第6話 謎多き特異体質のこと


 幸華は鈴乃が予約してくれた小さな練習室に足を運んだ。白一色の無機質な部屋に着くと、鍵は開いていたのだが、電気が点いておらず、肝心の鈴乃の姿も無い。

 幸華はスマホを見た。まだ待ち合わせの時間にはなっていなかった。鈴乃が来るまでに体を慣らしておくかと思い、基礎練習を始める。

 数分後、バタバタと廊下を走る足音がして、練習室に鈴乃が飛び込んできた。

「ごめん、待たせちゃった!」

「ううん、時間通りだし……」

「いやー、先生の指導が長引いちゃって! 沢山見てくれるのはありがたいんだけど!」

「ああ……。ソロ曲のレッスン?」

「そうそう」

「何やるんだっけ」

「ショスタコーヴィチのコンチェルト!」

「そっか」

「そんなことより、グリュンベール、グリュンベール。早くやろう。今すぐに楽器を出すからあと少しだけ待ってて!」

「落ち着いてからでいいよ」

「ありがとう!」

 如何にもワクワクしているという雰囲気で、鈴乃はてきぱきと楽器を用意した。

「それじゃあ、記念すべき初合わせを始めよう!」

「うん」

「まずは通しで良いよね?」

「うん」

 幸華は改まって楽譜を見つめた。鈴乃の姿を視界に入れておくことも忘れずに。そうしないと息が合わせづらいからだ。

 鈴乃は、テンポに沿った動きで、楽器をやや下に傾けてから上に戻した。これが開始の合図だ。

 二丁のバイオリンが同時に鳴り出す。

 ファーストとセカンドで、代わる代わる飛び出してくるメロディー。やがて二つの線が交わってハーモニーが生み出される。これが全体を通して繰り返し現れる主題である。最初の主題が終わると同時に、一味違った旋律が現れる。技術的には、主題に挟まれたこのバリエーション豊かな部分が難所であり、欠かせない見せ場だ。

 印象としては、明るくて可愛らしい、つい口ずさみたくなるような曲だと思う。だが所々に、物悲しい響きが混じっている。ビブラートをたっぷりかけて歌い上げたくなる感情的な響きだ。だがすぐに主題が戻って来て、楽しげなフレーズが連ねられる。

 時には悲しいこともあるけれど、明るさを、笑顔を、前を向くことを忘れない。そういう曲だと思った。

 最後は希望に満ちたイ長調のハーモニーで締められる。鈴乃の合図に従って音を切った幸華は、ふっと音の世界から現実に引き戻された。夢から覚めた気分で、おずおずと鈴乃の方を窺う。

