第9話 危険を冒してでも
リュシエンヌはありったけの服をもこもこと着込んで、配給の受け取りに出掛けていた。
今回の冬は格別に寒い。何もこんな貧しい時代に合わせて大寒波など来なくても良いのに。
暖炉に焚べるものが手に入らない市民たちは、部屋の中でも思い切り厚着をして、毛布まで被って、寒さを凌いでいる。
但しこんなに着膨れしていては体が上手く動かない。バイオリンを弾く時は幾らか身軽になる必要がある。かと言って寒すぎては手がかじかんで動かせなくなるし、悩ましい。
ふうっと吐き出した息は白い。
配給の受け取り場所の列に並んだリュシエンヌは、配給切符を念入りに確認して順番を待ち、無事に食材を手に入れた。
パン、バター、チーズ、牛肉、コーヒー、卵、油。豚肉は要らない。
もうこんなに沢山の品目が、配給でしか手に入らなくなっている。それも運悪く受け取り損ねることも多々ある。未だパリで餓死者が出ていないのが不思議なくらいだ。因みに凍死者もいないらしい。本当だろうか。
早く寒風から逃れたくて、リュシエンヌは早足で家に帰った。
誰も待つことの無い家に一人で帰るこの寂寥感にも、少しずつ慣れてきてしまった。
あと一時間ほどで生徒がやって来る。それまでに一通り練習をして、体を温めておきたい。
生徒たちのお陰で、リュシエンヌは何とかここでも生活できている。今や余程お金に余裕のある家の子しかレッスンには来られなくなってしまったが、彼らからのお月謝が唯一の救いだ。だから誠心誠意、質の高いレッスンを心掛けたい。
良い具合に準備運動ができた頃合いになって、生徒が訪ねてきた。リュシエンヌは笑顔で彼女を迎え入れ、二時間みっちりと弾いてもらい、厳しい言葉をかけ、新しい課題を出した。
「ありがとうございました」
「ええ。来週に期待しているわ」
「失礼します」
「はいはい」
やはり芯のある強い子は良い。めきめきと上達してくれるのは嬉しいものだ。
リュシエンヌは一息つこうと思って、椅子に腰掛け、ラジオのスイッチを入れた。
戦争に関するニュースが流れているが、フランスの放送局はナチスに掌握されてしまっているので、正確な情報が入りづらい。リュシエンヌはイギリスのBBCから発せられているフランス語放送を傍受しようとして、ふと手を止めた。
戦争のニュースが終わり、次の情報が入ってくる。アナウンサーはこんなことを言っていた。
「政府は、フランス国に在住するユダヤ人に対し、公衆と接する仕事を禁止する法律を、来月より施行予定です」
リュシエンヌは息を呑んだ。
それから首を傾げた。
公衆と接する仕事とは、どこまでが対象なのだろう?
公務員、学校教師、銀行員、接客業、販売員、それから……何だろう。これらの職を失った人間は、どうやって生活していけばいい? 公衆と接さない職業……工場労働などだろうか。
リュシエンヌは引き続きニュースに耳を傾けた。アナウンサーは法律の詳細について説明しているが、流石に音楽教室の先生の可否までは言及してくれない。
「どうしましょう」
今見ている生徒たちへの指導を途中で放り投げたくない。彼らには立派に成長して入試に合格して欲しい。それまで見守る責任がリュシエンヌにはある。大好きなバイオリンを仕事にしているという誇りも。アンリと二人で協力して教室を続けてきたという思い入れも。
公衆……。
リュシエンヌが受け持っている生徒は今やたった七人。これだけの人数を公衆と呼ぶのも何だか変だ。だから続けても特に問題は無いはずだと思いたい。
だが万一、ナチスの親衛隊に目を付けられて逮捕されたら、それこそバイオリンどころではなくなってしまう。
「どうしたら良いのかしら……アンリ」
その夜リュシエンヌは寝ずに考え続けた。いや、考え過ぎて寝付けなかったと言う方が正しい。朝の光が窓から差し込み始め、リュシエンヌはぼんやりとする頭でむくりと起き上がった。
