第7話 絶対にありえない

 アンリの容態の急変が発覚したのは、リュシエンヌが一人の生徒のレッスンを終えて寝室に顔を出した時だった。アンリは寝転がったまま口から泡を吹いていて、目は白目になっていた。

「アンリ」

 リュシエンヌは夫の肩を揺すって名前を呼んだが、彼は痙攣するばかりでリュシエンヌの声には応じない。意識を失っているようだ。

 急がなくては。救急車は……呼ぶのが手間だ。病院はここから近いし、リュシエンヌが車を運転した方が早い。

 リュシエンヌはかつてない程に力を振り絞って素早くアンリを車に運び、大急ぎで車椅子も運び込んだ。逸る気持ちで運転席に座り、車をかっ飛ばす。キキッと駐車場に停めると、旋風の如き速さでアンリを車椅子に乗せ、走ってかかりつけの病院に駆け込んだ。

「はあ、はあ、すみません、グリュンベールです。急に夫の具合が悪くなって……!」

 ばたばたと看護師たちが駆け寄ってくる。脈拍や呼吸を確認される。すぐに担架が運び込まれて来た。

「あの、夫は今どういう状況ですか」

「重篤ですね。このままですと、恐らく命に関わります」

「命に……!?」

「脈拍が大幅に下がっています。呼吸は辛うじてありますが、弱々しいです。私どもでどれ程のことができるか分かりませんが……全力を尽くします」

「お願いします!」

 元々、アンリの病気は原因が不明だった。応急処置的な薬を処方されてはいるが、定期的に通院をして健康状態の確認をする以外、手の打ちようが無いと言われてきた。だから、今回も処置が功を奏するかは分からない。一縷の望みに縋るしかない。

 その時、「待ちたまえ」と声がした。

 がっちりとした体付きで、白衣をきちんと着た男が、コツコツと靴音を立てて近付いてきた。そしてこんなことを言った。

「その患者の情報を見たが、その男はユダヤ人だな。妻もだ」

 ひゅっ、とリュシエンヌは息を吸い込んだ。

 ……まずい。この流れはまずい。非常に残酷なことが、──命の選別が、今から行われようとしている。

 アンリが助からないかも知れない。よりにもよってこんな下らない理由で。

「うちではユダヤ人は診ないことになった。お引き取り願え」

「ですが院長」

「口答えをするな。手を止めろ。さっさと追い出せ」

 リュシエンヌは男に向き直った。早急に、何が何でも、夫を助けてもらわなくては。こんなことでこの尊い命が失われることなどあってたまるか。

「お願いします、夫を助けて。この病院が恃みなんです。それに、ユダヤ人の治療を禁止する法律が出たなんて、聞いていません」

「この病院では、先日新しく院長に就任した俺がルールだ。俺が駄目と言えば駄目なんだよ」

「でも、このままでは命に関わるんですよね? どうかお慈悲を頂けませんか」

「劣等人種の命なぞ知るか。帰れ」

「あなたの判断で人が死んでも良いと仰るのですか。それは犯罪ではないのですか」

「問題無い。そんなことより、こっちは忙しいんだ。ごねていないでいい加減に消えろ」

「どうしても駄目ですか」

「しつこい。駄目なものは駄目だ。おい、お前たち。こいつらをつまみ出せ」

 男は従業員に命令をしたが、誰も動かない。かと言って、誰もこの男に異を唱えることも無い。

 リュシエンヌは焦ってアンリの顔を見た。ここに留まっていても何も解決しない。時間が惜しい。車椅子の向きを出口に向けながら、リュシエンヌは吐き捨てた。

「人でなしのゴミカス野郎が! 死ねっ! 夫の代わりにあなたが死になさいよ!」

 猛烈な速さで病院を出て、車に乗り込み、他の病院へと急ぐ。

 全くあれは、医師の風上にも置けない最低の極悪人だ。あんな穢らわしい悪魔のような畜生のせいで、時間を大幅に浪費してしまった。この無駄な時間のせいで夫の容体が更に悪くなってしまった。最悪だ。

 泣き出しそうになったが、ぐっと唇を噛み締めてこらえる。涙で視界を歪めて運転の精度を落とす訳にはいかない。早く、早く次の病院を目指さなくては。

 助手席に力無く腰掛けている夫の顔色は、どんどん悪くなっていて、今や真っ白だ。

「アンリ、しっかり! 私が絶対に助けるから、どうか死なないで! お願いよ!」

 ブーンと一心不乱に車を走らせて数十分、ようやく別の病院に辿り着く。広い待合室の中から緊急外来の受け付けを見つけて駆け寄った。

「夫が死にそうなんです! 助けて下さい!」

 リュシエンヌとアンリは慌ただしく病室に迎えられた。アンリは白い清潔なベッドに寝かされる。すぐに医師がやって来て、アンリの容態を確認した。リュシエンヌはベッドの脇に立ち、必死に祈っていた。

