第15話 お礼のために作ったもの

「こんにちは、グリュンベール先生!」

 性懲りも無く病室を訪れた教え子の顔を見て、リュシエンヌは内心呆れ返ってしまった。

「よく飽きずに毎週来るわね。暇なの?」

「はい、暇なんです」

「嘘おっしゃい。あなたの左目が遥か遠くの日本くんだりまで行ってしまってから、何年経つと思っているの」

「おおよそ七年ですね。そしてグリュンベール先生がパリに戻られて入院されたのも七年前。こんなに長いこと病院で寝ておられるのはさぞ退屈でしょう。せめてもの気晴らしになれればと、こうして伺っている次第です」

「私のことは良いから、とっとと目を手に入れて来なさいよ。ぐずぐずしていたら死んでしまうのでしょう」

「大丈夫ですよ。僕の場合は猶予がまだ九十年くらいありますから」

「呆れた。能天気もここまで来ると見上げたものね」

「恐れ入ります」

「褒めてないわ」

「あはは」

「呑気に構えていないでもっと危機感を持ちなさい」

「そうですねえ。検討します」

 そう言いながらも全く検討するつもりなど無いのは明らかだった。ロジェは持って来た花束の包装を剥がして、花瓶にある萎れかけた花と入れ替えた。リュシエンヌはその作業を黙って見ていた。

「近頃はクラシック音楽界がまた盛り上がっているんですよ」

 おもむろにロジェが言う。

「先週からはあのカラヤンがフィルハーモニア管弦楽団とヨーロッパ・ツアーを始めていまして、最初の会場はここパリのシャイヨ宮だったんです。僕、聴きに行っちゃいました。チケットが信じられないほど高くてびっくりでしたよ」

「カラヤンに、フィルハーモニアね……」

「はい。素晴らしい演奏でした。カラヤンの指揮はそりゃあもう大変な迫力でして。それに食らいついていくオーケストラも物凄く真剣で鬼気迫る勢い! 正に新時代が築かれているのだと感じましたね」

「……フィルハーモニアはイギリスの新しいオーケストラよね」

「ええ」

「そしてカラヤンは元ナチ党員」

「はい」

「……まあ良いわ。カラヤンは、頭こそどうかしてるのに違いないのだけれど、指揮者としての腕は一級品だという噂だものね。聴けて良かったわね、ロジェ」

「はい!」

「演奏会では何の曲をやっていたの?」

「ええと。まずは、ヘンデルの『水上の音楽』。それから、ストラヴィンスキーの『カルタ遊び』。そしてブラームスの『交響曲第一番』でした!」

「ふうん……。あちこちの作曲家の、色々な時代の曲を取り揃えた……という感じがするわね」

「ええ。音楽の幅広い可能性を感じましたよ」

「そう」

 リュシエンヌは無意識に浅く息を吐いた。ロジェが目ざとくそれに気付いて、心配そうな顔をした。

「息が苦しいのですか」

「……いいえ。このくらいなら平気よ」

「無理は禁物です。もしや僕はお邪魔でしたでしょうか。お喋りがすぎましたよね。すみません。ご負担になるようなら……」

「そうじゃないの」

「えっ」

「あなたがお見舞いに来るくらい別に構わないわよ」

 意外に思ったのか、ロジェは目を見張った。

「ほ、本当ですか。邪魔ではないのですか」

「嘘なんか言わないわよ。……そりゃあ、あなたに早く目を取り戻して欲しいというのが本音よ。でもあなたの言う通り、七年もここに閉じこもっていては退屈なのよね、流石に。見る景色はいつも同じで、食べる物も味気なくて。おまけにこんなに体がひょろひょろになっていては、満足にバイオリンも弾けないのだもの」

「そうですか……」

 落ち込むロジェに、リュシエンヌは微笑みかけた。

「でも、完全に手持ち無沙汰という訳でもないの。少しはやることがあるのよ。そうね……ロジェ、また来週、ここへ来てくれる?」

「それはもちろん、お伺いします」

「良かった。あなたに渡したい物があるのよね」

「渡したい物……? 今日は渡せないのですか?」

「ええ。あと一週間は手元に置かなくてはならないの」

「……? 承知しました。では、一週間後、またここに伺います」

「必ず来なさいね」

「はいっ。例え天から槍が降ろうとも、身命を賭して絶対に馳せ参じます!」

「いえ、そこまで命懸けでなくても良いわ」

「構いません。僕が命懸けになるのは、グリュンベール先生に関することだけですから」

「……。そう。ありがとう」

「どういたしまして。では今日はこれで。失礼します。お大事になさって下さい」

「ええ。気をつけてお帰りなさい」

「お気遣い、痛み入ります」

 ロジェはそっと扉を閉じた。廊下を歩み去る靴音が、だんだんと小さくなっていく。

「……」

 リュシエンヌは何となく両手を見下ろした。かつて弦を押さえていた左手の指も、弓を振るい続けた右手の指も、昔はカチカチに固まっていたのに、今では細く柔らかくなってしまった。長時間に渡り楽器を挟んでいた首の痣も薄れた。肌の色はすっかり青白くなってしまっているし、顔に触れれば頬がこけているのが分かるし、頭には髪もなくて帽子で隠すしかない。