結論は、出た。レッスンは、やめない。
その後も滞りなくレッスンを開いて、数日が経過した辺りで、田舎の両親に宛てた手紙の返事が来た。
馬鹿なことはおやめなさい、と書かれていた。
気でも狂ったのですか。もしものことがあったらと思うと、心配のあまりこちらも狂ってしまいそうです。悪いことは言いませんから、教室は一旦閉じなさい。お父さんも銀行員の仕事を今月いっぱいで辞職する予定ですよ。
もし、とリュシエンヌは思う。
このまま連合軍が負けて、ヨーロッパがナチスの天下になってしまったら、自分は永遠に教室を再開できなくなるだろう。バイオリンに関わる他の仕事にも就けなくなるに決まっている。自宅に閉じこもって細々とバイオリンを弾いて自己満足をすることに、何の意味があるだろう。
リュシエンヌは両親に、ささやかな仕送りの食べ物をくれたことへの感謝だけを書いて、再度手紙を出した。
そして、問題の一月が訪れた。いよいよ、例の法律が施行され始める。リュシエンヌがクリスマスから正月にかけて設けておいた休みも終わり、また生徒がレッスンを受けにやって来るようになった。
リンリンと呼び鈴が鳴る。リュシエンヌは扉を開いて生徒を迎え入れる。
「あけましておめでとうございます、グリュンベール先生!」
ロジェは晴れやかな笑顔で挨拶した。リュシエンヌも笑って応える。
「あけましておめでとう、ロジェ。今年も元気いっぱいね」
「はい! でも先生、本当によろしいのですか、この教室を続けても。僕としては嬉しいのですが、先生の身に危険があっては大変です」
「良いのよ。向こうだって、こんな小さなバイオリン教室、潰す程のことでもないでしょう。それに私は生徒たちが心配だもの」
「そうですか……。くれぐれもお気をつけて」
「ええ。さあ、準備をして頂戴。早く始めるわよ」
「はい!」
リュシエンヌはロジェに対し、ラロの次にパガニーニの「二十四の奇想曲」の第二十四番を課題として与えていた。悪魔に魂を売ったとまで言われた凄腕のバイオリニストが書いた、超絶技巧の嵐のような一曲である。たった五分前後の曲の中に、信じられない程の難易度のフレーズがぎゅうぎゅうに詰め込まれており、正に地獄の様相を呈している。あまりの難しさに滂沱の涙を流しながら練習する者もいるくらいだ。リュシエンヌも手を付けた当初は深く絶望したものである。
無論、作品としても優れた芸術性を持つ名曲だ。最初に提示される主題は非常に有名で、多くの作曲家に影響を与えた。曲は全てこの主題の変奏という形で展開される。無伴奏の独奏曲なので、これまでロジェが取り組んできたコンチェルトとは違い、バイオリン一丁だけで曲として成立する。
ロジェは今、豊かな想像によって音楽を創造する技を、体得しつつある。今度はロジェの長所たる技術の高さを試したかった。──いや、正確には、難曲だからこそ、どういう解釈を持ってくるのかを見たかった。
だが、初回は酷い物だった。ロジェが珍しく緊張しているなと思ったら、曲を一通り楽譜通りに弾くことができなかったのだ。可能な範囲で弾かせてみてから、二人で大笑いした。リュシエンヌは殊更に熱の入った指導を行い、ロジェの至らぬ点を片っ端から指摘した。ロジェに技術的な指導をするのは新鮮な気持ちだった。
今回もまあ弾きこなせているとは言えない状況で、リュシエンヌは気合いを入れてレッスンを行なった。
「今のままだと、左手がなっていないわ。弦をはじくことに気を取られて、押さえるのが疎かになっているわね。もっとこんな感じで、素早く動作を切り替えつつ、しっかりと力を入れなさい」
リュシエンヌが手本を見せると、ロジェは真剣な顔で見入った。
