第14話 遠大な旅路の果ての今

「それで私、アメリカでもグリュンベール先生のレッスンをまた受けることにして。パガニーニの例の曲、上手く弾けるようになるまで見てもらったんだ。他にもシベリウスとか、ブルッフとか!」

「へえ……」

 大学の空きコマの時間、いつもなら幸華は自主練をするのだが、今日は鈴乃の話を聞くことにしていた。

 左目を取り戻した鈴乃は、しかし、黒眼帯を着けたままだった。要は伊達眼帯である。外さないのか、と尋ねたところ、もうこれのせいで有名人だから今更後に引けない、と言う返答があった。確かに、幼い頃に怪我をして完治しなかったという嘘をばら撒いておきながら、ある日あっさりと治りましたと言うのも変な話ではある。

 幸華は購買で買ったキャラメルフレーバーのアイスコーヒーを、ストローで飲んだ。

「その頃には、アウシュヴィッツの収容所も稼働し始めてたし、本当に危ないところだったんだよね。早めに先生をアメリカに行かせて正解だったよ」

「でも、肺癌になってしまったんでしょ。しかも手術をしてもらえなかったって……」

「それがね、その後はがんの悪化が奇跡的に遅くて。普通に終戦まで──どころか、もっと後まで生きながらえたんだ」

「え、そうなの?」

「もちろん体力は衰えてしまって、終戦直後くらいにはパリに戻って入院なさったんだけど、それまではきちんとニューヨークでレッスンをやってたみたい。私は目のことがあって、またベトナムに行かなきゃいけなかったから、最後の方はレッスンを受けられなかったんだけどね」

「へえ……」

「それじゃ、これがその後どういうルートで幸華の元に来たのかを、ひとまず先に話しちゃうね」

 鈴乃は眼帯を指差して言った。

「うん。よろしく……」

「任せなさい。まず、時は流れて一九四四年。連合軍によるノルマンディ上陸作戦が成功して、パリがナチスから解放された後のこと。ベトナム北部を中心に、大飢饉が発生したんだ」

「飢饉……? 知らなかった」

「うん。原因は諸説あるらしいけど、有力な一説としては、日本やフランスがベトナム中から米を徴収してしまったせいだって。戦争継続のために植民地から不当な搾取をしたとされているよ。お陰でインドシナの人は食べる物がなくなっちゃってね」

「へえ……。それは酷いね」

「全くだよ」

 聞くと、ベトナムの人々は、食べ物を求め、農村を出て都市部へ向かう例が多かったようだ。農村に対する米の買い付けが苛烈だったため、物流の中心地たる都市部が恃みだったという。人々は都会への道中で昆虫やネズミを捕まえて食べたりしたらしい。もちろんそんなことでは生き残れるはずもなく、道には餓死した人の遺体がごろごろと転がっていたとか。

「聞いたことなかった……」

 知らなくてはいけないことなのだ、本来は。これは過去に日本がやった戦争犯罪だから。

「……で、ガーネットを持ってたフランス人のことだけど」

 鈴乃が話を戻す。

「彼は珍しく慈悲の心を持っていた生粋の変人でね。この飢饉から少しでも多くの人の命を救いたいと思い立ったんだ」

「はあ」

「そして、日本軍のお偉いさんの中にも、類稀な変人がいた。しかも日本は、インドシナ植民地政策で主導権を握っていたものだから、この日本から来た変人さんはかなりのお金持ちだった」

「……」

「さて、変人日本人は、変人フランス人の願いを聞いて、彼に協力することにした。ガーネットを買い取ることで、フランス人さんに潤沢な資金を渡したんだ」

「あ……」

「そう、その変人日本人こそ、幸華の曾祖父様って訳だよ」

「……そうだったんだ」

 鈴乃はカフェテリアの机に肘をついた。

「変人二人は、しばらくは誰にもバレることなく、植民地の人々の救済活動を行なっていた。ところが翌年になって、曾祖父様のお金と、溜め込んでいたお米の動きが、怪しいってことが上層部に発覚してね。芋づる式に慈善活動のことがバレちゃって。植民地からの取り立ては日本の勝利の為だ、日本の取り分を削って植民地の人々を助けることは勝利の妨げとなる、とか何とか難癖をつけられて、一度日本に戻るようにとの命令が下った」

