けるけれど、私たちには無理。お金が足りないの」

「お金が……。そんな、裕福な人だけが安全でいられるなんて、不公平じゃありませんか。命は平等に尊いものではないのですか」

「まあ、ロジェったら」

 リュシエンヌは薄く笑んだ。パリに住む若者らしい、清らかで正しい意見だ。ここがロジェの言う通りの世界であったら助かるのに……そもそもユダヤ人が差別されることも無かったろうに。

「仕方が無いわ」

 リュシエンヌは言った。

「世の中とは昔からそういうものよ。うちだって、私が稼いだお金は、ほとんどアンリの治療費に充てているもの。貧しい家の人がアンリと同じ病気に罹ったら、病院にも行けずに死んでいたでしょうね。それと同じことよ」

「でも」

「そんなことより、いつまでもそこに突っ立っていないで、早くこちらへ上がりなさい。時間は過ぎているわ。レッスンを始めましょう」

 ロジェはしゅんとしながら、「はい」と小さく答えた。

 この短期間に、ロジェのブラームスのコンチェルトはかなり仕上がって来た。前々から思っていた通り、早めに次の課題曲を与えるべきだろうと、リュシエンヌは判断した。何の曲にするかは前もって候補を考えていたが、今だからこそやっておきたいものがあった。そこでリュシエンヌは、レッスンの終わりにこう提言した。

「次はラロをやってみない? 『スペイン交響曲』」

「ラロ」

「こんな情勢だからこそ、近頃はフランス人作曲家に人気が集まっているでしょう」

 ドイツの統制下にある今、人々のフランスへの愛国心はかえって高まっている。よりフランスらしい芸術が流行るようになってきた。音楽でも殊更にフランス的なものが求められる流れである。

 クラシック音楽の本場と言えば、モーツァルトやベートーヴェンやバッハなど多くの作曲家の出身地であるオーストリアやドイツだと思われることもあるが、フランスだって決して劣ってなどいない。芸術の都パリの名の通り、音楽文化も盛んである。ベルリオーズ、ビゼー、サン=サーンス、ラヴェル、フォーレ、サティ、ドビュッシー……他にも沢山の音楽家を輩出してきた歴史があるのだ。ラロもその一人で、スペイン交響曲は彼の代表作と言って良いものだった。交響曲と題されてはいるが、実質的にはバイオリンコンチェルトの形を取っており、バイオリンの独奏が光る曲だ。

「愛国心がどうとかは、正直なところ僕には分かりません」

 ロジェは生真面目に言った。

「フランス的だからといって何でもかんでも持て囃す風潮には反対です。でも、名作には興味があります」

「ええ、流行りかどうかを脇に置いても、ラロのコンチェルトは優れた作品よ。来週までに、一楽章をやってきてもらえるかしら?」

「分かりました」

 ロジェは真剣な様子で頷いた。

 これから楽器屋に寄ってラロの楽譜を買うからと、手早く片付けを済ませる。

 去り際にロジェはこんなことを言った。

「ああ、そうだ。グリュンベール先生はもう、うちの店にはいらっしゃらない方が良いと思います」

「……あら」

 いきなり思いがけないことを言われた。リュシエンヌは首を傾げた。

「どうしてかしら?」

「以前あれだけお世話になったのに、こんなことを申し上げることになって心苦しいのですが……うちは今、ドイツ兵のお客さんでいっぱいで」

 リュシエンヌは一瞬、体が凍りつくのを感じた。

「……あらまあ、そうなの」

「あの人たち、すごく金払いが良いんですよ。反対にフランス人のお客さんは貧乏になっていて、あまり娯楽にお金を落としてくれなくなりました。うちとしては、店を潰さないために、ドイツ兵に頼らざるを得ないんです。それで、その、先生がユダヤ系の方だとばれる可能性は低いですけど、万一のことがあってはいけないので……。安全のため、グリュンベール先生はうちにはお入りにならないのが良いかと思ったんです」

 リュシエンヌは嘆息した。つくづく生きづらい世界になったものだ。

「分かったわ。お気遣いありがとう」

「いえ。本当にすみません」

「気にしないわよ。あなたのせいではないのだもの」

「ありがとうございます……。では、失礼します」

「ええ」

「それと、お慕いしております」

「はいはい。早くお行きなさいな」

 パタンと扉が閉まった。リュシエンヌはさっきよりも長く深い溜息をついた。

 自由、平等、博愛。

 三つの理念を掲げていたはずのこの国のこの町は、今や不自由であり、不平等であり、万人を愛することもなくなった。第二次世界大戦で敗けたばかりに。

 音楽という文化が、ユダヤ系と非ユダヤ系という不自然な形で区分けされて取り締まられている以上、人間もまた一層厳しく取り締まられるようになるのは時間の問題だ。この先、生活が困窮し始めることも、アンリの通院が困難になることも、容易に想像できる。分かり切った破滅へと向かう道を行くしかない、この息苦しさ。未来を思うと恐怖で喉の辺りがキュッと締まる。

 せめて、アンリだけは、日々を穏やかに生きて欲しいのに。

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