第16話 二人で夢を叶える


 学内発表会が近い。学生たちは各々が本番に向けての最終調整に入っている。

 ソロもオーケストラもあるので、デュエットにばかりかまけてはいられないが、手を抜くことなど当然許されないし、真面目に取り組まないのも幸華の主義に反する。幸華は寸暇を惜しんで練習するべきだと主張した。ところが、鈴乃は息抜きがしたいと言って譲らなかった。

「音を出すのがつらくなってきたらもうおしまいだよ。適度に休まないと楽しくなくなっちゃうよ」

「じゃあ、私はベートーヴェンの方を練習してるから……鈴乃は一人で休んでいて良いよ」

「駄目ー。一緒に購買に行ってアイス買い食いしたい」

「ア……アイスの、買い食い……!?」

 幸華の意志がぐらりと揺らいだ。

 友達とアイスを買って一緒に食べる。仲の良い女子グループや、調子の良い男子の集団などが、好んで行なっていた、青春の象徴。若者の必修イベント。

 あのように語らいながら甘味を食べるのはさぞ楽しかろう、羨ましい、自分もやってみたい。そう密かに憧れたものだ。コミュニケーションに難のある幸華には到底できないことであったが……だからこそ、高校生の頃からのささやかな夢だったのだ。

「ねー行こうよー。アイスアイスー。アイス食べたいー」

「……」

「アイスアイスアイスアイスー! 行こう?」

「……。……行く……」

「やったあ! それじゃ早く片付けちゃおう」

 楽器ケースを背負い建物を出て日差しの中を歩く。るんるんと上機嫌で鼻歌を歌う鈴乃の隣を歩きながら、幸華は言いたいことがあったのを思い出す。

「そういえば、鈴乃」

「ん?」

「今更なんだけど……あの……」

「何々?」

「あのデュエット、鈴乃は、他の誰とも弾いたこと無かったんだね」

 二十歳未満の学生ならまだしも、百を優に超える年の者がずっと機会に恵まれなかったと思うと少し切ない。

 鈴乃は不意を突かれたらしく驚いた顔をしたが、すぐににこにこ笑顔になった。

「うん。そうなんだよ。楽譜をもらった直後に先生が亡くなってしまったから、ご一緒することも叶わなくて。その後もバイオリニストとの交流は特に無かったからね」

「そっか」

「最初に言ったでしょ。この曲を一緒に弾いてくれる人をずっと探していたって。私は七十年も待っていたんだよ」

「そんなに……」

 七十年間、ずっと鈴乃は、故人を思って楽譜を持ち続けていたのか。凄まじい執念と、愛の深さだ。

「そう言えば鈴乃は、初合わせの時も、泣いてたもんね」

「あはは。そうだったね。……だから、私、幸華と会えて良かったと思っているよ。デュエットを弾くっていう夢が叶って、嬉しいな!」

「そ、それは……本当に?」

「本当だよ!」

「ふうん……?」

「何その反応! あーあ、私、幸華からの信頼をすっかり失くしちゃったなあ」

「それは自業自得だってば」

「あはは、また言われちゃった。幸華は手厳しいね!」

「……冗談。私のこと必要としてくれる友達なんて、今までいなかったから、何だか信じられなくて」

「まーたそういうことを言う。幸華はもっと自分に自信を持ちなって」

「それは……善処する」

「是非して」

 話している内に購買に着いた。二人は真っ直ぐにアイスコーナーへ向かった。

「へえ、沢山あるんだね」

「うん! あーっ、どれにしよう。チョコとバニラのやつは絶対に美味しいんだけど、さっぱりしたシャーベット系も捨て難い……」

「どれが良いんだろう」

「分からない時は直感に従うと良いよ! これだ! って無理矢理決めちゃうの」

「そうなの?」

「そうだよ! 長く生きてる私が言うんだから、間違いないよ!」

「そ、そっか。ええと、じゃあ、これ……」

 幸華は手を伸ばして棒アイスを一つ取った。

「抹茶? 良いね!」

「抹茶スイーツは、好きだから……」

「そっか! ……それ、早く会計して食べ始めないと、溶けちゃうよ!」

「え、あ、そしたら、お先に……」

「はーい! 私もすぐ行く!」

 幸華は支払いを済ませて外に出た。後から本当にすぐに鈴乃が出てきた。

「お待たせーっ! これにしたよ!」

「ソーダ味」

「うん! 何だか今はスッキリしたい気分でね。さ、食べよ食べよ」

 二人はプラスチックの包装を破ってアイスを取り出し、黙々と食べた。

 抹茶のアイスは甘くてほろ苦く、なめらかで口当たりも良かった。先に食べ終えてしまった幸華は、鈴乃が食べ終わるのを待った。しゃくしゃくとアイスの残りを齧っていった鈴乃は、満足そうに息を吐き出した。

