姉三十五歳、弟三十三歳
ある日、唐突に敬史が帰ってきた。
長年乗っていた船がしばらく漁を休むことになった。休日、港に船を見に行ったところ、波が岸壁に当たって発する小さな音を聞いた。
「タプン、チャプン、チャプン、タプン、…。」
その音は、波の影響で大きくなったり小さくなったりを繰り返し、敬史の心を穏やかに包み込んできた。それはまるで敬史に、
”いつまでも逃げていてはいけない”
と言っているかのようだった。そして、その瞬間までまるっきり考えてもいなかった、船を降りる、という決断をさせた。
家に帰ってきてしばらくは、食事の準備をしたり近所を散歩したりするだけで、これといって何をするでもなかった。ある晩、敬史は食事を作っている自分のそばでお茶を飲んでいる恵美子に語りかけた。
「俺って色んな人に助けられて生きてきたんだよね。」
「そうだね、感謝しないといけないね。」
「でも、色んな人を傷つけてもきたよね。」
「そうだね、謝らないといけないね。」
「そういった人たちに恩返しすることは出来ないかな。」
ようやっと顔を上げた恵美子が聞き返した。
「恩返し?」
「うん、恩返し。」
「恩返しかぁ、何が出来るかなぁ。」
その時、どこからか、美味しそうな煮物の良い匂いが漂ってきた。
「定食屋でも開いたら?」
「定食屋?」
「そう、敬史は料理が上手だから、美味しいものを作ってあげることが出来るよね。安くて美味しいご飯を大勢の人に食べてもらったら少しは恩返しになるんじゃないかしら。美味しいものを食べると、大抵の人は喜ぶし。」
「安くて美味しいもの、か。それっていいかも。俺、凝った料理は出来ないけど、毎日食べる料理ならなんとか作れる自信があるし。」
「そうだよね。毎日、海の上で、食事が数少ない楽しみって人たちを満足させてきたんだから、定食作る腕は確かだよね。」
「うん、何だかやれそうな気がしてきた。そうだ、ねえ、姉ちゃんも一緒にやろうよ。」
「えっ、私も?」
「そう、二人で今までお世話になった人や迷惑をかけてしまった人たちに恩返しをしようよ。直接食べてもらえない人もたくさんいるだろうけど、その分、数多くのお客さんに満足してもらって、それで恩返しをしようよ。」
”敬史の心の中にはどんな音が聞こえているんだろう?女の子が川に落ちたときの音?それとも誤って兄弟子を刺してしまった時の音?それとも…。”
”私の心の中ではどんな音がしているんだろう?万引きをしようとして息を潜めていた時の心臓の音?社長が家の前に近づいて来た時の足音?それとも…。”
「姉ちゃんは今の仕事をいつまで続けるつもりなの?話を聞いてる限り、楽しそうだしやりがいもありそうだけど、結婚しても続けていくのかい?」
「結婚なんていつのことからわからないし、今まではいつまで続けるなんて考えたこともなかったな。仕事は面白いしね。」
「そうか、やっぱり俺一人でやるかぁ。」
何の気なしに勧めた定食屋の話は、不思議な事に恵美子にとってもすごく良い話のように思えてきた。しかし、今の仕事も十分楽しくて、かつ、やりがいもある。両方の仕事を同時にやれるほど簡単ではないだろうし、それに、定食屋をやるとなると資金の事も気にかかる。ここまで考えて、ふとおかしくなった。思いつきで言った話にも関わらず、今の仕事を辞めることや定食屋を開く資金のことを考えたり、空想癖も甚だしかった。
恵美子はすぐに忘れると思っていたが、自分でも驚くほど、定食屋のことが頭から離れなくなっていった。家に帰ると敬史が定食屋の事についてあれこれと話すので仕方ない面もあったが…。それでも、自分ひとりになった時には、定食屋を開くための課題が何であるかを考えてばかりいた。そして辿り着いた答えは、今の仕事をどうするか、という事と、定食屋を開くための資金をどう調達するか、だった。これ以上ひとりで悩んでいても答えが出ないと思った恵美子は、今の仕事でお世話になった高木に相談することにした。
「珍しいね、君が私に相談してくるなんて。いつもすぱっと判断する君が悩んでいるとなるとちょっと怖いねぇ。」
「高木専務、冗談はやめてください。」
「いや、悪かった。で、どんなことなんだね?その相談とやらは。」
「実は…。」
弟が過去を悔いて定食屋を開こうとしていること、自分が今の仕事を続けるかどうか悩んでいること、定食屋を開くにしても資金的にどうなのかがわからないこと、等を一気に喋った。一通り話を聞いた高木の第一声は、
「定食屋かぁ、俺も学生時代はよく通ったなぁ。」
というとぼけたものだった。思わず緊張がほぐれた恵美子は高木の顔をまじまじと見返してから言った。
「専務、私の話、ちゃんと聴いていただけたんでしょうか。」
と言ってしまった。普段、冷静に会話する恵美子だったが、今日ばかりは入れ込んでいて冷静さを欠いていた事に気づき、照れ隠し半分、高木の態度に呆れたのが半分で出た言葉だった。
「ちゃんと聞いてたさ。ただ、いつもの川島君と違って切羽詰っているようだったので、つい茶々を入れたくなって…。」
「専務!!」