「日本の取り分って……図々しいね。元々ベトナムの人のお米なのに」

「本当にそうだよね! ま、それはともかく、曾祖父様はガーネットを持って、命令通りに日本に帰った。しかし同時期にポツダム宣言が受諾されて、日本は戦争をやめた」

「え」

「よって曾祖父様は日本軍による処分を受けずに済んだんだ」

「それはまた……タイミングがよろしいことで……」

「ガーネットが日本に来た理由はこれ。あとはずっと日本で代々受け継がれてきたって感じかな」

「へえ……」

「だから、私は男の子の姿で色仕掛けをする作戦で、虎視眈々とガーネットを狙っていたのに……」

 鈴乃は遠い目をして、椅子の背もたれに背中を預けた。

「これが、さっぱり駄目でね。幸華のお母様もお祖母様も、私のこと歯牙にも掛けないの。流石に焦ったよ」

「ふーん」

「ま、そんな訳で、ガーネットに関してはだいたい話せたかな」

「そっか。ありがとう」

「いえいえ。お礼を言うのはこちらの方だから」

 鈴乃は背もたれから身を起こして、お辞儀の動作をした。

「こんな私でも友達だと言ってくれてありがとう」

「そんな……。それよりも、鈴乃の命が助かって良かったよ」

「そう言ってもらえると気が楽になるよ」

「そっか」

 幸華は言って、立ち上がった。

「そろそろオーケストラの練習が始まる。準備しに行こう」

「うん。えーと、今日はどんなスケジュールだっけ」

「ラフマニノフだけ、がっつりやるって言ってた」

「了解」

 オーケストラの合奏練習は、場合によっては数時間かけてじっくりやることもざらだ。そもそも交響曲を一曲通してやるだけで一時間前後かかることが多いのだから、これは妥当な時間設定である。

「合奏が終わったら、デュエットの練習時間取れるかな」

「居残り練習で良いなら幾らでも取れる。部屋を予約しておこうか」

「助かる。ありがとう幸華」

「ううん」

 幸華はスマホで大学のポータルサイトにアクセスし、練習部屋の予約をした。

「ん、良いよ。行こう」

「行こう!」

 ふふふふふふーん、と鈴乃は歌っている。

「ラフマニノフってやたら中毒性あるよね」

「……分かる。私も、脳内再生を始めたらいつまでも終わらなくなる」

「メロディーメーカーとして名高いラフマニノフの真髄って感じ!」

「よく知ってるね。オケには乗ったことないって言ってたのに」

「長く生きていれば知識は自然と積み重なるものだよ」

「そっか。……座学でよく寝るのも、昔から勉強してたから?」

「そういうこと」

 雑談をしているうちに練習室に着いた。先に到着した者から率先して椅子の配置変えを進めている。その仕事に幸華たちも加わった。椅子を必要な数だけ必要な場所に置ければ、後はチューニングが始まるまで自由時間だ。各々、所定の位置の椅子に座って軽く練習を始める。

 幸華と鈴乃は同じプルトで、セカンドバイオリンの前から二番目だった。一番前のプルトになれなかったのは悔しいが、二番目以降とて仕事はきっちりこなさねばならない。常に研鑽し、高みを目指す姿勢が肝要だ。

 開始時間が近付き、指揮者の先生がやってきた。二軍以下のオーケストラでは指揮科の学生がタクトを振るが、一軍にはベテランの指揮者からの指導が入る。チューニングを済ませた学生たちは、一心に先生を見上げた。先生は指揮台の上に立って皆を見渡した。

「学内発表会が近いですね」

 先生は言った。

「第一管弦楽団はこの発表会の最後に出演することが決まっています。トリを飾るのに相応しい完成度にしていきたい所ですので、頑張りましょう。……では、ラフマニノフですね。今日は三楽章から。冒頭、下さい」

 指揮棒が振り下ろされる。

 滑らかに叙情的に、中低音の弦楽器が入り、バイオリンがそれに乗って主題を歌う。泣きたくなるような、優しくて丁寧な旋律。それが一段落したら、クラリネットによるあまりにも美しいソロが始まる。──だがその前に、先生は指揮棒を下ろした。

「はい、はい。悪くはないですよ。悪くはない。でももっとできる。感情に訴えかけるような深い音色が欲しいです。まず、ビオラは弾き始めの力の溜め具合が──」

 先生は細かく要望を伝えると、再び指揮棒を上げた。

「ではもう一度同じ所から。──スリー、フォー、……。そうそう、今の方が良い。その方向性で。続きどうぞ」

 幸華も鈴乃も至って真剣な顔で合奏練習を乗り切った。合奏中はもちろん椅子に座りっ放しで、動き回ったりなどしないのに、全力で演奏した後はへとへとに疲れてしまう。殊に弦楽器は管楽器と違って楽譜上の休みが極端に少なく、長い間ずっと弾き続けることになるので、尚更疲労困憊になる。

「んああーっ」

 鈴乃はバイオリンを膝に置いて伸びをした。

「疲れた!」

「疲れたね」

「やれやれだよ」

「この後デュエットやる予定だけど」

「ひえー。ちょっと自販機でコーヒーでも買わせて」

「分かった」

 ガコン、と鈴乃は冷たい缶コーヒーを購入してぐびぐびと飲んだ。幸華は持ち歩いていたペットボトルの水で喉を湿らせた。

「ねえ、鈴乃」

「ん?」

「オケは、気に入った?」

「そりゃあもう」

 鈴乃は早くも空になった缶を握り潰してゴミ箱に放った。

「沢山勉強になってるし、良い刺激にもなってる。凄く面白いよ」

「前に、ソリストとして活動するのが夢だって言ってたけど、あれは嘘? 本当?」

「あはっ、疑われちゃった」

「それは自業自得。鈴乃ってば嘘ばかりついてたから」

「ん〜事実なので何も言い返せない〜。そうだね、もし卒業後も人間の世界で活動するなら、やっぱりソリストが良いな」

「そうなんだ」

「その方が気楽だと思うんだよね。予定を調節すれば少し人間の世界から離れて帰省しても問題無さそうだし」

「なるほど……? そういうものなの?」

「多分ね。でもオケの練習はとっても有意義だよ。ソリストってやっぱりフルオーケストラをバックに弾きたいでしょ。オーケストラの気持ちを分かっていた方がやりやすそうだもん」