 まるでアンリね、とリュシエンヌは一人で苦笑した。夫も寝てばかりでさぞ退屈だったろう。あの頃は、出来るだけそばにいてあげたつもりではあるが……。

 リュシエンヌはぐっと力を振り絞って、机に手を伸ばした。置いていた紙の束と鉛筆を取り上げる。

 来週までにと言ったからには、きちんと仕上げなくてはなるまい。

 紙は五線紙だった。リュシエンヌは今、注意深く行きつ戻りつしながら、一つの曲を書いていた。

 入院中、他にも作曲をして暇潰しをしてきた。でも今回のこれは特別だ。人にあげるための曲は初めて書く。

 ──僕が命懸けになるのは、グリュンベール先生に関することだけですから。

 全く、困った生徒だ。出会ってから随分と経つのに、ロジェはまだリュシエンヌのことが好きらしい。

 リュシエンヌとて、ロジェに対して何も思わないということは無い。愛着は湧く。感謝もしている。でも、恋は出来ない。どうしてもそこだけは無理だ。

 ロジェはまだ長く生きるのだから、他の人を見つけて幸せになるべきだと思う。リュシエンヌのことなど忘れ、新しい恋をして欲しい。楽しい人生を送って欲しい。

 ただ、一度くらい、リュシエンヌからも誠意を見せてあげたい。こんなに慕ってくれたロジェ、自分の危険を顧みずに助けてくれたロジェには、何かしらの形でお礼がしたい。

 だから、書くことにした。かなり前からこつこつと音符を連ねてきたが、そろそろ仕上げをしないといけない。

「んんー……」

 かのモーツァルトは頭の中で自然と音楽が湧いて来て、ほとんど迷うことなく記譜をしていたと伝わっている。反対にベートーヴェンは試行錯誤を繰り返しながら作曲していたとか。

 リュシエンヌも書いたり消したりして悩みながら曲を作る。ここにはピアノも無いから作るのに難儀する。実際に音を耳で確かめられないのは非常に不便である。理想通りの音になっているかどうか案じてしまう。

 因みに今は、題名に迷っていた。バイオリン二重奏、とだけ付けて済ませることももちろん可能だが、どうせなら曲名を付けてあげたい。これはリュシエンヌの思いを込めた曲なのだから。

「竜……、竜のための……? 少し違うわね……」

 新しい世界へ羽ばたいて欲しいという思いで書いているのだ。リュシエンヌとの距離は遠すぎず近すぎず、ほどほどであって欲しい。たまに思い出してくれるだけで良いのだ。それなのに、竜のための二重奏、では感覚的にはやや近過ぎる気がする。

 リュシエンヌは先程のロジェの顔を思い浮かべた。左目に黒い眼帯をしている姿は、見ていて痛々しく、心苦しかった。そうだ、彼が目を取り戻せるようにという願いも込めたい。

 竜の目のための……いや、これではあまりロマンティックではない。もっとお洒落な響きが欲しい。竜の……竜の、宝石のための。ための? これもちょっと捻りがあるのが望ましい。例えば、遠くから祈りを込めているような感じで。

