第13話 残りの日々の過ごし方

 ニューヨークに家を借りてからすぐ、リュシエンヌはロジェに手紙を書いた。

 こちらの状況を伝える義務があると思ったし、ロジェの生活や体調なども気がかりだった。

 返事はなかなか来なかった。エアメールとはそういうものなのだろうと、リュシエンヌは辛抱強く待った。

 待っている間に、リュシエンヌはバイオリン教室を始める手筈を整えたり、持って来た楽譜を出版できないか打診したりと、自分の仕事に打ち込んだ。慣れない英語で頑張って交渉したが、楽譜の出版は難しいらしかった。余程の有名人でない限り、出版社の方もそう簡単に引き受けてはくれないのだ。反対に、バイオリン教室の方はどうやら始められそうな見込みである。

 そんな折、ロジェから手紙の返事が届いた。驚いたことに、それはインドシナの植民地から届いた手紙であった。

 どういうことだろうかと、急いで封筒を開ける。

 手紙は簡単な挨拶から始まっていた。フランス語で書かれた書面にどことなく安心感を覚える。

 あれからロジェは、左目の行方を追い続けていたらしい。リュシエンヌにはよく分からないが、ロジェには外した左目の行方や状況が何となく感覚的に把握できるそうだ。

 あの見事なガーネットは、そう時を置かずして質屋から離れた。最初は、とある宝石商の手に渡った。次いで、南フランスのヴィシー政権の勢力圏で甘い汁を吸っていたお偉いさんが買い入れた。そのお偉いさんが上からの指示で南部インドシナの統治に関わることとなり、一家総出で宝石ごとアジアに渡ったそうだ。

 ロジェがアメリカに行くために作ったお金は、インドシナへ飛ぶための飛行機代で消えたらしい。

「まあ……」

 命が懸かっているのだから、ロジェはもちろん宝石を追ってインドシナへ向かうのが正解である。だがこれはまた一段と、遠くに行かれてしまったものだ。フランスから西へ渡ったリュシエンヌと、東へ渡ったロジェ。運命とは誠に計り知れない。

 しかもインドシナには以前から、敵国の日本軍が進駐している。インドシナの北部に日本軍がやってきただけではなく、今年の夏には南部にもやってきたので、今やインドシナは全土が敵国の影響下にあるのだ。日本とヴィシー政権・植民地政府は手を結んでインドシナの共同統治に当たっているそうだが、この先どう転ぶか分かったものではない。

 危ないことにならなければいいけれど。フランス人は日本人に虐められたりなどしていないだろうか。アメリカからではなかなか情報が入ってこない。

 それに、気候的にも慣れない環境だろう。

 インドシナはどんなところだろう。暑いのだろうか。同じ北半球に位置している以上もうすぐ冬になるだろうから、少しは暑さも和らぐのだろうか。いや、あの爬虫類のような見た目からして、ヴイーヴルは変温動物かも知れない。逆に寒さには弱いのかも……そういえば初めて会った時もきっちり厚着をしていたっけ。

 ロジェのことを気掛かりに思いつつも、日々着々とバイオリン教室の準備を進める。電話もちゃんと引いて、いつでも連絡を受けられるようにした。その甲斐あって、生徒を二人も確保することができ、僅かながらも収入の道筋が見え始めた。そんな中、十二月を迎える。一九四一年も残り一ヶ月、と思ったのも束の間。

 世界に、アメリカに、衝撃が走る。

 ラジオがけたたましく緊急事態を告げる。何を言っているのか分からなくても、大変なことが起きたことだけは分かる。数少ないフランス語表記の雑誌を手に入れたリュシエンヌは、ようやくことの重大さが飲み込めてきた。

 日本がアメリカの真珠湾というところを攻撃してきたらしい。アメリカ側の被害は甚大。それに遅れて日本がアメリカに宣戦布告。加えて、日本と同盟を結んでいるドイツとイタリアも、アメリカに宣戦布告。

 遂にここも安全とは言えなくなったか。ドイツ・イタリア・日本の枢軸国の連中がどこまでやれるかは知らないが、安全地帯だと思い込んでいたアメリカも、本腰を入れて戦争に取り組まざるを得なくなったという訳だ。

 例えば日本軍が太平洋をこのまま次々と攻略すれば、アメリカ本土に爆撃機が飛んでくる可能性もゼロではない。そして仮にドイツが大西洋を越えられるようになったらニューヨークにも彼らが……。いや、それは流石に誇大妄想か。ドイツの前にはまだイギリスが立ちはだかっている……今年に一旦は終結したバトル・オブ・ブリテンで、ドイツはイギリスから手を引いているのだ……。

