第11話 ヴイーヴルの贈り物
ボトッ、と竜の顔から何かが落ちた。リュシエンヌはびくっとして音のした方を見た。竜は大きな足で器用に落ちたものを受け止めると、リュシエンヌの方に差し出して来た。
「受け取って下さい」
「ええと……?」
リュシエンヌは体を屈めてそれを見た。
真っ赤な色をした、綺麗な球体。
息を呑む美麗さである。
「これは、何かしら」
「ガーネットです」
「ガーネット。宝石ね」
「はい。ヴイーヴルの目は宝石で出来ているんです」
「目?」
「今落としたこれは、私の左目ですよ」
さらりと言われたことの意味が掴めず、リュシエンヌは竜を仰ぎ見た。そして驚愕した。
眼球が収まるべきその場所には、暗い空洞があるだけだった。
「まあ……!」
「この目は着脱式なんです」
竜は何でもない事のように言った。
「目が……? 着脱式? そんなことってあるかしら?」
「はい。伝説などでお聞きになったことはないですか?」
「そうねえ……」
リュシエンヌは懸命に記憶を辿った。
「……ヴイーヴルの目を盗めば、幸福な人生を送れるとか何とか……そんなことを母が言っていた気がするわ」
子どもの頃に聞いたヴイーヴル伝説には何種類かあった。その内の一つに、ヴイーヴルが自らその宝石の目を外している時を狙って奪い取ることが出来れば幸福になれる、というものがあったはずだ。現実のこととして考えていなかったからすぐには思い出せなかったが、言われてみれば聞いたことはある。
「まあ、そんな感じです。とにかく、お一つ差し上げます。これを売って、手っ取り早くお金を作って、この国から逃げて下さい」
「えっ? お金?」
「先生にはもう時間が無い。すぐにまたナチスの連中が来ます。でもあなたは、この国で潰されるがままでいてははいけない人です。もっと安全な場所に逃げて、自由に音楽をやるべきなんです」
竜は真っ赤な右目でリュシエンヌを見据えていた。
「この宝石。これほどの純度で、これほどに磨き上げられていて、こんなに鮮やかで、尚且つ完璧な球体をしているガーネットなど、人間界ではそうそうお目にかかれないはず。然るべき場所で売れば、亡命の費用くらい容易く捻出できますよ」
「ロジェ、あなたは……」
「あと、これもおまけにお渡しします。ヴイーヴルは涙も宝石に変わるんですよ。少量ですが」
ザーッと音を立てて、竜の顔から小さな宝石が沢山こぼれ落ち、床に散らばった。
「えっ、えっ」
「早く拾って質屋に向かって下さい。急いで!」
「でも、これは頂けないわ。だって、あなたの体の一部なんでしょう」
「私の体なんですから、私が良いと言ったら良いのです」
「片目が無くなっては、あなたが不自由するわ」
「……もう既に」
竜は声を震わせた。
「あなたはこの国で不自由を強いられて来たではありませんか、グリュンベール先生。その不自由は今後増えることはあっても減ることはないという事くらい、想像もついているでしょう。それなのにどうして、片目が無くなる程度の他人の心配などするのです」
「心配はするわよ。あなたは他人ではなくて私の生徒だわ。片目を差し出すなんて……あなたがここまでする必要は無いんですもの」
「必要ならありますよ」
「どこにあるのよ」
「私がここにいることが何よりの答えです。そもそも私がこの人間の世界に来た理由は、先生にお会いするためだったんですよ。先生がいなければ、私は妖精の国を出る事など考えませんでした」
竜は項垂れた。
「いずれにせよ先生は私より早くに寿命で亡くなるでしょう。人間はみんな、ヴイーヴルと比べてうんと短命ですから。それでも、グリュンベール先生、あなたの人生を少しでも長く幸福なものにするためなら、私は何だってします。自分の力で先生を幸せにする──そういう覚悟で私はパリに来たんですから」
「……」
「本当なら、この右目もあなたに差し出したいくらいです。でも目が見えなくなってしまっては、私はもうグリュンベール先生を探すことができなくなる。それはとてもつらい……ですから、片目だけなのは私の我儘です。申し訳ありません」