「すまん、すまん、そんなに怒らないでくれよ。君たち姉弟の定食屋、全面的にバックアップさせてもらうから。それで許してくれよ。」
「えっ?」
「正直、君が我が社からいなくなるのは大きな痛手だ。ただ、君は弟さん、確か敬史君だったよね、彼と一緒に定食屋をやりたいんだろう?さっきの話でははっきりとは言ってなかったけど、僕には”定食屋をやりたいんですが…”と言ってるように聞こえたよ。」
「専務…。」
「とは言え、飲食店を経営することは意外と難しい。最初から君たちだけで大丈夫なんだろうか。それと資金面のことも気にしていたよね。店の立地や内装などにもよるけど、自分たちで賄えそうなのかい?」
「正直言って、お店の経営についてはこれから勉強だと思っています。それに資金についてはまだ十分に試算が出来ていませんが、かなり借金をしないと難しいだろうなと考えています。ただ、祖母が土地と家を残してくれていますので、それらを担保にすればある程度の借金は出来るんじゃないかと。」
「ふーん、何とも心もとないねぇ。少し僕の方でも考えてみるから一~二週間ほど時間をくれないか。」
家に帰ると敬史が定職のメニューを考えていた。テーブルの上に大きな文字で書き込まれた品々は、肉じゃがやらさば味噌など、どこにでもあるようなものばかりだった。
”今度の休みに物件を探しに行こう。”
恵美子が定食屋を始める決心をした瞬間だった。
「あっ、姉ちゃんお帰り。今、メニューを考えていたんだ。」
そう言うと、テーブルの上の品々を端から順に指でこつこつと叩きながら、それらの料理の特徴を説明してくれた。
「おっ、どれも良い音してるねぇ。姉ちゃん、メニューはばっちりだよ。おっ、このさば味噌、とっても心地よい音を出してる。きっと人気メニューになるな。」
「へえ、敬史がそこまで言うのなら、定食屋の繁盛は決まったようなものじゃない。それじゃぁ今度の休みの日に、物件を探しに行こうか?」
「えっ、姉ちゃんも行ってくれるの?さっき、会社の人から電話があって、良い物件があるので今度の定休日に一緒に見に行かないかって。何で会社の人が物件を探してくれてるのか知らないけど、会社で定食屋のこと話したの?」
「会社から?誰から?」
「浅野さんと言ってたよ。確か浅野さんって、姉ちゃんが社員になる時にお世話になった人だよね?」
「そう、あの時は大変お世話になって・・・。浅野課長がいなかったら今の仕事には就けなかったわ。でも、何で浅野さんが物件探しを手伝ってくれるのかしら。先日、高木専務に相談したんだけど、専務が動いてくれたのかしら。いずれにせよ、明日会社で専務と浅野さんに聞いてみるわ。」
翌日、出社するとすぐに高木専務に呼ばれた。専務の話は、今回の定食屋の件をマルイチの市場調査に使う事になったというものだった。マルイチでは以前から飲食業への進出を検討していたそうで、今回の件はマルイチに取ってもメリットがあると判断されたらしい。勿論、高木専務の強い後押しがあったであろうことは容易に想像できたが…。
「専務、ありがとうございます。昨日、浅野課長から弟に連絡があり、会社が一緒に物件探しをしてくれると言って大変喜んでいました。なおかつ、資金面での援助をいただけるとなると、出店までの大きなハードルをクリア出来ますし、願ったり叶ったりです。」
「川島君、喜んでばかりはいられないよ。君もわかっているとは思うが、会社が出資すると言うことは、確実に結果を出さなければいけない。それも、今回の出店では基本的に君たちにすべてを任す方針に決まった。即ち、君と敬史君の二人で仕入れから接客、業者とのやり取り等、すべてをこなさないといけない。」
高木の表情には厳しさがあったが、その内には我が子を守ろうとする親の優しさが垣間見えていた。改めて高木の優しさを感じると共に、絶対に成功してみせるという強い気持ちが湧いてくるのを感じた。
会社が主導することが決まってからは、瞬く間に開店の準備が進み、三ヵ月後に開店の運びとなった。一方、恵美子の処遇については、当面はマルイチ社員として店の経営に携わることになり、浅野が店の運営を支援し、かつ、管理することになった。
席数二十というこじんまりとした店ではあったが、二人が恩返しをしていくには十分な広さの店がオープンする前の晩、決意を新たにする二人の姉弟は夕食を取りながら話した。
「いよいよだね、お店。」
「そうだね、今まで以上に腕を奮ってお客様を満足させてよね。」
「任せておけって。スーパーのみんなに試食してもらった時だって大好評だったじゃないか。」
「そうね、高木専務なんてご飯お代わりしてたものね。」
「それとね、今日、最後の仕込をしていた時にいい音が聞こえてきたんだ。だから俺たちの決断は間違っていないよ。」
「そうか、音が聞こえたんだ。それは良かったね。敬史の聞く音って本当によく当たるしね。そっかぁ、いい音が聞こえたのかぁ、何だか嬉しくなってくるね。フフフ…。」
「何だよにやついちゃって。浅野さんのことでも思い出してるのか?」
「なっ、何言ってるのよ。浅野さんのことなんて…。」
「あらあら、真っ赤になっちゃって。初心だねぇ、姉ちゃんは。浅野さんと上手くいってるの?」