 だいたい、アメリカは強国だ。リュシエンヌが生まれた年に始まった第一次世界大戦も、アメリカが介入した途端に戦局が大きく変わったと聞く。今回もそう易々とはやられないはず。それどころか枢軸国は、アメリカを正式に敵に回すことで、墓穴を掘ったのかも。

「……はあ」

 戦争についてあれこれ憶測するのはやめだ。リュシエンヌが一人で慌てたところで何か変わるものでもないのだし、不安に思うだけ時間の無駄である。

 それよりもバイオリンの練習を。日々の鍛錬を怠けては先生を名乗る資格など無いし、技術だって衰えてしまう。リュシエンヌは雑誌を片付けて、バイオリンケースに手を伸ばした。

 そして、急に胸にせり上がってきた違和感に、動きを止めた。

「う……ゲホ!」

 つきん、と胸の中が痛んで、咳が転がり出る。慌てて口元にやった手のひらに、生温かくてぬるりとした感触の液体が落ちた。

「あら?」

 リュシエンヌは手のひらをまじまじと見て、小首を傾げた。

 これは、血? 自分の口から? 一体どうして?

「……」

 まさかよりにもよって自分が血を吐くとは。アンリでもあるまいに……いや、夫は衰弱こそすれ、血などは吐かなかった。もしや自分はもっとたちの悪い、尋常ならざる病に罹ったのだろうか。血を吐く病の筆頭と言えば結核だが、そんな感覚はしない……。それとも自覚症状が無かっただけだろうか?

 新しい生活はまだこれからだと言うのに、何と都合の悪いことだろう。しかもアメリカでは医療費がとんでもなく高いと聞く。残ったお金で足りるかどうか。いや、そんなことは気にせずにまず診察を受けるべきか。

「……もう」

 面倒なことになってしまった。

 でも、ほんの少し、リュシエンヌは笑顔になった。

「私まで病になるなんて。私たち、似たもの同士だったみたいね。アンリ」




 ロジェは、まだインドシナにいるらしい。縁も無い土地でどうやって生計を立てているのかと、リュシエンヌは案ずる手紙を送った。しかしその返事によると、妖精の国の住人にとっては食物はさほど重要ではないらしい。人間の世界では、基本的に起きて寝るだけで事足りるとの話だった。ではどういう形で生体を維持しているのか、リュシエンヌは疑問に思ったが、他にも気掛かりなことが多かったので深くは尋ねなかった。まあ、仮に何かと物入りになったとしても、ロジェには宝石の涙が出せるのだから大した問題ではないのだろう。

 目は奪えそうなのか、体調は悪くないのか、とリュシエンヌはロジェへの手紙に綴った。それから、向こうが書いて寄越せとうるさいので、自分の近況も少し記しておいた。体調が変だったので病院に行ったら、レントゲンを撮られて、肺癌との診断を受けたこと。週に一度は病院に行って経過観察をしてもらうことになったこと。他の日にはアメリカ人の生徒さんのレッスンをしてお金を稼いでいること。ただ、医療費が嵩んで今のところ赤字なのでこれから頑張って稼がねばならないということ。

 自分が管楽器奏者じゃなくて良かったわ、とリュシエンヌは書いた。息を吹き込む楽器をやるのに肺を患ってしまったら、どうしようもないものね。

 返事が来る頃には新年になっていた。ロジェの書いた宛先の文字は、いつもより雑然としていた。その理由は中を読めば明らかだった。

 肺癌とはただごとではない、お金が足りないなら自分が涙の宝石を売って送金するから治療費や手術代に充てて欲しい、人間はか弱いのだからどうか命を大切にして養生して欲しい。そのようなことがずらずらと書かれている。字体から動揺の程が伺える。自ら命を危険に晒した竜に命を大切にと言われたのが可笑しくて、リュシエンヌは口元を綻ばせた。

 これ以上あなたの世話になるのは心苦しいわ、とリュシエンヌは書いた。あなたにはもう充分以上の恩があるのだもの、返し切れる自信が無いのよね。ただでさえあなたは遠くにいて、私からは何も手助けができないのに。