「我儘だなんて、とんでもないわ。だって、これは、これは──」
「すみません。片方だけでも、受け取ってはもらえませんか。お願いです」
「これ、は……」
「……」
「……。どうしても、なの?」
「はい」
「そうなの、ね……」
「はい」
「……」
外で、人の声がし始めた。先程の騒音や咆哮が気になって、近所の人が出て来たのだろう。
「この姿を近所の方々にじろじろと見られたら厄介ですね」
竜は窓の外を見て言った。
「私はここを出ます」
「人間の姿には戻ら……いえ、変身しないの? そうしたら見つかっても騒ぎにはならないわ」
「あー、それは、少々問題が……。この姿になる時に、服も靴もはじけ飛んでいますので……ちょっとお恥ずかしい事態になりますね」
「それならアンリのを分けてあげるわ。今取ってくるから、他人に見られる前に変身しておきなさい」
「でも……未亡人の女性の家に裸の男がいるのを見られるのも、困ると思いますが……」
「そこは上手く隠れていなさいよ。ほら、カーテンを閉めるから」
「あ、そこはガラスが落ちていて危ないですよ」
「良いから今は自分の心配をなさい」
割られた窓にシャッとカーテンをかける。
「これで良し。それじゃあ服を取ってくるわ」
「服って、思い入れのある遺品だからとっておいたのではないのですか? 私が頂いてしまうのは気が引けます」
「あなたって本当に愚かよね。私に片目を寄越すって言ってるあなたが、今更何を気にしているの!」
リュシエンヌは走って寝室に向かい、アンリの使っていた服を一揃い、下着からセーターやコートまで用意した。居間に駆け戻ると、そこにはもう大きな白い竜の姿は無かった。
「ロジェ、どこ? 服を持って来たわよ。あなたにはちょっと大きいかもしれないけれど……」
「僕はここです」
聞き慣れた声がした方に目を向けると、ロジェは本棚を動かしてその裏に隠れているようだった。腕だけを出して、手のひらを広げている。リュシエンヌは急いで服を押し付けた。
「はい、これね」
「ありがとうございます。……あの、あまり見ないでいて下さると助かります」
「見やしないわよ」
「ありがとうございます」
ロジェはしばらくもぞもぞしていた。リュシエンヌはしゃがみ込んで、竜がこぼした小さな宝石を拾い集めた。しばらくするとロジェは本棚から顔を出した。
「着られたの?」
「はい」
「良かったわ」
「先生、急ぎましょう。今に親衛隊の奴らが加勢を連れてやって来るやも知れません」
「……そうね」
いざという時のための荷造りなら、この戦時下の町で暮らすに当たって、きちんと訓練してある。リュシエンヌは旅行鞄に、最低限の服と、自筆の楽譜を詰めた。貴重品とパスポートを小さな鞄に入れ、バイオリンケースを背負って立ち上がる。
居間ではロジェが、全ての宝石を買い物用の袋に入れていてくれた。
「ありがとう。行くわよ」
「はい」
二人は外に出ると、商店街の方に向かって走った。
「こんなに……」
宝石の査定と金銭の受け取りを済ませて質屋を出たリュシエンヌは、まだ呆然としていた。
「まさかこんなに高い値が付くなんて……」
「ご期待に添えましたでしょうか」
「ご期待も何も、これなら私どころか、私の両親も、それからアンリのご両親も、アメリカへ移住できるわよ」
「良かったあ」
ロジェはほっとした様子だった。
「それでしたら、僕が寿命を賭けた甲斐もあるというものです」
「……寿命?」
リュシエンヌはきょとんとした。ロジェはにやっと笑う。
「これはあまり、人間の世界では知られていないことなのですが。ヴイーヴルは、目を無くすと、残り寿命がおおよそ五十年にまで減るんです」
「……はい?」
「両目で五十年。僕の場合は片目ですから、あと百年は生きられます」
「嘘、え、待って」
「ご安心下さい。百年もあれば、目玉の行き先を探って奪い返すのには、充分過ぎるくらいですよ。目を取り戻したら寿命は元通りですから、何も心配は要りません」
「要るでしょう! この大うつけ!」
リュシエンヌはすっかり慌てて叫んだ。
「そんな危険を冒していただなんて知らなかったわよ! どうして先に言ってくれなかったの!」