 鈴乃は、弓を宙に留めた状態で、固まっていた。震える唇を引き締めて、目をしっかりと開いている。

「あの、鈴乃?」

 声を掛けると、鈴乃は白い机にそっとバイオリンを置き、空いた両手で顔を覆った。

「……ウウッ……良すぎる……あまりにも良い……名曲……っ」

「え」

 鈴乃の予想以上の感激ぶりに、幸華はややたじろいだ。

「あ、うん。良い曲だったね……」

「わ、私っ、この曲を弾けて、良かったっ……」

「……そんなに?」

「う、今まで、頑張って生きて来て、本当に良かったあ……!」

 鈴乃は涙声だった。幸華はますます困惑してしまった。そこまで思い入れのある曲だったとは。

「うぐ……うぐぐ」

 鈴乃は苦しそうに唸り出した。

「え、何。どうしたの。大丈夫……?」

「ヴヴ……ヴンッ」

 鈴乃が妙な声を出した直後、何かが鈴乃の指の間からこぼれ出て、カラン、と机に落ちた。小指の爪の先程のごく小さな固形物。

「……ん?」

 幸華は状況を上手く飲み込めなかった。机の上では、小さな物体が春の陽の光を反射してきらきらと輝いている。

 鈴乃はどうしてこんな物を落としている? 無かったはずのものが手から出て来るなんて、まるで手品のようだが、今ここでそんな芸当を見せることの意味が分からない。

「オエッ」

 鈴乃は苦しそうに咳き込み、えずいた。その度に小さな物体が一つずつ、目の辺りからポロッと出てくる。

「鈴乃? えっ、ちょっと、え? 何が起こっているの」

「……あー……」

 鈴乃はつらそうに肩で息をしながら、顔から手を離した。鈴乃の右目には涙が浮かんでいた。その一粒がつうっと頬に滴る途中で、小さくて透明な固まりに変じ、重力に従いコツンと落下する。

「……はい?」

「うー、やらかしちゃった」

「え? ……え?」

「ごめんね、びっくりしたよね」

 鈴乃は左目の黒い眼帯を引っ張って少し浮かせた。すると眼帯の隙間からも小さな硬いものがバラバラと出てきて落ちた。形は様々で、多角形だったりまん丸だったりしている。

「何で? ……え、何これ、どういうこと」

「はー……」

 鈴乃は気まずそうな様子で、机や床に散らばった謎の物体を両手で掻き集めた。幸華は信じられない気持ちで、鈴乃の手元と顔とを交互に見た。

「何、それ。何が出たの」

「んー。宝石」

「は?」

「これはピンクダイヤモンド、これはルビー、これはペリドット、これは──」

「いや、あの」

 幸華は話を遮った。

「何でそんなものが出てくるの。ありえないでしょう、普通」

「私、いわゆる特異体質で」

 鈴乃は照れ臭そうに言った。

「ごくたまに、涙が宝石になっちゃうことがあるの」

「は?」

 何を言われたのか理解できない。いや、実際に目の前で起こった事なのだから、受け入れるしかないのだろうか? こんな奇想天外な出来事を? いや、そんな、まさか。

「近頃は体調が悪かったから、泣かないように気を付けていたつもりなのに……。感極まって油断しちゃったな。あは、ははは……。ウッ」

 ゴロンと一回り大きなサイズの宝石が出た。青くて丸くてツヤツヤしている。

「あ、ラピスラズリが出たよ」

「そう、なんだ……?」

「ちょっと待って。今、涙を止めるから……」

「大丈夫……?」

「頑張る」

 鈴乃はギュッと顔をしかめた。綺麗な顔がしわくちゃになった。

「うぬぬぬ、ぬぬぬぬぬ。……よし、もう大丈夫」

「本当? その、どこか痛かったり、苦しかったりしない……?」

「平気、平気。でもちょっと疲れたな。休憩したいかも」

「分かった」

「折角時間を取ってくれたのに、練習を中断して申し訳ない」

「それは構わない。体調が優先だし」

「フー……」

 鈴乃は楽器を置くと、部屋にあった簡素な作りの椅子に座って、背もたれに背を預けた。幸華もそれに倣って椅子に腰掛けた。

 鈴乃は声をひそめて幸華に話しかけた。

「ね、幸華」

「ん」

「宝石が出ることはね、誰にも言わないで欲しいんだ。厄介事に巻き込まれたくないし」

「分かった」

 仮に誰かに言ったところで現場を目にしない限り誰も信じないだろうと思いながらも、幸華は頷いた。もしこのことが公にバレてしまっては、確かに世界中が大騒ぎになるだろうし、鈴乃は病院だか研究施設だかに連れて行かれてしまうだろう。それは幸華としても困る。

「ありがとう。二人だけの秘密ね」

 鈴乃は疲れた様子で笑った。二人だけの秘密、という言葉に、幸華は不謹慎ながらちょっぴり嬉しくなった。すごく友達っぽいではないか。感慨に耽っていると、鈴乃はコロリと声色を変えて全く別の話を始めた。