「ふむ」

「でもなー。いっぱしのソリストになるには、もっとコンクールとかにガンガン出て行かないとなー。今までは、どうせ人間界を去るつもりだったから、何にも受けて来なかったんだよ」

「……今からでも遅くないんじゃないの」

「そう? まあ、ぼちぼち探していくとするよ」

 喋っているうちに予約していた部屋に着いた。二人は鞄の中からごそごそと楽譜を取り出した。

「グリュンベール……『竜の宝石への二重奏』……」

「ん? どうしたの? 急に改まって」

「いや、さっき、鈴乃がこの人に目をあげたんだって聞いたから。そっか、ただ単に鈴乃の正体を知ってたんじゃなくて、鈴乃の目に助けられたからこその、この題名なんだなって。これは、お礼のための作品なのかな」

「あはは。うん、そんなところだよ」

 鈴乃は笑って頷いたかと思うと、小声でこう付け足した。

「私としては、『竜への二重奏』でも良かったんだけどね」

「どうして」

「グリュンベール先生は、わざと宝石って言葉を入れたんだと思う」

「どういうこと」

「だって、先生の心はいつまでも旦那さんに恋していたから。だから、この曲は私に宛てたものじゃないんだ。私が宝石をあげたという行動へのお礼なんだよ。それを思うと、少し寂しくてね」

「……」

「でも私は、グリュンベール先生がそういう人だからこそ、もっと好きになれたのかもね。……いずれにせよ、私はこの曲を受け取れて凄く嬉しかったよ。本当にね……」

「……」

「さあ!」

 鈴乃は急に明るい顔になって言った。

「早く練習しよう! いよいよ本番が近いし、気合いを入れなくちゃ」

「あ、うん」

「弾く前に、昨日の夜に思いついたことを言っておくね。楽器を準備しながらで良いから聞いてくれる?」

「え、メモとか取らなくて良いの」

「要らない、要らない。簡単なことだから。あのね、今日私が打ち明けた、ガーネットの辿った経緯を元に、曲の構想を作って欲しいんだ」

「……構想から変えるの? それって大仕事じゃ……」

「大体は私がこれまでに練った案の通りだから、そこまで変わらないよ。だけどこれからは、幸華にもそのつもりで弾いて欲しいってだけ。やっぱり、演技の仕方によって、音色って違うからね。意識面からちょっと見直してくれると嬉しい」

「……。分かった。やってみる」

「ありがとう!」

 幸華は楽器を持って、背筋を伸ばした。

「私は準備できた。鈴乃は?」

「あっ待って、後は肩当てをはめて……よし、オッケー。いつでも行けるよ!」

「どこからやる?」

「折角気持ちを新たにしたんだから、一曲通してやりたいな」

「分かった」

 二人は日がとっぷり暮れて空が真っ暗になるまで、練習を続けた。こうして事情を聞いた後で弾いてみると、曲の解釈が驚くほど変化する。慣れるまでにまた一苦労しそうである。それも早く慣れねば本番に間に合わない。

 まだまだ弾き足りないところだが、じきに部屋の予約時間の終わりが近づいてきた。

「つっかれたぁ〜!」

 鈴乃はまた伸びをした。

「オケみっちりやった後にデュエットがっつりやるの、キッツいなぁ〜!」

「体力を付けないとね」

「う〜。それ、昔グリュンベール先生にも言われてた。持久力が無いって」

「だったら尚更頑張らないといけないんじゃないの」

「その通りです。はい。朝ランニングでもしようかな……」

「演奏のための体力がランニングで付くかは知らないけど……健康的ではあるね」

「もう暑い季節だし、早起きできると思うから、やってみる」

「暑いと早起き?」

「元が変温動物だからかな。冬はなかなか動き出せないんだ」

「変温……!? それは大変」

「ちゃんと恒温動物の体に変身してるのに、不思議だよね〜」

「まず変身そのものが不思議だけどね……」

 二人で暗い夜道に出て、最寄り駅までてくてく歩く。駅に着けば、二人で電車の方向が違うので、それぞれのプラットフォームで待つことになる。

「それじゃあ、また明日ね」

 鈴乃は言った。

「うん、また明日」

 幸華は返した。そう言えば誕生日の夜、鈴乃は「バイバイ」としか言わなかったな、と思い出す。あれは鈴乃が幸華に二度と会わないつもりだったから出た言葉だったのか。

 でも今は、また明日、と言ってくれた。嬉しい。明日も明後日も、幸華には友達が居てくれるという事だ。

 幸華のキャンパスライフは引き続き──否、これまでよりもっと、楽しいものになっていくに違いない。そんな前途洋々たる気持ちで、幸華は電車に乗り込んだ。

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