エピローグ この先も


「この大馬鹿娘ッ!」

 久しく聞いたことのない母の怒鳴り声は、この広い部屋中をびりびりと震わせる程に凄まじいものだった。王者たるヴイーヴルに似つかわしい、威厳たっぷりのお叱り。だが私は尻尾を振りながら、涼しい顔でこれをやり過ごした。反対に周りの家臣たちがすっかり怯えて縮こまってしまっているのが愉快だった。

「目を売り払うヴイーヴルなど前代未聞です!」

 母は叱責を続ける。

「危うく死ぬところだったではありませんか! ある程度好きにさせてやろうとは思っていましたが、死にかけることまでは許可していませんよ! 少しは母の気持ちを考えて下さい!」

 全く、いつの話をしているのやら。目をあげてしまったのは随分と昔の話だし、取り戻すことができてからももう何年か経っているというのに。まあ、その間一度も妖精の国に帰らなかったのだから、無理もないことではあるが。

「申し訳ありません、母上。しかし、あの時は他に手がございませんでしたので」

「言い訳は無用です。あなたには王女として、もっと慎み深い行動を心掛ける必要があります」

「はい。善処します」

「善処ではなく、確実にそうしなさい!」

「はい」

 私は改めて、白く美しい鱗を持った母の顔を見上げた。歳を取っても一向に衰えることのない美貌は、女王の風格を際立たせている。

 大理石で出来た白色の外側と違って、この玉座の間は灰色の石造りだ。女王の姿が一段と映えるように設計されている。

 いつでも気高く美しい母に対し、私は誓いの言葉を述べた。

「ご心配は要りません、母上。もう二度とあのような危険なことは致しません故」

「当然です!」

 憤慨も露わな母の態度に、私は目を細めた。叱られている真っ最中とはいえ、心配されるのは悪い気がしない。

 もちろん、前に自分で宣言した通り、私が命を懸けるのはグリュンベール先生のためだけだ。これまでも、これからも。だからもう、目玉を外したりなんかしない。

「……反省しているのなら結構なことです。して、あなたは、あのサチカという人間の娘と上手くやっているのですか」

「はい。彼女とはよく予定を合わせてお茶をしに行っております。とても良き友ですよ」

「……友なのですか?」

「はい」

「あなたは配偶者を探しに人間の世界へ行ったのではなかったのですか?」

「ああ……いいえ。目当てだった人間はとうに亡くなっておりますので」

「であれば新しい人間を見つけねばなりません」

「見つけなければいけませんか? 私にはそのつもりはございませんよ」

「何ですって?」

 母の目がまた吊り上がった。

「まさかあなたはこの年月を、ただふらふらと遊ぶことだけに費やしているというのですか?」

「お言葉ですが母上、バイオリンは遊びではございません。私は今、プロとして日本中を飛び回っているのです。いずれは世界に進出したいと思っております」

 私は日本の音大にいる間に世界的なバイオリンコンクールで賞を取り、卒業後は日本各地の演奏会でソリストとしてお呼ばれするようになっていた。幸華も無事に卒業して、激しい競争を見事勝ち抜き、日本のプロオーケストラに入ることができている。

 今の私の夢は、大きく分けて三つある。内二つは、海外に進出することと、幸華のいるオーケストラと共演することだ。

 ひとまず今は、何とか予定を調節して休みを作り、パリまで飛んで妖精の国に帰ってきた。母への挨拶が済んだら、またすぐに日本に戻ることになっている。

「そういうことではありません! 私はバイオリンの話などしていませんよ!」

 母は険しい声で言った。

「もう雄でも雌でも構いませんから、早くお相手を見つけなさい。それともあなたは子をもうけないつもりですか!」

 見当違いな母の言葉が、かえって面白かった。私は母の誤解を解くためにも、しっかりした声でこう返答した。

「子は欲しくありません。私が生涯で愛する人間はただ一人です。この先も私はリュシエンヌ・グリュンベールのことを忘れません。ずっと想い続ける所存です」

 私が成し遂げたいことの三つ目は、グリュンベールの楽曲を世界に広めることだ。先生はデュエットの他にも幾つか曲を書き残している。私は演奏会でそれらを披露し、普及に向けて励んでいるのだ。

 それもこれも、あの人への愛が未来永劫消えないからこそだ。

「世継ぎのことならば、姉上たちにお任せします。ちょうど先程、姪にも会って参りました。大変可愛らしゅうございました。あれならば問題はありませんでしょう」

「……呆れました。空いた口が塞がらないとはこのことです。本当に、自分勝手な子ですね」

「あはは……」

「何を笑っているのです。ちっとも可笑しくなどありませんよ。どうしてあなたは、私に孫の顔を見せてくれないのですか」

「その点に関しましては、本当にすみません」

 確かに自分勝手ではある。それは言い返せない。だが私は自分の心に嘘はつけないのだ。人間界ではさんざん嘘をついていた時期もあったが、この想いを無かったことにすることだけは絶対にできない。

「母上。そういうことですので、私は明日には人間界に戻ります」

「そういうこととは何です」

「私が自分勝手な娘だということでございます。いかんせん自分勝手ですので、明日にはここを去るのです」

「開き直らないで下さい。いつまでも遊び呆けていては、王家の威信にも傷が付きますよ」

「それは確かに、仰る通りです。しかしこれも、スズノ・ギンカワとしての一生が終わるまでの、ほんの短い間のことです。今しばらく、見逃しては頂けませんか」

「……」

 はーっと母は盛大な溜息をついた。

「止めてもあなたは出て行くのでしょう」

「流石は母上。よく分かっていらっしゃる」

「全く……本当にとんでもない娘を持ってしまいました。……結構です。私とて、あなたには経験を積んで将来に役立てるようにと申し付けましたからね。またここに帰った暁には、しっかりと政務に励むことを、改めて約束なさい。さすれば、少しくらいのお痛には目を瞑ります」

「慈悲深いご判断をありがとうございます。もちろん、約束いたします」

「よろしい。では、下がりなさい」

「はい」

 私は玉座の間を辞して、自室に入った。そこには、お付きの者に運ばせておいた服と鞄とバイオリンがある。

 休暇で帰省中とは言え、練習を怠けることはできない。私は人間の姿に変身して服を着ると、バイオリンを構えた。

 母には悪いが、私は自分の生き方を変えるつもりは毛頭無い。理想の娘でなくて、母にはがっかりされるかも知れないが、私にとってはこの生を充実させることの方が余程大切だ。だから周りが何と言おうと私は私を貫く。

 私はこの先も──ずっとずっと、あなたを愛し、あなたを想って音を奏でます。リュシエンヌ・グリュンベール先生。

 あなたの存在は私の救いです。死して尚消えない鮮烈な光です。あなたのお陰で、私の人生は実りのある豊かなものになり、幸華をはじめとした沢山の人間との出会いにも恵まれ、バイオリンのことももっと好きになれました。

 心からの感謝と、心からの愛を、あなたに。

 もう私の音を、声を、願いを、あなたに届けることは叶わなくなってしまったけれど、いつだって私はあなたのことを想っています。

 だから、せめて今は、今だけは──音楽の道を突き進みたい。

 私は弓を持ち上げて、本日最初の音を静かに鳴らした。

 妖精の国の真ん中で、私のバイオリンは、澄んだ音色を響かせた。


 おわり




【参考文献】

長谷川公昭『ナチ占領下のパリ』草思社、1988年

渡辺和行『ナチ占領下のフランス 沈黙・抵抗・協力』講談社、1994年



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