「な、何よ、浅野さんは仕事の上司で、べ、別にそんな仲じゃないわよ。変なこと言わないでよ。」
「ふーん、そうなんだ。浅野さんって慎重派なのかなぁ。どうみたって、二人とも憎からず、って感じだけどね。」
「もう、そんなこと浅野さんに言わないでよ。さあ、早くご飯食べて明日の準備をしてちょうだい。」
浅野には社員になる時からお世話になっていたし、今回の開店では物件の手配から業者との交渉、マルイチとの調整等、準備のほとんどを手伝ってもらい、感謝の念で一杯だった。ただ、敬史に言われるまで彼を男性としてみている意識はなかった。
”まったく敬史ったら、変なこと言われると意識しちゃうじゃない。明日、浅野さんとスムースに話せるかなぁ…。”
いよいよオープン当日の朝を迎えた。店はマルイチ本町店から徒歩五分ほどのところに立地していることもあり、スーパー関係者が大勢現れ、盛況を博した船出となった。敬史が作る料理はどれも好評で、味は勿論、ボリュームも十分で昼食時にやってきた男性社員には大層好評だった。そして翌日、翌々日も昼時を中心に大勢の客が来店し、関係者一同、とりあえず胸を撫で下ろしていた。
「いやぁ、思った以上にお客さんが入ったねぇ。」
「これも浅野さんの周到な準備のおかげですよ。チラシをマルイチと一緒にしてもらったり、昼時と夕飯時に先着サービスを設定したり、とてもじゃないけど俺たちだけでは出来ない芸当ですよ。」
「いやいや、敬史君の料理が美味しいからだよ。まだ開店から一週間しか経ってないけど、既に近くの工場関係者とか常連さんが付いたのも料理のおかげだしね。」
「でも、嬉しいですね、ああやってしっかりと食べてもらえると。こっちも気合が入ってきますよ。」
「この辺りはうちのスーパーも含めて、肉体労働をしている人が多いからね。ボリューミーなメニューを揃えたのが功を奏しているんじゃないかな。これからも頼みますよ、料理長さん!」
「料理長と言うより、定食屋の親父の方があってるんじゃない、敬史には。」
「姉ちゃん、そりゃないんじゃない。俺、まだ三十になったばかりだぜ。」
あまりに順調な船出だったこともあり、この時は三人ともこの後に起こる大変な出来事など露ほども思わず、他愛の無い話で盛り上がっていた。
オープンから最初の一ヶ月が過ぎた。収支状況は初期投資分を除けば単月で若干の黒字だった。最初の二週間はサービス品の提供などでコスト増となっている事を考慮すれば、十分な数字だった。この時点で、高木をはじめ、関係者一同が定食屋「空」の成功を確信したのである。
ところが、開店から二ヶ月目には入ると状況は様変わりした。それまでは毎週微増だった客数が、オープン以来始めて減少した。とは言え、その数はほんの僅かだったため、浅野も姉弟も気にかけることはなかった。週次報告で高木はその点に気づいたものの、敢えて指摘はしなかった。そして翌週の報告、今度も僅かではあるが客数が減少していた。オープン早々に常連になってくれた客たちは、口々に味の良さとボリュームを褒めてくれていたが、二週連続で客数が減少したことに恵美子は嫌な感じを覚えていた。すぐさま浅野と敬史を呼んで相談をしたが、二人の意見は、もう少し様子を見てみよう、というものだった。
ところが、その後も客足はなかなか伸びないまま二ヶ月目が過ぎていった。結局、オープン二ヶ月目は僅かではあるが黒字となり、高木の顔に泥を塗るようなことにはならずに済んだ。だが、確実にオープン当時の勢いはなくなっており、恵美子の胸の内にはもやもやした灰色の霧が常にかかるようになっていた。
そこからの数ヶ月は更に状況が悪化した。毎月のように赤字を出すようになってしまったのである。新メニューを考えたりサービス品を設定するなどし、かつ、マルイチの広告も利用させてもらって集客を図るものの、なかなか客足が伸びなかった。相変わらず常連客は来店してくれていたが、新たに常連となってくれる客がなかなか現れなかった。その結果、どうしても売り上げが頭打ちになってしまっていた。料理の味が落ちたかと思い、マルイチの社員に試食をしてもらったりもしたが、決して味は悪くないしボリュームも十分と評価された。
店が利益を出せない間、その負担は会社が担っていた。このままの状況が続くとどこかで決断されてしまうことも十分考えられた。焦りを覚え始めた三人は、浅野を中心に色々な改善策を講じてみるものの、その後も採算は回復しなかった。
ある日、社に顔を出した恵美子は高木に呼び出された。高木のもとに出向くと浅野がいて、二人とも神妙な顔つきをしていた。嫌な予感がした。すると高木が気まずそうな顔つきで恵美子に最後通牒を突きつけてきた。
「川島君、なかなか”空”の経営状況が改善しないようだね。」
「ええ、色々と手は打っているのですが、何故か、常連客が増えなくて・・・。その為、売り上げもなかなか伸びない状況が続いています。」
「対策の内容や数字については浅野君から聞いているから、君たちのやり方が間違っていないことはわかっている。ただ、会社としてはこの状態をいつまでも続けるわけにはいかない。今朝の役員会でも”空”のことが議題に上ってね、結局、三ヶ月後に結論を出す事になった。」