弦を指ではじくピチカートという奏法は、通常は弓を持つ右手の指を用いて行うが、パガニーニの場合は弦を押さえる役割を担う左指を無理矢理使ってはじくやり方でなければならない。苦労の多い難所である。
「む、難しい……。出来るでしょうか」
「ふふ、あなたがそんな弱音を吐くなんてね。出来ないなら出来るようになるまでやりなさい」
「はい」
しばらく特訓をつけている内に、今日もまたレッスンの終わりの時間になった。リュシエンヌはバイオリンをケースの中に置いて、穏やかに笑った。
「お疲れ様。次はもう少し練度が高まっていることを期待しているわ」
「頑張ります!」
ロジェは頷いてそう言った。厳しい練習の中でも元気を失わないのはロジェの良いところだ。
その時、リンリンリーン、と激しく呼び鈴が鳴った。
「あら」
リュシエンヌは楽器ケースの蓋を閉じて立ち上がった。
「こんな時間に何かしら。ちょっと出てくるわね」
「はい」
ロジェを居間に残して玄関に出る。
「はい、グリュンベールです。どちら様……」
扉の覗き穴を覗いたリュシエンヌは、たじろいで数歩下がった。
玄関前に立っていたのは、ナチスの親衛隊の制服を身に付けた、屈強そうな二人の男だった。
「グリュンベール!」
近所中に響き渡る怒声がリュシエンヌの名を呼んだ。
「ユダヤ人でありながら音楽教室を開いた罪で、貴様を逮捕する! 大人しく出て来たまえ!」
リュシエンヌは扉を睨みつけながら廊下まで逃げた。
こちらを震え上がらせるような威圧的な怒声は、まだ続いている。
「速やかに扉を開けろ! さもないと強硬手段に出るぞ!」
やはり父母が手紙に書いていた通り、自分は馬鹿なことをしたのだろう。堂々と法律に違反しておいて、逮捕される時になってから慌てるなんて、間違いなく馬鹿のやる事だ。どうせ大丈夫だろうと高を括っていた事は否めない。でも、こんな法律がまかり通る事の方が遥かに馬鹿げている……。
「開けろと言っている! この卑しいユダヤ人めが!」
リュシエンヌはほとんど無意識に居間まで退避した。ロジェが血相を変えてリュシエンヌのことを見た。
「グリュンベール先生!」
「大丈夫、あの人たちの狙いは私だけだから、あなたは大人しくしていなさい」
「い、嫌です! 僕にレッスンをつけてくれたせいで先生が連行されるなんて、耐えられません」
「あなたまで反逆者と見做されてしまっては大変よ。静かにしていなさい」
「でもっ」
ガッシャーン、とこの世の終わりのような衝撃音がして、リュシエンヌもロジェもびくっとして振り返った。
親衛隊の二人が、棍棒を使って、道路に面した大きなガラス窓を叩き割ったのだ。
粉々に砕かれて床に散らばったガラス片をザクザクと踏んで、外から親衛隊が侵入して来る。
「ギャー!」
ロジェはすっかり仰天していた。リュシエンヌは唇を噛んだ。
「グリュンベールは貴様か!」
親衛隊の一人が問う。リュシエンヌは頷いた。
「ええ、私がリュシエンヌ・グリュンベールよ」
「そこのガキは何だ」
「彼は関係ありません。逮捕するなら私だけになさい」
ずいっと、親衛隊の人が前に進み出た。リュシエンヌは手首を掴まれて引っ張られた。
「こっちへ来い。今から手錠を……」
「ちょっと、手を乱暴に扱うのはよして。バイオリンが弾けなくなるわ」
「知ったことか! 下らん!」
更に強く引っ張られる。リュシエンヌは名残惜しく、自分のバイオリンの入ったケースを振り返った。
「……許さない」
後ろから、低く声がしたので、リュシエンヌはロジェの方に目を移した。ロジェは憤怒に燃える目で親衛隊の人を睨みつけていた。
「グリュンベール先生を連れて行くなんて、僕はお前たちを決して許さない!」
「ロジェ」
リュシエンヌは慌てて早口で言った。
「大人しくしていなさいと言ったでしょう」
「無駄口を叩くな!」
リュシエンヌは親衛隊の人にガツンと拳で頭を殴られた。
「うっ」
「先生っ!」
