姉四十七歳、弟四十五歳

”空”の開店十周年を記念して今は社長になった高木が関係者を集めてパーティを開いてくれた。パーティには恵美子たちは当然として、マルイチの従業員や出入りの業者、そして何よりも”空”を贔屓にしてくれている常連客までもが招待されていた。恵美子と敬史、そして今は家族となった浅野、三人には何よりも嬉しい一夜だった。


パーティが終了すると恵美子は高木に声を掛けられた。

「楽しい気分のところすまないが、少し仕事の話をさせてもらえないか。」

「え、今、ですか?」

普段、無粋なことなどしない高木だが、今の状況で仕事の事を持ち出すとはどういうことだろう。少し訝しく思いながらもティーラウンジについていった。

「川島君、いや違った浅野君か今は。突然の話で驚くかもしれないが、そろそろ次の店を開店してみてはどうかな?」

「え、次のお店ですか?それって”空”の店舗を増やすと言う事ですか?」

「いや、”空”は敬史君がいるから成り立っていると僕は思っている。その”空”の店舗を増やすと彼の目が十分に行き届かなくなってしまうので、それはあまりお勧めしない。まあ、そもそも”空”は君たちのお店だから、僕がどうのこうのと口出しできる立場でもないんだけどね。」

「”空”ではないとすると、マルイチが何か新しい事を始めるんですか?」

「相変わらず察しがいいな、君は。母親になって仕事の勘が鈍っているかと思ったけど、全然そんなことはなさそうだね。それならこの話を君に託すと言う僕の考えは、やはり間違っていないということだ。」

「どんなことを始めるんです?」

まだ何も聞いていないのに、久し振りにワクワクする感じが心の内に湧いてくるのがわかった。さっきまでのパーティで多少のお酒を飲んでいたので、そのせいもあるのかもしれないが…。

「基本的には”空”の時と同じようにアンテナショップの位置づけにしようと思っている。ターゲットは若い女性。キーワードは”健康的、野菜、果物、魚、モーニング、テイクアウトランチ、イブニングライトミール”。どうだい、少しはイメージが湧いてきそうかい?」

「たったそれだけでは…。」

「そうかい?君の表情を見ていると、君の頭の中では既に色んなことがイメージされ始めているように思えるんだけどなぁ。少しワインを飲みすぎてしまったかな。アハハ…。」

実際、恵美子の心の内では、新しいお店のイメージがぼんやりと浮かび始めていた。具体的なことはわからないが、何か楽しそうなことがいっぱい詰まったお店の中に入り込んでしまった、そんな気分だった。

「具体的な事については、一度、会社で打ち合わせをしよう。引き受けるかどうかは、もちろんそれから決めてくれればいい。ただ、この話はどうしても今日という記念する時に話すべきだと思ってね。」


家に帰って浅野に話をすると、驚きながらも笑顔で言った。

「そうかぁ、高木さんがまた何か企んでるんだね。”空”の時は恵美子たちがきっかけで成功した企画だったから、お返しのつもりなんじゃないかな。」

「でも”空”の時はすごく良くしてもらったわよ。これ以上返されたら、恐れ多くてしょうがないわ。」

「その恵美子の気持ちも高木さんには見えているのかもね。いいんじゃないか、新しいお店。やってみたら。」

「だけど、香奈のこともあるし、”空”のこともあるし…。」

「何だよ、やりたくないのかい?さっきから、”やりたいんだけどいいかしら?”って言ってるように聞こえたけど。」

「な、何よ、そんな風には言ってないでしょ。」

自分でも気付いていない気持ちを言い当てられて戸惑う恵美子に浅野が優しく言った。

「まあ、まずは高木さんの話をきちっと聞いてごらんよ。ああ見えて、あの人、結構人を驚かすのも好きだったりするから、何かどんでん返しがあるかもしれないし。」


高木との打ち合わせはマルイチ本社で行われた。打ち合わせには浅野と敬史も呼ばれたが、敬史はどうしても今日の仕込を外せないということで欠席した。

「先日は我々の為に素晴らしいパーティを開いていただきありがとうございました。」

「何だよ、やけによそよそしいな。もしかして今日の件、何か勘繰ってるのか?浅野君、この間僕が話した内容は恵美子君から聞いているんだろう?だったら決して悪い話ではないことくらい察しがつくんじゃないのか。」