「三ヶ月ですか。それは、三ヶ月で採算を改善しろと言うことですか?」
「そうだ、少なくとも月間の収支が赤字になる事は許されない。ここ三ヶ月の間に月間の収支を黒字に持っていくんだ。」
「月間収支を黒字に…。」
「川島さん、大丈夫ですよ。今も高木専務にお話していたのですが、敬史君の料理の質は落ちていない。定食屋で料理の質が良いのだから、後は、売り方の問題だと思うんですよ。それをこの三ヶ月の間に見つければ、一気にV字回復しますよ!」
「浅野は川島君の前だと元気一杯だな。さっきまでは愚痴も出ていたくせに…。」
「せ、専務、何言ってるんですか。ぼ、僕は”空”を大事にしたいから…。」
「わかった、わかった。とにかく、三人で戦略を練り直して、何とか建て直しを図ってくれ。必要であれば会社も応援するから何でも相談に来てくれて構わない。”空”を大事に思ってるのは、浅野、お前だけじゃなくて、マルイチ本町店のみんなだからな。」
高木が社内でかなり強硬に”空”を応援してくれていることは恵美子も噂に聞いていた。マルイチ本町店のみんなも恵美子たちを一生懸命応援してくれている。そして浅野がいて、敬史がいて・・・。なんとしても立て直さなければ、そう思う恵美子だった。
その後もあの手この手と集客作戦を立てるものの、一瞬、客足が伸びてもすぐに元に戻るということを繰り返していた。そうこうしている内に期限まで残り二ヶ月を切ってしまった。ある日、定休日だと言うのに浅野がわざわざ店にまで来てくれた。敬史は出掛けていたので二人で新たな作戦を考えて見るものの、なかなか妙案は出なかった。仕方が無いので休憩がてらコーヒーを飲もうということで近くのタリーズに行った。そこで、隣のテーブルにいた二十代半ばくらいの女性二人連れの会話が聞くとはなしに耳に入ってきた。
「最近出来たレストラン、お昼の定食美味しいよね。」
「そうそう、値段もそこそこだし、何より、品数が多いのが嬉しいよね。」
「そうなの、ちょこっとずついくつも小鉢があって、それぞれがまた美味しいのが嬉しいんだよね。小鉢って結構手抜きしているお店があるしね。」
”品数”
思わず浅野の顔を見ると、そこには驚いたように見返す目があった。のんびりコーヒーを飲んでいる場合ではないということで、慌てて店に戻った。帰り際、携帯で敬史に連絡を取り、大至急、店に来るように一方的に言って電話を切った。店についてしばらくすると敬史がちょっと不満そうな顔で現れた。
「なんだよ姉ちゃん、理由も言わずに”店に来い”って。何かあったのかい?」
「敬史君、わかったんだよ。”空”の立て直し策が!!」
「あれっ、浅野さん、今日は定休日なのにこんなとこで何してんですか?あっ、もしかして姉ちゃんとデートですか?」
「何呑気なこと言ってるのよ。わかったんだってば、何でなかなか常連客が増えないかが。」
「えっ、本当かい?一体、何が原因だったんだよ?」
「敬史、”空”の料理の特徴は何?」
「何だよ今更。うちの料理の売りは安くて美味しくてボリューミー、だろ。」
「そうよね。で、”空”の常連さんは近くの工場で働いている人やマルイチの社員、それも割りと体を動かす部署にいる男性社員が多いわよね。」
「そうだね。常連さんたちは皆、体をよく動かすからパワーが出る食材や量に注意してメニューを組んでるじゃないか。それが何か問題なのかい?」
「今の常連さんたちにはそれで十分よ。ただ、”空”に訪れてくれるお客さんの半数は会社勤めのOLさんたちよ。彼女たちはどちらかというとカロリーに注意するから量を望む人はあまりいない。それに、女の人は大抵、色々なものをちょっとずつ食べるのが好きだったりする。」
「と言うことは、今の”空”の方針だと女性客が常連になる可能性は低い、ということかい?」
「勿論、敬史の料理は美味しいし、値段もこの辺りのお店としては十分対抗できるレベルよ。だから、この不景気のご時勢でもある程度の集客が出来ているんだと思う。だけど、お客さんのターゲットをもう少し広めて考えれば、さらに集客することが出来るんじゃないかしら。」
「今日、恵美子さんとお茶を飲んでる時に、隣のテーブルに座った女性が話していたんだよ。安くて、美味しくて、品数豊富のランチが魅力的だってね。」
「へえ、二人でお茶ねぇ…。」
恵美子が顔を真っ赤にした。ふと浅野の顔を見ると、彼もまた真っ赤な顔になっていた。
”まったく、いい年して二人とも…。”
「と、とにかく、二~三十代の女性をターゲットにしたメニューを至急考えましょう。どう敬史、何かいい料理ない?」
「そうだなぁ、、、少し考えてみるよ。ただ、品数を増やすとなると、盛り付けとかも考えたほうがいいよね、きっと。そういうのはやったことないからなぁ。誰かに教えてもらえたりすると助かるんだけど…。」
「そうだよね、海の上では品数とかあまり関係ないもんね。誰かいいひといないかなぁ。」
「女性に人気の店に食べに行ってみたらどうかな。」
「浅野さん、女性に人気の店、知ってるんですか?私も連れて行って欲しいかな。」