 やがて医師が顔を上げた。

「奥さん」

「はい」

「落ち着いて聞いてくださいね。……残念ながら、ご主人は既に亡くなられています」

「……え」

 瞬間、目の前が真っ白になった。くらくらしてとても立っていられず、リュシエンヌはガクッと床に両膝をついた。

「だ……だって」

 座り込んだまま呆然として口走る。

「さっきまでは、生きてるって……言われたのに」

「……」

「嘘よ。何かの間違いよ」

「……」

 医者は黙って首を振った。

 リュシエンヌの目にみるみる涙が溜まっていった。

「う、ああ、ああああああ‼ アンリ、アンリ‼ 嫌、嫌よ、私を置いて行かないで‼」

 リュシエンヌは震える両手でアンリの頬を挟み込んだ。次いでアンリの胸の辺りを抱え込むようにして覆いかぶさり、身も世も無く泣き伏した。

「わああああん! 嘘よ、こんなに早く逝くなんて……私が守ると決めたのに……どうして……! うあ、うう、ひっく……」

 悲しみのあまりろれつが回らなくなってきた。医師と看護師は、暗い表情で二人を見守っていた。




 アンリの遺体は、小さなシナゴーグに付随した墓地へ、速やかに土葬された。ラビと呼ばれる聖職者が丁寧に葬儀を取り仕切ってくれた。葬儀にはアンリの両親も来たし、リュシエンヌの両親も来た。他にもアンリの音楽院時代の友人やら、リュシエンヌの教え子やら、色々な弔問客が訪れた。リュシエンヌはまだ瞼が腫れぼったいのを感じながら、それぞれの客に丁寧に対応した。

 アンリが眠る土の上の墓石に、みんなは一つずつ小さな小石を乗せていった。これがユダヤ教での死者の弔い方である。

 ロジェも葬儀に来てくれて、ぎこちない動作でゆっくりと墓に石を置いた。リュシエンヌは空いた時間を利用してロジェに挨拶をしに行った。

「ロジェ。来てくれてありがとう」

「グリュンベール先生……。この度はご愁傷様でした」

「本当、信じられない程あっという間だったわ。……駄目ね、油断したらまた大泣きしてしまいそう。気を確かに持たなくては」

「泣いては駄目なのですか」

「葬儀でやるべきことはきちんとやっておきたいもの。アンリのためにできることは、もうそれしか無いのだから」

「そうですか……。どうかご無理をなさらず」

「ええ。ありがとう」

「それから、グリュンベール先生。最後に一つ」

「何かしら」

「今日も僕はあなたをお慕いし──ブッフォ!!」

 ロジェは頭から派手にのけぞって、無様に地面に尻餅をついた。リュシエンヌが渾身の力を込めてロジェの顔面に拳を食らわせたのだ。バイオリニストの命たる手を痛めるのも厭わずに。

 厳かであるべき葬儀の場での思わぬ騒ぎに、弔問客は何事かと戸惑って、リュシエンヌとロジェに注目した。

「先生」

 ロジェは手の甲で鼻血を拭いながら言った。

「お黙りなさい」

 リュシエンヌは怒りに燃えた目でロジェを見下ろした。気迫に押されたのか、ロジェは縮こまった。

「見損なったわよ、ロジェ。よりにもよって今掛ける言葉がそれ?」

 リュシエンヌの声は憤怒のあまり震えていた。

「夫を亡くした私なら、受け入れてくれるとでも思ったの? 何て浅はかで不謹慎で罰当たりな考えなのかしら。それを葬儀の場で実行するなんて。あなたには人の心が無いの? それとも余程私に憎まれたいのかしら?」

「あ、あの、僕は」

「黙らっしゃい、この大うつけ。あなたの話など聞きたくもないわ。これまでもこれからも、私が愛するのはアンリただ一人。あなたに気持ちを向けることなんか絶対にありえない。絶対によ」

「……そんな」

「あなたにアンリを弔う資格は無い。今は、あなたが視界に入るだけでも不快だわ。早くここから出て行って頂戴」

「先生、でも」

「黙れと言ったのが聞こえなかった? 今後あと一回でも、いつものあのふざけた告白を口にしてご覧なさい。あなたをうちの教室から破門にして、一切の出入りを禁止にするから!」