「……そういえばさ、幸華」

「ん」

「二人でアンサンブルの部に出るんだから、衣装も二人セットで見栄えがするものにしたいよね」

「そうなの……? 私、黒いドレスしか持ってないけど、それで良ければ」

「ええー!」

 鈴乃は不満そうに声を上げた。

「そりゃあオーケストラなら黒いドレスで正解だけど、二人で舞台に上るならもう少し華やかにしようよ」

「でも私、派手な格好なんて似合わないし」

「そんなこと無いって。絶対に綺麗になるって。そうだ、次の休みはドレスを買いに行こうよ。私がよく行くお店があるから、案内するね」

「え……でも……」

「私の涙に関する口止め料も兼ねてね」

「そんなことしなくても、別に言いふらしたりしない」

「そう? なら、私が幸華とお出かけしたいから行くってことで! どう?」

「……」

 幸華は鈴乃をまじまじと見た。これまで、幸華を遊びに誘ってくれた人など、数える程しかいなかった。いない訳では無かったが、誘われても大抵の場合幸華は断っていた。遊ぶ時間があるなら練習をしたかったからだ。

 だが、これは次の本番までの準備の一環だ。必要な用事に出かけるのであれば、買い物のために遠出するのにも、それほど抵抗感は無かった。

「鈴乃が、それで良いなら、私も行く……。い、行ってみたい」

「やった! 決まりだね!」

 鈴乃は明るい声で言った。

「後で日程を調整しよう!」

「うん。……あの」

「何?」

「誘ってくれてありがとう」

 鈴乃は破顔した。

「こっちこそ、私みたいな変な奴と一緒にいてくれて、ありがとう」

「え」

「だって、涙が石になるなんて、普通の人間ならビビるでしょう。でも幸華は普通に受け止めてくれたから、ちょっと嬉しかった」

「そっか」

 自分は表に出る反応が薄いだけで、内心びっくりはしていたのだが……。

 幸華は何とは無しに鈴乃の鞄に目をやった。先程鈴乃は拾い集めた宝石を鞄に仕舞っていた。

 涙から生まれる宝石。

 「竜の宝石への二重奏」。

 宝石というキーワード。これは偶然の一致だろうか。それともこの曲は、鈴乃と何か深い関係がある?

 いや、そんなはずはない。これは一昔前の楽譜だ。二十世紀に生きたフランスの作曲家が、どうして二十一世紀生まれの日本人のことを知れるというのだろう。

 可能性があるとするならば、グリュンベールが生きた時代の人間の方だ。例えば、鈴乃の先祖とか。

「鈴乃」

「うん?」

「その、宝石が出るのって……遺伝的なもの?」

「んー、まあ、そうだね。遺伝だよ」

「そんなことあるんだ……」

「あるんだからしょうがないよ」

「ふうん」

 いよいよこの謎が気になって来たが、肝心の鈴乃が曲名の由来を知らないと言うのなら、これ以上探ってもどうしようも無いだろう。幸華は黙った。

 やがて鈴乃はうーんと腕を上にやって伸びをした。

「お待たせ。もう大丈夫だよ。練習の続きをしよう」

「無理はしてない?」

「してない、してない。そんなことより早くやろう!」

「分かった」

 それからは二人で話し合いつつ、曲を作り上げることに専念した。鈴乃は余程この曲にこだわりがあるらしく、物凄い数の提案や要望を幸華に告げてきた。実演の音源も動画も無い中で、滅茶苦茶に頑張って研究して来たのであろうことが伺える。幸華も意見は述べたが、概ね鈴乃のやり方に従うことにした。練習時間は濃密で実りあるものとなった。部屋の予約時間の終わりとなり、二人は満足して建物を出た。