「ごちそうさま!」

「ごちそうさま……」

「良し! 気分転換は完了! 戻ろう!」

「うん」

 二人はゴミを捨ててから先程の練習室まで戻った。

「……誘ってくれてありがとう」

「ん? ああ、いいえ! 私が食べたかっただけだから!」

「うん。珍しいね、鈴乃が何か食べたがるなんて」

「そういう気分の時もあるんだよ。いつでも食べられるし、また買いに行こう!」

「うん」

 幸華は僅かに口角を上げた。

 友達とは、実に良いものだ。人生において、こんなに心弾む体験ができるとは思わなかった。

 あの夜、鈴乃を引き留めることが出来て良かったと思う。

 これからも楽しいことが沢山待っているに違いない。そう思うとわくわくしてくる。

 デュエットを練習できる時間も後残り少ない。今は、友達として、鈴乃の夢のために、全力を尽くそう。




 学内発表会と銘打ってはいるが、この演奏会は一般にも開放されている。チケットを買えば外部の人間も聞きにくることが可能だ。幸華の両親もわざわざ来てくれると言っていた。

 夥しい数の出演者や出演団体を抱えているので、発表会は二日間に渡って開催される。それも、朝早くから夜遅くまで、ぶっ続けで。

 アンサンブルの部は、一日目の朝に開かれると決まっていた。

 早起きして大学に来た幸華は、楽屋に入り、服を脱いだ。鈴乃がくれた薔薇の香りの香水をかけてから、例の青いドレスを頑張って身に付けた。隣では鈴乃が臙脂色のドレスに手際良く袖を通している。上品なレース飾りが目を引く洒落たドレスだ。

 着替え終わった幸華が、鏡の前で簡単に化粧をしていると、鈴乃がひょこっと覗き込んで来た。

「幸華、アイラインとかアイシャドウとかしないの?」

「え、別に、要らないと思って持ってない」

「えーっ。折角だし、私の貸してあげるからやろうよ」

「でも、やり方を知らない」

「平気、平気。私がやってあげるから。こっち向いて」

「あ、はい。何か、ごめん……」

「気にしない、気にしない。私が好きでやってるんだからね。ほら、まず目を閉じて。……はい、次。目尻にはこれでしょ、真ん中にはこの色……」

 鈴乃はささっと手早く仕上げてくれた。

「うん、良い感じ。あとはビューラーとかマスカラとかがあればもっと良いんだけど、やる?」

「いや、別にいいかな……」

「やろう。はいもう一回こっち向いて!」

「ええと」

 結局言われた通りに化粧をすることになってしまった。

「はい、良いよ。鏡見てみなよ」

 幸華は目をぱちぱちさせながら鏡を覗き込んだ。

「……へえ……」

「凄く印象が変わるでしょ! 似合ってるよ!」

「ありがとう」

「今度メイク道具買いに一緒に出かけよう」

「うん……」

 そうこうしている内に、楽屋に設置してあるモニターが、幸華たちの二つ前の団体の出番を告げた。幸華たちもそろそろ楽屋を出なくてはならない。

 チューニングを終わらせて、二人は頷き合った。

「行こうか、舞台袖」

「うん」

「緊張してる?」

「少し」

「あはは、私も」

 コツコツとハイヒールを鳴らして、幸華と鈴乃は楽屋を出た。幸華は気持ちを落ち着かせるために深呼吸した。

 友達の長年の夢を、改めて形にする時。自分もしっかりついて行かなくては──隣に立って、共に思いを届けなくては。

 揃いの黒い靴と鈴乃は黒眼帯は、まるでグリュンベールを偲んでいるよう。反対に、最も目を引く華麗なドレスは、今この時を迎えられたことを祝福しているかのようだ。

 薄暗い舞台袖にて、他の団体と共に出番を待つ。やがて幸華たちの前の団体のアンサンブルが終わった。まだ拍手の鳴り止まない内に、急いで行け、とスタッフに急かされて、幸華と鈴乃はホールの舞台へと上がって行った。

「八番、銀川鈴乃、田宮幸華。グリュンベール作曲、『竜の宝石のための二重奏』」

 アナウンスが流れる。隣に立っている鈴乃を見ると、彼女は先程までの緊張はどこへやら、笑みが抑えきれずににまにましていた。豪胆な人だ。尤も、幸華も割と肝の据わった方ではあるが。

 幸華は鈴乃の動作に合わせて楽器を構えると、鈴乃の合図を待った。鈴乃は一瞬だけ目を閉じると、右側の綺麗な瞳で幸華を見つめた。幸華は頷いてそれに応えた。

 行こう。

 弓が跳ねて、明るいロンドが始まる。

 幸華は、時の流れに思いを馳せながら、自在に楽器を操った。

 グリュンベールという人は、未来を生きていく生徒を応援したかったのだろうか。この曲の端々には、命を懸けて助けてくれた生徒の愛に応えられなかった上、病気を患い早くに別れねばならなかった、やり場のない悲しみが込められているように思えてくる。だが明るく希望に満ちた主題が、その悲哀を飲み込んで押し流し、どんどんと前へと進んでいくのだ。その様は未来を祝福し、生徒の行く先に幸多からんことを祈っているかのようだ。