「竜……。竜の宝石、への」

 口に出してみて、これだと納得が行った。

「竜の宝石への二重奏。うん、これくらいが良いわね」

 リュシエンヌは楽譜の一番上の空白に手書きで文字を入れた。ついでに題名の右端に小さく自分の名を記す。

 あとは、残された一週間で細かく仕上げ作業をするのみ。

「はー……」

 ほとんど動いてもいないのに、息切れがした。昔にロジェの体力の無さを指摘したことがあるが、自分がこれでは格好が付かない。情けないことだ。

 五線紙と鉛筆を布団の上に放って寝転がる。ひどく疲れていた。体に力が入らない。

 これが最後の作曲になるのだろう、という予感がした。来週までは意地でも生きていたいものだ。




「グリュンベール先生」

 ロジェの声にはいつもの覇気は無かった。

「先週よりまた随分とお痩せになりましたね」

「……」

「先生?」

「ご、めんなさい」

 ゴホゴホとリュシエンヌは咳き込んだ。

「最近、喋るのも、一苦労で」

「ああ……」

 ロジェは悲嘆に暮れた様子で言った。

「無理をさせてしまいましたね。申し訳ないです」

「良い、の。ただ、この、一週間で、容体が、急変していて」

「おつらいのでしたらお話しにならずとも大丈夫ですよ。代わりに僕が沢山喋って差し上げます」

 リュシエンヌは黙って微かに頷いた。

「ロジェ」

「はい」

「その、机の、上の紙」

「え? あ、これですか」

「それを、あなたに、あげる」

「僕に? ……あ!」

 ロジェは紙をひっくり返して表を見た。

「楽譜……! もしや、先生が書かれたのですか?」

 リュシエンヌは精一杯微笑んでみせた。

「それは……あなたへの、お礼として、書いた曲。本当は、私も、あなたと一緒に、弾いてみたかった……」

「先生……」

「死ぬ前に、書き上がって、良かったわ。いつか、これを、誰かと、弾いてみて……」

 ロジェは唇を噛んだ。楽譜を持つ手が震えていた。

「僕もグリュンベール先生とデュエットがしたいです……」

「ふふ」

「どうして二重奏なんですか。これじゃあ、僕一人では、弾けないではありませんか」

「あなたは、うんと長生き、なのだから、……その内、見つかるわ。弾いてくれる、人が」

「見つけられませんよ。見つけたくない……」

「見つけるの」

 リュシエンヌは空咳をしてから、言葉を続けた。

「もっと、バイオリンを、楽しむの。そうしたら、色んな人間と、出会えるわ。私は、ロジェに、そういう素敵なバイオリニストに、なって欲しい。豊かな人生を、歩んで欲しい」

「……」

「楽しく、弾くの、大の得意でしょう」

「……はい」

「ふふふ」

 ロジェはしょぼんとして楽譜を眺めていた。

「良い曲ですね。素敵だ。こういうの、僕はとても好きです」

「そう。良かった」

「大切にします」

「ありがとう」

 ロジェは丁寧に楽譜を鞄に仕舞った。一瞬、ひどく悲しそうな表情をしているようにも見えたが、再びこちらを向くとロジェは明るい笑顔をしていた。

「それじゃ、退屈凌ぎに、面白い話でもしますね。聞いて下さいよ、先生。このあいだ僕が息抜きに散歩に出かけた時のことなんですが──」

「ゲホ!」

「──え?」

 白い布団に鮮やかな赤色がビシャッと落ちた。咳が止まらない。リュシエンヌは息を吸おうとしたが、ゼヒューッと妙な音がするばかりでちっとも呼吸できない。痛い。苦しい。

「ウ、グッ」

「先生っ! 僕、人を呼んできます!」

 ロジェが大慌てで病室を出た。すぐに看護師がやってきて、リュシエンヌの様子を見た。

 それからはてんやわんやだった。応急処置の後、速やかに医師が呼ばれて、リュシエンヌは緊急治療室に運ばれることになった。追い出されてしまったロジェは、見たことがないほど心配そうな顔でリュシエンヌを見たが、すぐにリュシエンヌの両親を呼ぶために駆け出して行った。

 医者の方々は必死にリュシエンヌを助けようと動いてくれていた。ありがたいなあと思いながら、リュシエンヌは目を閉じた。

 しばらくすると、痛さも苦しさも徐々に収まっていった。体中がふわふわとした感覚に包まれている。リュシエンヌは瞼を開けたが、閉じている時と同じような暗闇が広がっているだけだった。

「リュシエンヌ」

 懐かしい声がする。リュシエンヌはハッとして振り返った。

 元気な様子のアンリが立っていた。暗闇の中なのに、アンリの姿だけははっきりと見ることが出来た。

 リュシエンヌはにっこり笑って、アンリの元に駆けていった。こんなに自由に体が動かせるのは何年ぶりだろう。

「アンリ!」

「よく頑張ったね、リュシエンヌ」

「ここはどこ?」

「僕と君のための場所」

「まあ……。死後の世界など無いと、ユダヤ教では教わったのに」

「死後の世界ではないよ。ここは本当に、ただ僕と君のためだけにある場所なんだから」

「でも、私、死んだと思ったわ」

「それは、もうすぐだ。僕は君が一人で寂しく死ぬことがないように、やって来たんだ」

「そうなの? ふふ……嬉しい。ありがとう」

「一緒に無に還ろう、リュシエンヌ」

「ええ」

「ほら」

 アンリは両腕をこちらに伸ばした。

「その時まで抱き締めていてあげよう。その方が安心するだろうから」

「心配しなくても、怖くなんかないわ。でも、そうね。お言葉に甘えようかしら」

「うん。おいで、リュシエンヌ」

「ええ、アンリ」

 アンリの腕の中は暖かかった。幸せに包まれる。

 色々と大変なこともあったけれど、悪くない人生だった。

 全てが暗闇の中に溶けて消え失せるまで、リュシエンヌはずっとアンリを抱きしめていた。

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