「それじゃ、いつ行く?」

「え」

「ドレスだよ、ドレス」

「本当に行くの」

「行こうよ。いつが空いてる?」

「……土日は、予定無い」

「じゃあ土曜日にしよ。朝出掛けて、ドレス買って、お昼食べよ」

「お昼ご飯まで……」

「ん? 何か駄目だった?」

「そ、そうじゃない。大丈夫」

 そう言う訳で、土曜日の朝十時になった。

 幸華と鈴乃は大学の最寄駅で待ち合わせをした。鈴乃は足取り軽く楽しそうに、ドレスの専門店まで幸華を連れて行った。駅近のショッピングモールの中に、その店はあった。お洒落な雰囲気の店内に、色とりどりのドレスが所狭しとぶら下げられている。赤、茶、青、橙、エトセトラ。

「ここが」

「沢山種類があるよ! 色も形も!」

「こんなにあっても、どうやって選べばいいのか……」

「気に入ったのを選ぶのが一番良いと思う」

「でも……」

「特に無ければ、臙脂に合う色にしてよ! 私は臙脂色のドレスにするから」

「臙脂色……と言われても」

 幸華はスマホを取り出して、検索窓に「臙脂 合う色」と入力した。鈴乃も画面を覗き込む。

「茶色とか……」

「もう少し華やかな奴無いの?」

「黄色、や、ピンク」

「良いね」

「でも、あんまり派手なのは好まない」

「ふーん」

「これは、紺……」

「あー……。決して悪くはないけど、地味すぎるのも問題だよ。私ばかり目立つことになるもん。どうせならもっとビビッドな青の方が良い。あっ、ここに紫も載ってる。紫も良いね、ゴージャスで」

「……よく分からないけど、寒色系なら許容範囲……かな」

「ウィ! それじゃあ探してみよ! すみませーん店員さん!」

 幸華はびくっとした。服屋で店員に絡まれるのは苦手だった。それがまさかこちらから声を掛けることになるとは。

「はい、何をお探しですか?」

 売り子のお姉さんがにこやかに言った。鈴乃は臆せず堂々と事情を話した。

「この子が演奏会の舞台で着るドレスで、青か紫のものを探しているんです!」

「なるほど、承知しました。それでしたら──」

 お姉さんは手際良く幾つものドレスを見繕って持ってきた。似た色でも様々な形のドレスがあって、幸華は目を回してしまった。

 最終的に選んだのは、深めの色味の真っ青なドレスだ。ラメか何かがあしらわれていて、動くときらきらする。裾は飾りもあってやや豪華だが、それ以外はスリムで動きやすそうでもある。

 試着して鈴乃に見てもらうと、鈴乃は拍手をした。

「似合ってるよ、幸華!」

「あの、これ、派手過ぎじゃないかな……」

「大丈夫、大丈夫。だいたい、普段とは趣の違う奴にした方が、気分も上がるでしょ」

「そっか……」

「そうそう」

 幸華はドレスを脱ぎ、レジに持って行って、店員さんに包んでもらった。買ったドレスを、持って来ていた大きめのエコバッグに入れる。これで買い物は完了だ。

「よし、ミッションクリア! 少し早いけどお昼を食べよう!」

「うん」

「何食べたい?」

「……何でも良い」

「んー、それじゃとりあえずレストランフロアに行ってみてから決めよっか」

「うん」

「私はいつも通り、食べるのは少しにするから、店は幸華が決めて良いよ」

「分かった」

 二人は歩き出した。エスカレーターに乗って上の階まで登って行く。レストランフロアに到着し、幸華は適当に目に入った海鮮丼屋を選んだ。幸華はマグロとサーモンととろろ芋が乗った丼を注文し、鈴乃はデザートのフルーツ白玉を頼んだ。

 鈴乃は至極ご機嫌だった。

「鈴乃。あの……」

「何?」

「今日は、その、何と言うか。ありがとう……」

 幸華の声はだんだんと尻すぼみになっていった。鈴乃は破顔した。

「いやいや、お礼なんていいよ。私が誘ったんだし、私も楽しかったから」

「そっか」

「やっぱり友達と出かけるのって良いね!」

「そう、だね」

 幸華はほんのり胸が温まるのを感じたのだった。

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