「おい、そこのガキ。我々の仕事に何か文句でもあるのか」
「ありまくりですよ! こうなったら、この僕が直々に、お前たちをケチョンケチョンにして追い出してやるっ!」
「はあ? ふざけたことを言うな!」
「ロジェ、よしなさいったら!」
ロジェには周りの声など聞こえていないようだった。
「うぐぐぐぐぐぐぐ……!」
唸りながら、俯いて拳を握りしめている。そして何故か──彼の全身が、発光し始めた。
「えっ?」
図らずも親衛隊の二人とリュシエンヌの声が揃った。
金の光がロジェを包み込む。光はみるみる強くなって行き、みるみる大きくなって行った。すぐに光は天井近くまで到達した。その頃にはもう、まばゆくて目が開けられなくなる程に、ロジェの放つ輝きが増していた。
「えいや!」
光の中から掛け声が聞こえてきた。次の瞬間、光ははじけるようにして霧散し、──中から、巨大な生き物が出てきた。
「まあ……!」
「ヒイーッ!」
「な、な、何事だ!」
親衛隊の二人はすっかり狼狽して慌てふためいている。リュシエンヌも口をあんぐり開けて、目の前に出現した巨体を見上げていた。
竜、と呼ぶべきだろうか。恐ろしげな顔つきをしている。口が異様に大きく、立派な牙が生えていた。全身が、金色に縁取られた白色の鱗に覆われている。脚の部分は鷲に似ており、手に当たる部分は無い。背中の白い翼は巨大な蝙蝠の形を思わせた。すらりとした長い尻尾もつけている。
「どういうことなの? ロジェはどこに……いえ、これがロジェなの?」
リュシエンヌは自分で口走っていることが自分にも理解できなかった。
「如何にも、私がロジェですよ、グリュンベール先生」
竜は言った。発された声はいつも聞いている男声ではなく、女性のそれであった。リュシエンヌは更に混乱した。
「グリュンベール先生の邪魔をする人間は……妖精の国のヴイーヴルにして第三王女たる、この私が許さない!」
グオオオオッ、と竜は唸り声を上げて、親衛隊の人たちを真っ赤な瞳で睨み付けた。その眼光の鋭いことと言ったら、今にも二人を取って食いそうなくらいだ。
「ひょえええええ」
大の男二人が腰を抜かして恐怖に慄いている。竜はのしのしと二人に歩み寄ると、長い首を下げてグワッと口を開け、二人の胴体をまとめて咥えて持ち上げてしまった。
「うわっ、うわ、うわー‼」
「嫌だ、死にたくない! 何なんだ! 何なんだ!」
二人はばたばたと暴れていたが、竜には全くこたえていない。竜はまたのしのしと歩いて割られた窓に近づき、ポイッと二人を道路の方に吐き出した。
「ウッ」
高いところから落とされたので、二人は酷く体を傷めたようだ。骨折してしまっただろうか、とリュシエンヌは思って、何だか可笑しくなってしまった。
「ふふっ」
竜は再び容赦なく吠えた。空気がびりびりと震えるような威嚇だった。
「ヒイッ! 助けて! ヒイイイ!」
「やめろお! く、食われるッ! 嫌だあああ!」
二人は怯え過ぎてへなへなになった体を何とか動かして、その場から退散した。
リュシエンヌは拍手をした。
「凄いわロジェ! ナチスの奴らを追い払ってしまうなんて!」
「グリュンベール先生、お怪我はありませんか」
「無いわ」
ふーっと竜は安堵したように息を吐いた。
「先生も大概、凄いですよ。私のこの姿を見ても怖がらないなんて」
「だってあなたはロジェで、しかも私を助けてくれたんでしょう」
「そりゃあそうですけど」
竜はのしのしと足を動かしてリュシエンヌに向き直った。
「近所の騒ぎになったり、親衛隊員がまたやって来たりする危険があります。ですから手短に、大事なお話を」
「あら、何かしら」
リュシエンヌと竜は、束の間見つめ合った。
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