「リュシエンヌ。準備はできたのか」

 父に呼ばれてリュシエンヌは「はーい」と返事をする。手紙を書き上げて封をして切手を貼った。行きがけに投函しようと思う。

 これから父に車を運転してもらって病院へ行くのだ。父も慣れない中で辛うじて工事場の作業員としての仕事を見つけ、体を張って収入を得ている。そして数少ない休みをこうしてリュシエンヌのために使ってくれる。ありがたい。本当にリュシエンヌは人に恵まれたものである。

「癌の転移状況が予想よりも深刻です」

 医者はリュシエンヌにも聞き取れるようにゆっくりとした英語で説明した。

「出来るなら手術をしたいところですが、現代の技術では困難な位置にまで転移が進んでいます。グリュンベールさんには、入院して頂いた上で抗がん剤を投与するのが最善の策です」

「まあ……。抗がん剤を頂いたら、がんは治るのですか?」

「がん細胞への攻撃によって、進行を止めることまではできますが、残念ながら完治は出来ません」

「あら、そうなの……。私、バイオリンを教えてまして、生徒さんの面倒を見なくてはいけないのですが」

「少しでも長く生きるためには、お仕事をお辞めになって、入院なさるのが宜しいかと」

「まあ……。通院では駄目なのかしら?」

「抗がん剤は副作用もございますので、治療を続けるにつれ日常生活に支障が出るようになります」

「そう……」

 リュシエンヌは少しの間考えた。入院したら当然、バイオリンを弾けなくなるだろう。それも最期まで。

「……バイオリンはできる限り続けたいです。しばらくは通院しながら仕事を続けたいのですが」

「しかし、グリュンベールさん……」

「たとえ寿命を縮めることになっても構いません。バイオリンは私の人生です。亡き夫ともバイオリンを通じて出会いました。こうしてアメリカに来たのだって、自由にバイオリンを弾くためなんです。死ぬまで──体が動かなくなるまで、バイオリンは手放せません」

 医者は暗い顔をして、唇を噛んだ。

「患者さんの承諾が無ければ、入院手続きは基本的には不可能です。グリュンベールさんが了承して下さらないのであれば、定期的な通院という形で治療していくより他ありません」

「それで結構です。よろしくお願いします」

「私の仕事は」

 医者は悔しそうに言う。

「一人でも多くの人の命を救い、少しでも命を長らえさせることです。本来ならこの決定は、医師として望ましくないものです」

「そうなのですね。でも私の人生は、バイオリンが無ければ、終わったも同然なんです。音楽の無い人生など考えられません。音楽家としての死は、私の死なんですよ」

「音楽が無ければ、人生はありえない。そういうことですか」

「はい。その通りです」

「……分かりました。では、出来る範囲で全力を尽くします」

「ありがとうございます。感謝致します」

「では、お大事に」

「ええ。失礼します」

 リュシエンヌは診察室を辞し、待合室にいた父に結果を報告した。

 父は見たことのないような、険しく、悲しげで、悔しげな表情になった。

「お前がそれで良いと言うならば、誰にも止める権利は無いだろう。だが、親として言わせてくれ。わざわざ死期を早めるようなことをするなんて……お前はとんだ親不孝者だよ。親の願いは、娘が元気に長生きしてくれることなんだよ」

 リュシエンヌは泣きたい気持ちになったが、敢えて微笑みを取り繕った。

「……ごめんなさい。むごいことをしたのは分かっているの。でも私は──何もできずに病院で寝たまま死を待つのは、どうしても嫌だったのよ。たとえ短くとも幸せに生きたいの」

「折角、お金が手に入って、安全な国に逃げられたというのに、こんなことになるなんて……」

 父はおもむろにリュシエンヌを抱きしめた。

「……可哀想に。胸が張り裂けそうだよ。自分の命より大切な娘が、こんな目に遭うなんて」

「どうか私を哀れまないで。私はこれまでもこれからも、ずっと幸せだから。悲しまないで」

「そうか。悲しむなというのは無理な注文だが……今は……ただ、そうだな、幸せに生きようか」

「ええ」

「帰るぞ」

「ええ」

 借家に帰ったら、母にもこってり絞られると思っていた。案の定、母は苦言を呈したが、同時に珍しく泣き出してしまったので、リュシエンヌは後ろめたくなってしまった。

「あなたがそんな難しい病気で早くし、し、し、死んでしまうかも知れないなんて! しかも入院しないですって? この大うつけ! あなたって何にも分かっていないのね! あなたの判断力ときたら、生まれたてほやほやの赤ちゃんよりも低いわよ! 信じられない! もう良いわ、今すぐ病院に電話をして入院手続きをしてもらいましょう」