「だって、先に言ったら先生、宝石を売ってはくれなかったでしょう」
「当たり前よ! 何だってヴイーヴルは、そんな面倒な体質をしているの? 取り外し可能な目を持っていながら、取り外したらその内死ぬなんて、あまりにもお粗末だわ。信じられない!」
「あはは、本当、変ですよねえ。でも今回は、知らなかった先生の負けです。妖精の国ではこんなの常識ですよ」
「私が知る訳ないでしょう! 妖精の国もヴイーヴルも、実在するなんて今日初めて知ったことですからね!」
「そう怒らないで下さい」
「いいえ、怒るわ。断然怒るわよ。ああもう、あなたはどうしてそんなに呑気でいられるの? とにかく、今すぐお店に戻って、目を返してもらいましょう。このお金は無かったことに……」
「おっと、それはいけませんよ。僕の親切が無駄になってしまう」
ロジェは唐突に、リュシエンヌのことを──小脇に抱えた。
「えっ?」
「よいしょっと。あっはっは、先生は軽いですね〜!」
「言ってる場合!? ちょっと、放しなさいよ! こら!」
リュシエンヌはじたばたしたが、ロジェは平然と歩き続けている。
「離しませーん。このまま旅行店へ行きましょう! それとも郵便局へ行ってご両親にお手紙を出されますか? あ、銀行でご両親の口座にお金を振り込まれるのも良いですね」
「こら、もうっ、やめなさいったら」
「先生が質屋へ戻らないと約束して下さるのでしたらお離ししますよ」
「はあ? 馬鹿言わないで」
「やー、そこは諦めて下さい。どんなに僕を馬鹿だと罵っても無駄です。僕はもう決めたんですから。この身がどうなろうと、先生をお助けするってね」
「もうっ……‼」
リュシエンヌはひとしきり、逃れようと暴れたが、全く効果は無かった。リュシエンヌは悲しい気持ちでだらんと力を抜いた。
「分かったわ……お金ならありがたく使わせてもらうから、手を離しなさい……」
さっきから道行く人の注目を集めていて、このままでは居た堪れないのだ。もう根負けだ。
「本当ですか!」
ロジェはぱあっと顔を輝かせてリュシエンヌを見た。
「本当よ」
「約束ですよ?」
「約束するわよ」
「ふー、やれやれ! これで一安心です!」
ロジェはリュシエンヌのことを丁重に道路に立たせた。
「で、どこへ行きますか?」
「郵便局にするわ……」
「承知しました!」
ロジェは元気良く歩き出した。リュシエンヌはしおしおと後について行った。
飛行機の離陸を待っている。
あの後リュシエンヌは、無事にアメリカに渡る手続きを済ませて、ビザと搭乗券を獲得した。無論、自分の両親とアンリの両親の分もだ。
ロジェは、アメリカには当分来ないと言っていた。
しばらくは、目玉の行方に注意しながら、パリで「涙を溜める」らしい。
ヴイーヴルが一度に出せる宝石の涙の量には限界があるそうで、今回ロジェはそれを使い切ってしまったと言う。また溜まるまでは、売り捌いてお金を作ることが出来ないので、パリから出られそうにないらしい。
「妖精の国を経由すれば、移動にお金はかからないのではないの?」
「あー」
人間体のロジェは、眉を下げて笑った。黒い眼帯を着けたその顔は、青白くて痛々しく見えた。
「妖精の国と人間の世界の繋ぎ目は、パリにしか無くてですね」
「そうなの? それはまた……どうしてパリだけ?」
「たまたまですよ」
ロジェが説明するには、この世には色んな異世界があって、妖精の国はその内の一つに過ぎないのだそうだ。そこはごく小さな世界であるからして、偶然近くに位置していたパリ以外の場所と繋がるのは難しい。よってロジェは簡単にはパリから出られない。
「僕は先生とは違って、ナチスの奴らには差別されませんから。運良くそういう身分詐称が出来たってだけですけど。僕ならしばらくはこの国にいても問題ありません」
「そうなのね」
「目玉もしばらくは泳がせて様子を見たいですし。頃合いを見て奪い返す時には、涙も充分に溜まっているでしょうし」
「そう……」
リュシエンヌは少しの間俯いた。
「私、ここまでしてもらって、ロジェに何も返せないのが心残りなのだけれど……」