「あ、いや、そんな知ってるって程ではないですよ。ただ、マルイチの女性社員がよく行くお店とか、雑誌で特集しているお店とかに行ってみたらどうかと思って。」
「姉ちゃん、浅野さんと二人で行くのは後回しにしてくれよ。それより浅野さん、今度の定休日に行ってみるから、お店のこと調べておいてもらえませんか。あと姉ちゃん、品数を増やすとなると今の器じゃ難しいよ。新しい器を物色しておいてくれないか。」
「お店のことは任せてくれ。なるべく多くの店を周れるよう、あと、色んなタイプのお店に行けるよう、調べておくよ。」
「器のことだけど、どういうのが良いのかしら。私、あまり外で食べたりしないから、そういうことに疎いのよね。」
「わかった、それもうちの社員に聞いてみるよ。ただ、”空”はあくまでも定食屋だからね。あまり懲りすぎない方がいい様な気もするけど。敬史君のイメージはどうなんだい?」
「うーん、さっきも言ったように、品数を増やすことで食事に魅力を出すというイメージが今一つ湧かないんだよね。だから、これといったのはないんだけど…。ただ、お店を開こうと思ったきっかけが恩返しだったから、食べる人が喜んでもらえるような器になると嬉しいかな。」
「喜んでもらえる器ねぇ。却って難しくなっちゃったな。まっ、これで”空”の常連が増えるんだから頑張ってリサーチしてきましょう。」
早速、メニューの見直しを中心に、二~三十代の女性を取り込む為の準備が始まった。敬史は料理本や飲食店を紹介する雑誌を参考に、いくつもの料理を考えた。浅野は女子社員から意見を聞いたり、インターネットで女性に受けてるランチの店を探し、出入りの業者からは器の情報を仕入れたりした。また、恵美子は敬史が作る料理の組み合わせを考えたり、浅野が持ってくる情報を取りまとめたりし、今後のプランをわかりやすく立てていった。そして、次の定休日には三人で浅野が調べてきた店をはしごして周り、それらの料理を参考にして新しいメニューを作成した。一方、マルイチ出入りの業者から紹介してもらった陶芸家を浅野が訪ね、新しい器を仕入れてきた。そして、マルイチのチラシを使って新メニューが出来たことを告知した時には、高木から示された期限まで残り一ヶ月となっていた。
新メニューを出した初日。いつも昼時にやってくる男たちに混ざって何人かの見かけない女性が来店した。チラシを見てきたのであろう、彼女たちは全員新メニューを注文していった。厨房では、初めて供する新しい定食を前に、敬史が神妙な面持ちで仕上げをしていた。
”これが”空”の存続を決めるんだ。大丈夫、浅野さんや姉ちゃんと考えに考えた答えだから、絶対に成功する!”
新メニューは常連たちも興味を示して食べてくれた。ただ、そのうちの何人かはあけすけと否定的なコメントを残して笑って帰っていった。
「敬ちゃん、この定食、ちょっとボリュームが足りないんじゃない。まっ、味は良いんだけどね。」
新メニューを出してからの一週間、来客数の増減は見られなかった。期限までは残り三週間。定休日に店に集まった三人は、残り三週間をどうするか相談していた。
「浅野さん、数字的にはどうです?」
「来客数、売り上げ、ともにほとんど増減はないね。ただ、新メニューがそれなりに出ているせいか、原材料費が若干増えてしまってる。その分が若干だけど利益に影響してしまってるみたいだね。まあ、この点は敬史君が慣れてくれば落ち着くと思うけどね。」
「そうですか、原材料費が増えてますか。品数を多くしようとすると、どうしても無駄が出やすいんですよね。今後、無駄を省くよう工夫してみます。」
「うん、頼むよ。あと、少し良い兆しだと思うのだけど、女性客の割合が若干だけど増えている。まだ一週間だから何とも言えないけど、この女性たちが常連になってくれれば、口コミで広がる可能性も出てくるだろうし、チャンスはあるんじゃないかな。」
「と言うことは、新メニューの投入は作戦として正しかった、ということ?」
「まだまだわからないけどね。僕はこれらの数字をそう読みたいね。」
「それじゃ、明日からの三週間、このままいけばいいのかな。」
「敬史、自信持って進もうよ。浅野さんの判断、私も賛同するわ。」
「姉ちゃんは浅野さんの言うことは何でも信用しちゃうんじゃないの。」
「ば、ばかぁ…。」
いよいよ後がなくなった三人は、残り三週間で新メニューを定番化させて客足を伸ばすという道を選んだ。しかし、三人とも心の内では本当に出来るだろうかと言う不安が渦巻いていた。反面、三人が力を合わせればどうにか乗り越えられるんだ、という気持ちも強く湧いてきていた。一人では出来ないが三人なら絶対に出来るという気持ちになっていた。
次の週、女性客が二人連れで来店した。二人とも新メニューを注文して食べていったが、食事の途中、恵美子が横を通り過ぎた時に二人の会話が少しだけ聞こえてきた。
「ね、味も良いし、量もちょうどいい感じでしょ?」
「そうね、それに定食と言いながらこれだけの品数があると嬉しくなっちゃうね。器もかわいいし。」
会計の際には思わず”御代はいりません”と言ってしまいそうになった恵美子だった。