「お母さん、やめて。私はこれで良いの。お母さんには申し訳ないことをしたって、分かってる……でも、最後の我儘を許して欲しいの……」

「最後なんて言わないで! ああ、本当に……どうしてこんなことに……」

「ごめんなさい、お母さん」

「謝らなくたって良いのよ……どうか謝らないで……」

「……」

 そういう訳で、リュシエンヌは休み休み、バイオリン教室を続けた。たどたどしい英語を使い、伝わらない分は擬音語を使ったり自分で弾いてみたりして、補った。

 ロジェとの文通も続けている。最新の手紙では、ロジェは、左目を奪うことなどかなぐり捨てて、ニューヨークに飛ぶつもりだと息巻いていた。

 来なくて良いわよ、あなたはあなたの大切なものを取り返しなさい、と急いで返事を書いたが、手遅れかも知れない。あの勢いでは本当にこちらに来てもおかしくない。

 ──そして、ロジェはニューヨークに来た。

 また涙を溜めて売る必要があったので、しばらく時間がかかったが、とにかく来てしまった。

「グリュンベール先生! ロジェです! お久しぶりです! お見舞いに参りました!」

 玄関先でそう言われてリュシエンヌは目を丸くした。ベッドで療養していたリュシエンヌに代わって母が応対に出る。

「いらっしゃい。あなたがランヴァンさんね」

「はい! もしや、グリュンベール先生のお母様でいらっしゃいますか?」

「そうよ。さあ、中へお入りになって」

「お邪魔します!」

 のこのこと、ロジェは寝室までやって来た。

「グリュンベール先生っ! お体の調子は……」

 相変わらずの金髪に、碧眼の片方を隠す黒眼帯。

「いらっしゃい、ロジェ。体は思ったより悪くないのよ。少し寝ていればレッスンも問題無くできるの」

「そうなんですね。しかし……」

「ロジェは大丈夫なの? ガーネットとこんなに距離を置いてしまって……在処が分からなくなったりしないの?」

「平気です。ちゃんとどこにあるか大まかには把握できています。今の所有者は諸事情でインドシナの北部に配属されたんですよ。ガーネットも北部に移動しました」

「そうなのね。取り返せそう?」

「厳重に仕舞われているので何とも……。でもまだ時間がありますからね。それより僕はグリュンベール先生の方が心配ですよ!」

「そうすぐに死ぬ訳ではないわ。少し休めば日常生活が出来るって言ったでしょう」

「僕は」

 ロジェは涙声になっていた。

「グリュンベール先生が幸せに生きるためなら何だってします。そのために人間の世界に来たんです。だから、幸せに生きて欲しかったのに」

「あら。まるで今が不幸せみたいな言い草はよして。私は幸せよ。バイオリンを弾いていられるし、こうして飛んできてくれる生徒だっているんですもの」

「ううっ」

 ロジェは涙を一粒流した。それは宝石に変わることなくロジェの手の甲に落ちた。

「あら、普通の涙も出るのね」

「宝石は少量しか出なくて。出し切ったら普通の涙になるんです。時間が経たないと出るようにはなりません」

「そう……それで溜める必要があったのね」

「はい」

「でも、泣かないで、ロジェ。あなたのお陰で私は何度も助けられてきたわ」

「でもっ、肝心なところでお役に立てなくて」

「そんなことは気にしないの。ロジェは何にも悪くないでしょう」

「うっうっ……はい……」

 ロジェは洟をすすった。

「僕、しばらくニューヨークにいます。グリュンベール先生のおそばに居たいのです」

「でも、左目は良いの?」

「何か動きがあれば探りに行きますが、今はこのままで良いのです」

「そう」

 リュシエンヌは微笑んだ。

 ロジェの献身に私が応えられたら良かったのに、とリュシエンヌは思った。

 でもリュシエンヌは未だにアンリを愛していて……ロジェを受け入れることはとても出来ない。

 だから、せめて、元気に動ける内は、どうにか埋め合わせをしたい。

「ロジェ、またレッスンをつけましょうか」

「あ……。ご負担でなければ、是非お願いしたいです」

「負担どころか、生徒に教えるのが私の生き甲斐ですからね。ロジェはまだパガニーニの途中だったから、特に気掛かりだったのよ」

「ありがたいお言葉です」

「それじゃ、また日を改めて来て頂戴。バイオリンと楽譜を持ってね」

「はい……!」

 こうしてロジェは一週間に一度、この家に来るようになった。

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