「そんな事無いですよ。気にしないで下さい。僕は先生に沢山のものをもらいました」
「そうかしら」
「はい。だって先生は僕にレッスンを付けて下さいました。一緒にいさせてもらえるだけで、僕は幸せだったんです」
「それは嘘ね」
リュシエンヌは薄く笑った。
「嘘? 嘘ではありませんよ」
「いいえ、嘘よ。あなたは私と結婚したかったんでしょう」
「あ……」
ロジェは一瞬表情を固まらせたが、すぐに破顔した。
「あはは、覚えてらっしゃいましたか」
「まあ。逆に忘れてもらえるとでも思ったの? 本当にロジェって呑気ねえ」
「そうかも知れませんね。でも……一緒にいられるだけで幸せだったというのも、真実ですよ。僕は嬉しかった」
「……そうなのね」
「はい。ありがとうございました」
お礼を言うべきなのはこちらだと言うのに、あの時ロジェはリュシエンヌに感謝の言葉をくれたのだった。
今日、ロジェは空港まで見送りに来てくれていた。一旦彼に別れを告げてから、リュシエンヌは両親と共に飛行機に搭乗した。
パリ発、ニューヨーク着。
飛行機が滑走路を走り出す。思ったよりも揺れが強い。ガタンガタンと椅子が振動する。
リュシエンヌは少し心細い気持ちになった。これから自分は、アンリの眠る大陸から遠く離れた所に行ってしまう。
寂しいという言葉だけでは言い表せない、この胸の中の、空洞のような何か。
いつか世界が、夫の墓参りに行けるくらいの情勢になると良いのだが。
機体が上向く。リュシエンヌは無意識に手を握り締めた。
さようなら、祖国フランス。この先この人生がどんな風になって行くのかちっとも分からないけれど、今は、またここに帰って来られることを静かに祈ろう。
「ふんふんふんふんふんふーんふふん」
隣の席の少女が、突如として小声で歌い出したので、リュシエンヌは少し驚いた。
曲は、占領されてからは歌うことを禁じられていたフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」だった。
そうか、自分たちは今から、「ラ・マルセイエーズ」を自由に歌える国に行くのか。それだけでなく、メンデルスゾーンも、マーラーも、コルンゴルトも、ミヨーも、ヒンデミットも、──ユダヤ系作曲家とされ糾弾されてきた全ての人々の音楽を、好きなだけ奏でられる。そんな強くて豊かな新世界、アメリカに行くのだ。
「ふふふふんふんふんふんふーん」
リュシエンヌは少女に合わせて続きを一緒に歌った。少女はびっくりしたのかまん丸な目でこちらを見てきたが、やがてニッと笑った。リュシエンヌも笑顔を返した。
飛行機は安定して飛び始めた。これからリュシエンヌたちは、ユーラシア大陸を飛び去って、大西洋を越えて、北アメリカの東の大都市ニューヨークへ向かう。
新しい人生の幕開けだ。
きっと分からないことだらけだろうが、笑顔だけは忘れずに行こう。アンリが魅力的だと褒めてくれた、この笑顔だけは。
アメリカの空気は、思っていた程フランスのそれと異なる物ではなかった。飛行機を降りた瞬間に全身が異国の雰囲気に取りまかれるような事態を想定していたのだが、そうではなかったらしい。
とは言え、フランスに居た時と同じように事が運ぶはずも無かった。
空港内にはフランス語表記の案内があったので苦も無く道を進めたが、一歩外に出ると、もうそこは言葉の通じない異空間であった。
リュシエンヌは英語など挨拶くらいしか知らない。いやそれどころか、「ハロー」の発音もろくに出来ない。どう頑張っても「アロー」になる。これはドイツ語を少し勉強した時にも感じた壁である。
まあ、出来ないなら出来るようになるまで鍛錬あるのみか。
幸い、生活資金は潤沢にあるので、ゆっくり練習しつつ、音楽家としてここで生きていく術を模索しよう。折角ロジェが繋いでくれた音楽家生命なのだから、存分に楽しまなくては。
リュシエンヌは早速、新しい曲の案を練りながら、先へと歩いた。
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