そしていよいよ指定された期限を迎えた最後の日、最後の客が帰った後に集計を始めた浅野の横に、神妙な面持ちの姉弟の姿があった。
「恵美子さん、敬史君、今月もご苦労様でした。最後の集計が終わりましたよ。」
声も出せず、浅野の顔を見つめる二人。
「今月の収支は、残念ながら黒字には至りませんでした。」
「えぇ、そんな…。浅野さん、計算違いとかないんですか?」
「敬史君、慌てないで最後まで聞いてくれよ。今月の収支は黒字には至らなかった。ただ、赤字にもなっていない。即ち、先月よりも収支は改善しているんだよ。それと、週単位の売り上げや集客数を見ると、今月はすべての週で前週から増えている。しかも集客の内訳を見ると、週を追って女性の比率が高くなってきている。これって、我々が描いた方向に向かっているということなんじゃないかな。」
「浅野さん、と言うことは”空”を継続するかどうかの判断は…。」
「そう、明日にでも高木専務にこの内容を報告して、交渉してみるよ。確かに月間収支は黒字化できなかったけど、これらの数字を見れば明らかに上向いていることがわかる。このタイミングで”空”の営業を止めると言う経営者はそうそういないんじゃないかな。」
「浅野さん、明日、お店はどうするんですか?」
「敬史君、勿論通常通りの営業だよ。万が一、撤退と言う結論に至るにしても、いきなり閉店なんかしたらそれこそマルイチの信用問題に関わってしまうよ。だから、君たちは何ら変わることなく今まで通りの営業をしてくれよ。」
「わかりました。新メニューもそろそろレパートリーを増やしたいと思っていたので、そっちも進めてみますね。」
「いいねぇ、その意気だよ。会社の方は僕が全力を以って説得してくるから。
帰り際、浅野の心の内はずしりと重たい気持ちで一杯になっていた。姉弟の前では強気な事を言ったものの、企業経営がそんなに甘くないものである事は十分に承知していた。存続の条件である「月間収支の黒字化」が出来ていないと言う事実を会社がどう捉えるか、浅野の経験だけでは如何とも想像出来なかった。とにかく、明日は高木に事実を話し、戦略が成功の兆しを見せている事を主張するだけである。それを受けて会社がどういう判断をするかだ。
姉弟の為、恵美子の為にも何とか成功裡に進んでくれる事を願う浅野だった。
翌朝、すべての話を聞き終えた高木が腕組みをして目をつぶってからどれだけの時が流れたのだろう。浅野にはその時間が永遠のようにも感じられ、胃がきりきりと痛んでくる思いで高木の結論を待ち続けた。
「浅野君、もう一度聞く。この三週間の数字が上向いているのはわかるが、今後もこの傾向を維持出来ると考える根拠はどこにあるんだ?」
「まず一つ目に、固定客である常連客がついていること。これはベースとなる収益確保にとってプラス要素です。二つ目に、女性客の比率が確実に上がってきている事。この三週間で来客における女性の比率は確実に上がっており、かつ、これら女性の中から常連客となりつつある方が出始めています。これは、一つ目の要素であるベースを高める事につながる要素であり、飲食店経営にとっては大変重要な点であること。そして三つ目に、今回の戦略に肯定的なコメントをしてくださった女性客がいること。この点は数名の女性客から聞いた話ではありますが、戦略の方向性が間違っていない事を示していると思われます。そして四つ目に、調理をしている敬史君が、女性向けの料理作りに慣れつつある事です。今月の収支が黒字化出来なかった理由の一つに、原価比率の高さがあります。これは、不慣れな料理に取り組んだことから生じたものであり、日を追う毎に原価比率が下がってきています。この調子で行けば、あとひと月もしないうちに先月並みの原価比率に下がると思われます。また、五つ目に…」
「わかった!お前の思いは良くわかった。とは言え、黒字化出来なかった事実がある。両方の点を踏まえてどうするか、明日の経営会議に諮ってみよう。」
「専務、よろしくお願いします!」
「しかし、お前も川島君絡みだと強気だなぁ。まあ、俺もあの姉弟に対してはどうにかしてやりたい気があるけどな。お前の情熱にはかなわんわ。あはは…。」
経営会議では高木が強く押したこともあり、条件付ではあるものの”空”の存続が決定した。それを聞いた浅野は、聞くやいなや会社を飛び出し”空”に向かった。店では敬史が仕込みの最中で、恵美子は昼食時の営業に向けてお店の清掃をしているところだった。泡を食ったような勢いで飛び込んできた浅野を見て、二人の脳裏には一瞬、嫌な予感がよぎった。しかし、店に入って二人がいる事を確認した浅野の顔が綻びだすのを見て、結果が良いものである事を確信した。
「恵美子さん、敬史君、やったよ、やった!”空”は存続だ!!」
「本当、浅野さん、”空”はつぶれないの?」
「本当だよ、”空”をつぶすなんて誰がさせるもんか。って、僕が決めたわけじゃないんだけど。経営会議で高木専務が存続させる事について強く押してくれたらしい。その結果、条件付ではあるけど”空”は今後も今まで通りの経営を続けていく事になったんだ。」