 そしてグリュンベールの願いの通り、鈴乃は、永い時の旅の中で幸華を見つけてくれた。想いが目一杯詰まったこの曲を共に奏でる相棒として。

 始まりこそ目的を持って幸華に近付いた鈴乃だが、念願叶ったその後もこうして隣に立ってくれている。幸華にはそれで充分だった。この上なく嬉しく、幸せだった。

 曲は終盤に差し掛かり、難易度の高い重音の連続が、豊かな音色となってホール中に響き渡る。左手も右手も忙しなく動き回り、フィナーレに向かってひたすらに突き進む。

 最後は明朗な強音で締める。堂々としていながらも、舞い上がりそうなほど美しい、彩り豊かなハーモニー。

 一瞬、会場は静寂に包まれる。

 その後、激しい喝采。聴きに来てくれた生徒や先生や一般客が、この素晴らしい曲と演奏に対して全力で賛辞を送っている。

 鈴乃はまた幸華と目を合わせて笑うと、ゆっくりともったいぶってお辞儀をした。幸華もそれに倣って深々と頭を下げた。

 拍手の鳴り止まぬ中、二人は舞台を後にした。

 全力を出し切ったせいで、幸華も鈴乃も肩で息をしていた。

「良かった〜! 何とか上手く行って! 幸華、本当にありがとう!」

「こちらこそ……。楽しく演奏できたよ」

「本当? 楽しかった?」

「うん」

「嬉しい〜! あのね、私もすっごく楽しかった! やっぱり音楽はこうでなくちゃね!」

 楽屋まで戻った二人は、椅子に座って互いをねぎらった。鈴乃は溜息をついて天井を仰いだ。

「グリュンベール先生、喜んで下さるかな」

「……そう思う」

「そうだと良いな。遅くなっちゃったけど……先生の音楽を実現できて良かったよ」

「うん。お疲れ様、鈴乃」

「あはは。幸華もお疲れ様!」

 幸華は頷いて、楽器をささっとケースに仕舞った。もう一度四苦八苦しながらドレスを脱いで丁寧に折り畳み、鞄に入れる。

「私、午後にソロ曲の発表だから。最終調整して来るよ」

「分かった。頑張って」

「鈴乃も頑張ってね。ショスタコーヴィチ、明日なんでしょ」

「うん。でも今は余韻に浸りたいから、しばらくここにいるよ」

「そっか」

「……明日は、幸華の念願のオーケストラの本番もあるね」

「うん」

「頑張ろうね」

「うん。それじゃ」

「行ってらっしゃい!」

「行ってきます」

 幸華は楽屋を出た。早足で練習室に向かう。

 リュシエンヌ・グリュンベール、と心の中で呼びかけた。

 あなたのお陰で、鈴乃は楽しいバイオリン人生を送れている。あなたのお陰で、自分は友を得ることができ、孤独から脱することができ、音楽をより一層楽しむ術を学べた。

 苦難の多い人生を送ったというあなただけれど、あなたの想いはこうして現代まで受け継がれている。

 鈴乃を支えてくれてありがとう。鈴乃に生きる希望をくれてありがとう。そして自分に友を与えてくれてありがとう。

 あなたの意志は死しても消えなかった。あなたは、一曲の楽譜だけでなく、このかけがえのない毎日をも、未来への贈り物としてくれたのだ。

 感謝と、決意表明をあなたに。

 あなたのためにも、自分は、自分たちは、素晴らしい音楽人生を送り続けると誓おう。




 二日間に渡る学内発表会は、つつがなく終演した。

 ソロ曲もオーケストラも無事に弾き切った幸華は、鈴乃と連れ立って、疲れ果てた足取りで構内を歩いていた。

 辺りはもう暗い。

 これから大学は長期休暇に入る。だが次なる課題も山積しているので、ほぼ全ての学生が、休む間もなくせっせと練習に励むこととなる。練習を一日休めば三日分下手になるのだということは、真偽の程はさておき皆が信じている常識である。

 プロの音楽家への道は茨の道。鈴乃でさえ、夏休みでも毎日練習に来るつもりだと言っていた。今後は公のコンクールにも出たいから、やる事が多くて大変らしい。

 鈴乃がこの人間の世界で忙しそうにしているのが、幸華には喜ばしかった。素直に応援したくなるし、自分も負けてはいられないと思えて来る。

 幸華の自慢の、ちょっと変わったお友達。

「ふっ」

 幸華は思わず笑ってしまった。

「ん? どうしたの? 珍しい」

 鈴乃が顔を覗き込んでくる。

「ううん、何でもない」

「そうなの?」

「うん。楽しかったなと思っただけ。それに、今後も楽しみだなって」

「あはは。そうだね。私もそう思うよ。お揃いだね!」

「お揃い」

 幸華は薄っすらと笑った。

「それは、何か、良い感じがする」

 本当に、幸華は、良き友を得た。 


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