機嫌を損ねたわけではないのだろうが、恵美子たち二人が警戒しているのを見抜いて、少し拗ねた振りをしているらしい。

”まったく男っていうのはいくつになっても…。”

「高木社長、勘繰るなんてとんでもないです。私たちは高木社長に支えていただいたお陰でここまで来れたと思っていますし、今日のお話にしても、きっと私たちにとって良い話だと二人で話してきたところです。」

「ああ、わかった。浅野君、君の喋りは相変わらずだね。その元気があれば今日の話もきっと上手く行くよ。」

「高木社長、具体的な内容をお願いできますか。」

「ああ、そうだった、本題に入るか。しかし、恵美子君と話すときはいつもせっつかれてる気がするな。」

高木の話は先日ホテルのラウンジで聞いた時のものとあまり代わり映えしないものだった。どうやら現時点ではまだコンセプトの段階で、具体的な形はこれから詰めて行くようだった。高木としてはその段階から恵美子に加わってもらい、マルイチの社員にはないアイデアを出してもらってこの企画を成功させようと考えていた。

「とは言え大枠は今話したように、若い女性を如何に取り込むかなんだ。その為の商品戦略・販売戦略を策定する為のアンテナショップであることだけは忘れないで欲しい。お店の形態もいくつか案が出てきている。それらの案と君たちの考えをぶつけて貰って最終決定に持って行くつもりだ。」

「私たちとは、誰のことですか。」

「恵美子君、君と君の大事な旦那様だよ。君たち夫婦で今回のプロジェクトを引っ張っていってくれないか。」

「え、私もですか、社長。」

「おいおい、何の為に君を今日ここに呼んだと思ってるんだよ。まさか奥さんの付き添いって訳じゃないだろう。相変わらず面白い男だな、君は。アハハ。」

「高木社長、新たに作ろうという商品・販売戦略はどれくらいの規模をお考えですか。それと若い女性といっても具体的にどの年代をターゲットにしているのですか。」

「おっと、油断していると恵美子君から砲撃が始まるのを忘れていた。危ない危ない。」

「砲撃だなんて、私は何者ですか?」

「はは、冗談だよ。で、さっきの質問だが、まずターゲットは二十五から三十五歳の未婚の女性。職場には実家から通い、経済面である程度の余裕があること。また、その余裕を趣味嗜好に投資できる女性を中心にしたいと考えている。と言うのも、今のマルイチの購入層の大半は三十代から五十代の主婦が圧倒的に多い。しかし、彼女たちは景気の先行きの見えない現状に対してものすごく守りに入っている。子育て中心の生活なので仕方が無い面もあるが、会社としてはあまりよろしくない状況が続いている。そこで、今の時代でもある程度お金が循環している層にターゲットを絞って、新しい販路を拡大しようと言う狙いだ。」

「ですが社長、彼女たちが使うお金は日々の食料品などを扱うスーパーではなく、レジャーや貴金属とかの嗜好品を購入する場に流れて行くのではないですか。」

「そうだ。だが、レジャーや嗜好品を購入しに行くときは、食事をするだろう?それと、バーベキューのようなレジャーであれば、食材を購入することもあるだろう?それに日々の昼食でもちょっとした工夫をするだけで大幅に売上を伸ばすケースもあり得る。」

「一時期、マスコミにも取り上げられていた移動販売とかですね。」

「そうだ。マルイチでもこういった販売戦略は既に検討し始めていて、すぐにでも巻き返しを図りたいとは思っている。ただそういったことは誰でも考えるし、既にあちこちの業者やスーパーやデパチカなどが先行している。そこで、君たちに特にお願いしたいのは、常に半歩先を見る為の仕組みを考えて欲しいんだ。今回ターゲットとする女性たちは、昔からその時代を引っ張ってきていると僕は思っている。時代によって年齢層は変わってきているし、女性たちの社会における役割等も変わってきているから、彼女たちの社会への影響の仕方も変わってきているだろう。ただ、影響を及ぼすという点では今後も続くだろうし、そこには常にビジネスのチャンスがあると考えているんだ。あとは、そこで生まれるビジネスチャンスを如何に早く察知して、自分たちの得意な分野と連携させられるかがビジネスの成否につながると僕は見ている。勿論、マルイチの本業を忘れてしまっては本末転倒なので、マルイチの主力商品と上手くコラボさせることが重要なのは言うまでも無いよな。」