「それじゃぁ、俺たちはこれからも”空”を通じて恩返しを続けていくことが出来るんだ。」
「そうだよ、敬史君、どんどんとお客さんを喜ばせて、常連客を増やしていくんだよ。そうすることが、君たちの恩返しでもあるし、会社に対する感謝の念にもつながるしね。」
「ところで条件ってどんなことなの?また、採算の事?」
「採算の事については、今後は予算化して他の事業と同様に管理を行っていくことになった。今回課せられた条件は、アンテナショップとしての情報収集なんだ。」
「アンテナショップ?それってメーカーとかが新商品を出すにあたって、市場の動向を探る為にやるあれ?」
「そう、そもそもマルイチが”空”の経営に乗り出した理由がいくつかあるのは知ってるよね。食品に対する顧客の嗜好を調査することや、飲食業に乗り出すにあたっての課題検討などが主な理由になるんだ。そして、そういった理由の中でも、食品、特に精肉についてはここ数年低迷していることもあって、常に色々な打開策を検討している。恵美子さんが長田町店の立て直しに入ったのもその一環だったんだ。」
「へえ、それは知らなかったわ。でもあのお店の精肉部門はかなり改善が進んで、売り上げも大分増えたはずだけど。」
「そう、あのお店は確かに改善しているんだけど、それでもスーパー業界の中ではマルイチの精肉部門はまだまだ改善の余地ありなんだ。だから、スーパーではなく、実際に食事をする現場の声を聞くことで何らかの改善ヒントを見つけようと言うのが経営側の思惑なんだよ。」
「ふーん、だけどそれって俺たちにとってはあまり苦にならない条件だね。シビアな予算を組まれるとちょっと困るけど。」
「そうね、敬史の言う通り、情報収集なんていくらでもやりようがありそうよね。しかもこれからの”空”は、体育会系の人たちの意見だけでなく、流行に敏感な世代の女性の意見も収集できるから、会社としては願ったり叶ったりなんじゃないかしら。」
「多分、高木専務もその点を前面に出して押したんだと思うよ。そもそもアンテナショップの案は高木専務の発案だからね。」
「浅野さん、今度、高木専務を連れてきてよ。精一杯ご馳走したいな。」
「わかった、今度、専務に話しておくよ。そのかわり、その時はスペシャルメニューで頼むよ。」
”空”の評判は徐々に口コミで広がりを見せていった。そして、経営会議での決定以降、徐々にではあるが確実に業績を上げていった。三人の思惑通り、既存の常連客に加えて会社勤めと思しき女性たちがランチ時にちょくちょく顔を出すようになった。また、品数を増やす試行錯誤の中で始めた大皿料理が好評で、夕飯の代わりに軽く一杯飲んでいく客も増え始めたのである。
マルイチとしても”空”の固定客から得られる情報を元に、食品の品揃えや販売方法を工夫し始めた。すると、徐々にではあるがそれらの施策が業績につながるようになっていった。
経営会議での英断から一年程が過ぎた頃には毎月の収支も大幅な黒字となり、昼時にはお店の前に行列が出来るほどの人気店になっていた。そんな折、高木から呼び出されてマルイチに出向いた恵美子は、高木の口から意外な提案を聞いた。
「川島君も、今じゃすっかり定食屋の女将さんって感じだね。」
「専務、それってあまりいい意味に思えないんですけど・・・。」
「いや、そんなつもりじゃないんだ。気を悪くしないでくれよ。そうそう、今日来てもらったのは”空”の今後のことについて君たちに提案があるんだ。」
「提案、ですか。」
「ああ、君も知ってるように”空”はマルイチのアンテナショップとしての役割を持たせていたが、その効果が徐々に現場、特に精肉部門に現れてきた。精肉部門が更に業績を伸ばすためには、これから部門全体が一丸となって精進していく必要がある。ただ、”空”のアンテナショップとしての機能は、これからの精肉部門には今のところ必要ないと考えている。」
「アンテナショップとしての役割は終わった、と言うことですか。」
「そうだ、そしてもうひとつの目的である、飲食業における経営ノウハウの習得も浅野君を中心にある程度得られたと考えている。」
「そうすると、”空”のマルイチにおける使命は終了した、会社としては”空”から手を引く、と言うことですか?」
「相変わらず察しがいいな、君は。そう、マルイチとしては”空”を立ち上げた時の目標は達成した。だから、今後の”空”の経営については今一度、根本から見直して撤退も含めて検討しようと言う事になっている。勿論、確実に予算を達成している店舗だから、今まで通りの経営で行く選択肢もあると考えている。ただ、僕としてはたった一店舗の飲食店をマルイチが経営することにはリスクも伴うため、更に店舗を増やすか、若しくは撤退するべきと考えている。」
「店舗を増やすか、若しくは撤退…。」
「仮に撤退する場合、”空”をそのまま閉店するのは何とも忍びない。そもそも、あれだけの利益を上げている店舗をただ単に閉めるのは勿体無い。そうなると営業譲渡という手もあるんだが、その場合、君たちの処遇についても考えなければならない。」
