姉五十一歳、弟四十九歳
”花”の開店から数年後、久し振りに浅野一家が”空”で少し遅めの昼食を取っている時に初老の男が客として来店した。短めにした頭髪と鼻の下に蓄えた髭にはちらほらと白いものが交じってはいるものの、背筋の伸びたその姿からは年齢を感じさせない元気が滲み出ていた。店員がオーダーをキッチンに通し、敬史が今日の日替わりであるさばの焼き魚定食を調理した。客が食事を取っている間、恵美子たちのところに出てきた敬史は、その初老の客を一目見て思わず息を飲んだ。その男は忘れもしない、養護施設にいた時に死亡した大川麗の父親だった。恨むつもりは無いが、敬史が交通事故でバスケットをあきらめたきっかけになった男だった。
”どうして今頃になってここに・・・。単なる偶然か、それとも・・・。”
青ざめた顔で客を見つめている敬史の異様な雰囲気に気付いたのは恵美子だった。
「敬史、どうしたの?あのお客さんがどうかしたの?」
「あ、姉ちゃん、あの人、麗ちゃんのお父さんなんだ。養護施設にいた大川麗ちゃんの。」
「えっ!麗ちゃんの?!敬史、何でそんなことを知ってるの・・・。」
その時、男が食事を終えて席を立った。ついさっきまでいた他の客は既に食事を終えて帰っており、店内にはその男と敬史たちだけだった。男は敬史に気付くと近付いて来て微笑を浮かべながら軽く会釈をした。
「覚えてますか、大川麗の父親です。三十年程前に一度だけお会いしているのですが。」
「ご無沙汰しています。その節はろくにご挨拶も出来ず大変失礼致しました。」
「いえ、こちらこそ唐突に訪れて驚かしてしまったようで大変失礼致しました。その後、怪我でバスケット選手への道を断念されたと聞き、大変残念でした。お見舞いにと思ったのですが連絡先もわからず、ついついそのままになってしまいました。ところが、先日、このお店のことを雑誌で知る機会がありまして、そこで紹介されていたあなたのプロフィールから、もしかして、と思って伺わせていただきました。評判どおりのとっても美味しい定食でした。」
「ありがとうございます。大川さん、四十年以上も前のことですが、僕はあなたに謝らないといけないのかも知れません。」
「敬史・・・。」
「どういうことですか。」
敬史は今でもはっきりと覚えている河原での出来事を包み隠さず話した。
「当時は本当に何が起きたかわからなかったのですが、今になって思うと、もしかすると僕が麗ちゃん、いや、麗さんを突き落としたのかも知れない。その事をもっと早くにあなたに伝えるべきだったと、ずーっと悔やみ続けてきました。本当に申し訳ありませんでした。」
「敬史、あなたは何もしていない。あの時、私はあなたたちを追って河原まで行ったけど、麗ちゃんは途中で帰っていったわ。だから敬史が麗ちゃんを突き落とすことは出来ないのよ。」
敬史の独白を黙って聞いていた大川が口を開いた。
「敬史さん、それは何日のことだかわかりますか。」
「え、日にちですか。確か、十一月十日だったと思いますが・・・。」
「その日じゃないですね。」
「えっ。」
「麗は十日の夜、勝手に施設を抜け出して親戚の家に顔を出しています。そして翌日に、また勝手に親戚の家からいなくなり、翌十二日に川で溺死しているのが見つかっています。ですから敬史さんが仮に麗を突き落としたのが本当だとしても、彼女は川から這い上がり、一旦、親戚の家まで行った事になります。まあ、お姉さんが麗のことを見かけたようですから、突き落としたというのも敬史さんの勘違いなんでしょうけどね。」
「大川さん・・・。」
「雑誌には月替りで旬のお味噌汁がいただけるとありましたが、また今度、食べに来てもよろしいですか。」
「え、ええ、是非ともお越しください。その節には、腕によりをかけて作らせていただきます。」
「本当に美味しい食事でした。ご馳走様でした。」
店の外で大川を見送りながら敬史は思った。
”僕は、許されたんだろうか・・・。”
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