恵美子は冷静に高木の夢を聞いていたが、久し振りに見るその迫力に押され、いつの間にか取り込まれてしまっていた。

「高木社長、是非とも私たちをそのプロジェクトに加えてください。どこまでお役に立てるかわかりませんが、新しい販売戦略策定のお手伝いをさせてください。」

「おいおい、そんなに簡単に決めていいのかい。”空”のことだってあるんだぞ。」

言葉とは裏腹に、妻の顔を見て惚れ直した浅野だった。


”空”に戻って敬史に話をすると、敬史は諸手を挙げて喜んだ。

「やったね、姉ちゃん。高木社長もなかなか面白そうな事を企画してくれたじゃないか。香奈も小学校に通うようになって手も掛からなくなってるし、やってみればいいじゃないか。って、もうやる気満々か。」

「高木さんの前では”やらせてください!”って言っちゃったんだけど、”空”の営業は大丈夫かな。」

「大丈夫だよ。二人が抜けるとなると多少スタッフを雇わなくちゃいけないけど、今いるメンバーもしっかりしているからね。それと、先々の事を考えたらそろそろ社員を雇ってもいいかなとも考えていたところだしね。それに何より、総料理長の敬史様がいるから一切問題ないって。だから、浅野さんと二人で、その面白そうな仕事に取り組んでごらんよ。」

「敬史君、恵美子はともかく、僕は両方の仕事に携わろうかと考えているんだ。”空”の営業は確かに敬史君とスタッフである程度漕いでいけるとは思うよ。だけど、”空”もそろそろ次のステップへ上る時期なんじゃないかとも思うんだ。具体的にはまだ考えていないけど、例えば姉妹店を出店するとかね。」

「あなた、高木社長は”空”は一店舗で集中した方がいいんじゃないかって仰ってたわよ。」

「ああ、確かにそういう考え方もあると思う。だけど、それを決めるのはやはり”空”を共同経営してきた僕たち三人だし、何よりも敬史君だと思うんだ。それに僕が言うステップアップは何も店舗を増やすことだけじゃない。漠としたものだけど、例えば今までとはまるっきり異なるメニューを売りにしてみるとか、お店自体を全面的に見直すとか、考えれば色々と出てくるんじゃないかな。」

「”空”のステップアップか…。今まで一生懸命料理を作ることばかり考えてたけど、そういう風に考えたことは無かったな。さすが浅野さん、伊達に姉ちゃんが選んだわけじゃなかったんだね。」

「こら、敬史、何てこと言うの。」

「それじゃ、恵美子は高木社長の企画に全面的に参加させてもらって、僕は恵美子の補助役に回らせて貰う。そして、”空”を更なる高みに持っていく準備を敬史君と二人で進めていく。両方ともどんな形になるのか今は全然見えないけど、絶対にいいものにしよう。」

こうして三人の忙しい日々が再び始まった。


恵美子はマルイチの本社に詰めることが多くなり、今まで検討されてきたプランニングやマルイチの現状などを一気に把握していった。高木の説明にあったように、既に新しいお店のイメージがいくつか具現化されつつあった。しかし、どの案も最後の決め手に欠けており、どうしても高木のゴーサインが出ないと、今回のプロジェクトリーダーである大槻課長がぼやいていた。

「とにかくこの年代の女性を相手に商売してこなかったマルイチだから、役員を始め、誰もピンと来ないのが現実なんだ。だから、ある程度走りながら舵取りをしていく形がいいんじゃないかと思っている。この事は高木社長にも伝えてあって、その点については社長も致し方なしとの認識なんだ。」

「私も年齢的には少し近いものの、どちらかというと遊びよりも仕事の方が好きなくちだったんですよね。だから、今回のターゲットのような女性がどんな風に考え、どんな風に行動しているのか今一つわからないんです。」

「浅野さんは仕事の出来る人だと社長から聞いています。ご主人にも以前お世話になった時に、その頃はまだ結婚前でしたが、噂は聞いていましたよ。」

「あら、どんな風に言ってたの、あの人。」

「うかうかしてたら足元掬われそうだって。頭の回転も速いし、何よりも仕事への情熱が半端じゃないって。だからこっちも全力で対峙しないと失礼に当たるって、言ってましたよ。すごく褒めてたけど、なんてことはない、その時点で既に軍門に下っていたって事ですよね。今思えば…。」