「専務、すみませんがお話がよく見えません。こんなことを言っては申し訳ないのかも知れませんが、私が呼ばれたと言うことは、ある程度会社の方針が決まっているのではないのですか?もし私にお気遣いいただいてるようでしたら、何なりと言ってくださって結構です。」
「いやぁ、まいったなぁ。君には負けるよ。わかった、会社の方針を伝えよう。会社としては”空”の経営から撤退することを決めた。この後の”空”に関しては私が全権を担って処理する事になった。」
「そうですか、撤退ですか。と言うことは”空”は閉店ですか。」
「川島君、まだ話は終わっていないよ。そもそも、今日、君に来てもらったのは、”空”の今後について僕の提案を聞いてもらうためなんだ。”空”の今後については僕が全権を任されているのだが、僕としては”空”を閉店することはしたくない。ただ、会社が経営から撤退する以上、誰かが経営を引き継いでいかないといけない。”空”を経営するのに適しているのが誰か、それはここまで”空”を支えてきた君達三人だ。」
「私達三人…。」
「川島君、敬史君と一緒に二人であのお店を経営してみないか。勿論、マルイチとのパイプは今まで通りに使えばいいし、資金面についてはみずほ銀行の本町支店長に経営状況を話して、君たちでも融資が受けられる事を確認してある。」
「私たちのお店…。」
「二人で経営することになったとして、浅野がどんな反応をするのかわからないが、彼も”空”の経営に携わりたいと言うのであれば、それもいいかも知れない。今の”空”の経営状況であれば、三人分くらいの給与を稼ぐことも十分可能だろうしね。」
「専務…。」
「川島君と浅野君がマルイチを抜けるとなると会社にとっては大きな痛手だが、”空”を支えられるのは、やはり君達三人だけだと言うのが私の答えなんだ。」
”いつも頭の回転が速い川島君だが、流石にこの話には戸惑っているようだ。無理もないよな、唐突に店の経営者になれって言われたら誰でも混乱するよな。”
「当然のことだが返事は今日でなくて構わない。仮に”空”を閉店する事になった場合でも、一ヶ月程度は猶予を見ているから時間はそれなりにある。取り敢えず、敬史君と相談してみてくれないか。」
「わかりました。銀行の融資の件はどなたに聞けばよろしいですか。」
「それは僕から銀行に連絡しておくので、明日にでも銀行の連絡先を教えるよ。」
「浅野さんにはこの話はどうされるのですか?」
「彼にはこの後、彼が外出から戻ってきたら話すつもりだ。本当は二人一緒に話したかったのだけど、急遽、別件が入ってしまったようなんだ。」
「わかりました。それでは、弟と相談した上で、早々に連絡させていただきます。」
いつもの自分ではない自分が話しているような感じが妙におかしくて、マルイチを出たところで思わず笑ってしまった。ただ、この話が恵美子たちにとって良いことなのか、悪いことなのか、今の精神状態ではまるっきり判断する自信がなかった。
”この後浅野さんに話すといってたから、明日の定休日にでも三人で相談してみよう。専務も仰ってたけど、”空”をここまで続けてこられたのは敬史と浅野さんのお陰だし、高木専務をはじめ、マルイチの皆さんや食事に来てくれるお客さんのお陰でもあるのだから。”
翌日、神妙な顔をした浅野と敬史の顔を見た瞬間、恵美子は覚悟を決めた。
「二人とも何て顔してるのよ。今にも何か得体の知れないものがやってきて、今、目の前にある現実が大嘘だと言われるとでも思ってるの?」
それでもまだ表情の硬い二人を見ていると、大きな子供が目の前で竦んでいるみたいで可笑しかった。
「三人でやろうよ。”空”は敬史が考えたお店だけど、ここまでこられたのは浅野さんのお陰でもあるわけだし。何より、”空”をもっともっと素敵なお店にしたいと思わないの?」
「姉ちゃん、随分と楽観的だね。俺たちで店を経営するって事は、これから起こる色んな壁をすべて自分たちで乗り越えていかなきゃいけないってことだよ。わかってるの?」
「わかってるわよ、そんなこと。何よ敬史、もしかしてあなた自信無いの?そんなんで恩返しなんてやっていけるの?」
「まあまあ恵美子さん、ちょっと待ってよ。敬史君にも色々と考えるところがあるんじゃないかな。何もそんなに焦って決めなくても、時間は十分あるんだし…。」
「えっ、まさか浅野さんも自信が無いとか言わないですよね?もう、いざとなると男って…。」
「いや、その、自信が無いとかではなくて、条件とか色々と考えたほうがいいんじゃないかと…。」
おろおろする二人を見ているとどんどん可笑しさが募ってきて、ついに堪えきれなくなった。
「もう、二人ともあんまり笑わせないでよ。大の男が二人も揃って、こんなチャンスにうろたえちゃうなんて・・・。お祖母ちゃんが天国で笑ってるわよ。」
いたずらを見つけられて母親にあきれられた子供のように、大の男二人が照れ笑いを浮かべたまま恵美子の顔を覗き見ていた。
敬史の発案で始めた定食屋”空”は、銀行からの融資を受けて晴れて三人の城となった。
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