「……!」

 ロジェは絶望的な表情になった。その姿を見下ろすリュシエンヌは、ざまあみろという気分と、それでも尚おさまらない怒りが、ないまぜになっていた。

「分かったわね? 今後は一切の求愛行動を禁止。これ以上ここに留まるのも禁止。さあ、とっとと立ち上がって出てお行きなさい」

「あ、あの、……はい」

「遅い! 早く!」

「は、はい。失礼します」

 ロジェは慌てて立ち上がると、早足で墓地を去った。

 周りはすっかりシンと静まり返ってしまった。

「お騒がせ致しました。申し訳ありません」

 リュシエンヌは昂っていた気持ちを落ち着けて、淡々と謝罪した。

「どうぞ、お葬式の続きを」

 その後は大した問題も起きず、アンリは厳粛に弔われた。リュシエンヌは弔問客に礼を言い、ラビの方ともご挨拶をして、シナゴーグを出た。

 アンリとの思い出を振り返りながら歩いて帰ると、つい耐えきれずに俯いてしまい、涙がぽたぽたと落ちて行った。一人で住むには広すぎる家まで帰ると、居間の長椅子に座って静かに泣いた。

 アンリとは音楽院で出会った。ピアノ科だったアンリに、リュシエンヌは一緒にソナタを弾いて欲しいと頼んだのだ。それから幾度か、二人はバイオリンとピアノの曲を演奏してきた。

 音楽院を卒業してすぐにリュシエンヌはアンリと結婚した。アンリはこの頃までは元気いっぱいで至って健康体だったのに、一年程経った頃、急に体調を崩してしまった。それからというものリュシエンヌは、甲斐甲斐しくアンリの世話を焼いたものだ。その合間にバイオリンを練習して、レッスンをして……。思えば忙しい毎日だった。幸せだった。

「……うう」

 こんな日でも、普段と同じように料理をして食事を摂って……生活を続けていかなければならないなんて。リュシエンヌは放心状態のままおざなりに食品を調理して、出来上がった物をもそもそと口に詰め込んだ。パンだけでなく肉もバターも配給になったから、質が悪くて美味しくない。こんなものでも、アンリがいたから、楽しく食べることができたのに。

 終始、悲嘆に暮れながら、リュシエンヌは片付けをして寝る準備をしてベッドに潜り込んで体を丸めた。

「アンリ」

 助けてあげられなくてごめんなさい。今までありがとう。これから先も──死ぬまで、あなただけを愛します。

 リュシエンヌは指輪のはまった指をぎゅっと握り締めた。




 ロジェがレッスンを受けにやって来た。いつもと同じ様子で、バイオリンケースと、楽譜の入った鞄を持って。

 リュシエンヌもあえて笑顔を貼り付けてロジェを迎えた。お金を払ってもらっている以上、レッスンにおける手加減は一切しないつもりだ。

「いらっしゃい」

「お邪魔します」

 今日はラロのスペイン交響曲の第一楽章を主に見ることにした。

「駄目ね。迫力と勢いが全く足りないわ」

「迫力と、勢い……」

「こんなに力強い情熱的な出だしなのに、あなたの熱量が追いついていないのよ。ハイポジションやフィンガリングはほぼ完璧なんだから、もっとガツンと来なさいよ」

「ガツンと、とは?」

「まず最初ね。あなたは、フルオーケストラを背景に、ラとミの二音のオクターヴだけで、自分が主役だと魅せつけなくてはならないの。ここで最大級の情熱を出さないと、残りの全部が台無しよ」

「全部がですか」

「曲の冒頭はそれくらい重要ってこと。この曲の特性上、音色の美しさよりも一音ごとの重さが欲しいわ。勿論、美しさも捨ててはいけないけれど」

「はい」

「理路整然としたお行儀の良い音は要らないわ。感情に任せて思いっ切りぶちまけたような音が良いの」

「はい」

「それからその後の連符ね。こう、言わば悲劇なのよ、この短調の音階は。もっと全身を使って叫ぶような悲惨さを頂戴」

「はい」

 情熱と悲劇。フランス人の持つスペイン観に見事に合致している曲だ。象徴的なのは、ビゼーのオペラ「カルメン」で描かれるような、激しくて破滅的な愛。

「それじゃ、もう一回やって」

「はい!」

 リュシエンヌはレッスンの時間のほとんどを、この冒頭部分に磨きをかけることに費やした。

 ロジェが帰る時間になった。いつも通り、楽器を拭いて、ケースに仕舞って、背中に背負う。

「それでは、ありがとうございました。また来週もお願いします」

「ええ。お疲れ様」

「お疲れ様です」

 ロジェはそれだけ言って、帰った。てくてくと道を歩く後ろ姿を、リュシエンヌは窓から見ていた。

「今日は、何も余計な事を言わなかったわね」

 リュシエンヌは一人で呟いた。

「今後もそうしてもらえるとありがたいわ……」

 そしてリュシエンヌの願い通り、ロジェがレッスンの終わりに愛の告白をしてくる事は、二度と無かった。

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