「あらあら、そんなに持ち上げられたら頑張らないわけにはいかないわね。」


この手の仕事には絶対的にスピードが重要だと恵美子は思っていた。そして、大槻が集めてきた情報の中でここ数年のトレンドの変遷をまとめたものを見たときには、その考えが当たっている事を確信した。となると、彼女たちに提供する商品のサイクルも今までのマルイチや”空”の感覚でいると、すぐに商品が陳腐化してしまい、彼女たちは見向きもしなくなるのだろう。


それと、彼女たちは情報収集能力に長けているとの調査結果があった。昔から女性たちの口コミ情報は、量もスピードも男性のそれとは比較にならないほど充実していた。更にインターネットが発達した昨今では、アナログに加えてデジタル情報も多彩に飛び交っていて、彼女たちの情報をより深く・広く・早くしていた。


これだけの情報を基にするのであれば、新しいお店のイメージを固めることはそれほど難しくないだろう。実際に大槻たちが提案している内容も、これらターゲットの特徴を踏まえた上のものになっており、そのままでもある程度の結果は出せるのではないかと思われた。


ただ、大槻たちの思考の中にはひとつ欠落しているものがあった。それは、彼女たちは良くも悪くも気まぐれであり、そして、女性であるということだった。

「浅野さん、気まぐれと言う点は僕にも何となくわかります。だけど、その後の”女性であること”ってどういうことですか?」

「うーん、大槻さん、失礼だけどあなた、女性にもてる方?」

「え~、何ですかそれ。まあ、まだ独身ですから、それなりには…。」

「だったらわかると思うんだけど、女性って子供からお年寄りまで、いくつであろうとかわいくありたいのよ。こう言うと男の人はすぐに”かわいい”というのを誤解するんだけど…。」

「”かわいい”って、例えばイメージ的に柔らかい感じがしますけど、そう言う事ですか?」

「うーん、結構いい感覚してるかも。女性はね、外見もそうだけど、言葉のやり取りだったり、さりげない出来事とか、ほんのちょっとした事にも一喜一憂する生き物なの。そして、それはどんな年代だろうと、どんな性格だろうと一緒なの。」

「それって本能とかと関係あるんですかね。」

「うーん、どうなのかな。そもそも本能なんて私にはよくわからないけど、もしかすると子供と関係してたりするのかもしれないわね。私も子供を生むまではわからなかったけど、子供って本当にかわいくて、しかも、とっても不思議な事に何考えているかがわかったりするんだよね。そういった時の感覚って、さっき言った”かわいい”と感じるのと同じ感覚なんだな、これが。」

「それじゃ、浅野さんは今度のお店を開く際に、”気まぐれ”と”かわいい”をコンセプトに加えるべきだと考えているんですか。」

「うん、どうかな、それ。」

「あとライフサイクルのスピードと充実した情報はこれまで通りでいくとして、これらを総合的に考えたお店作り、出来ないかな。」

「いいと思いますよ。早速具体案の詰めに入りましょう。今度こそ社長の驚く顔を見られそうな気がしてきましたよ。」


そういった特性を持った女性が興味を持つお店とはどういうものだろう。張り切る大槻を他所に、自分なりのイメージが湧いてこないことに少し焦りを感じ始めた恵美子だった。


浅野にも入ってもらって最終案を仕上げたのは、大槻との打ち合わせから二週間後のことだった。ラフスケッチではあるが、お店の概観や内装のイメージも描いて高木の前に持っていった。

「”気まぐれ”と”かわいい”と”ライフサイクルのスピード”と”充実した情報”か。」

「社長、”かわいい”は外見だけじゃないですよ。女性はですね、外見もそうですけど、言葉のやり取りだったり、さりげない出来事とか、ほんのちょっとした事にも一喜一憂する生き物なんです。そういった事柄すべてを捉えて”かわいい”です。」

「お、大槻、そのフレーズ、浅野君の受け売りか。」

「え、何でわかったんです。おかしいなぁ。」

「ハハハ、やっぱりそうか。何となくいつもの大槻じゃない言い回しだったからあてずっぽうで言ってみたんだが、そうか、やはり浅野君の発案か。」

「社長、あてずっぽうって、酷いですよ。それじゃ僕の立場が台無しじゃないですか。」

「アハハ、悪い悪い。まあ、しかし、このコンセプト、なかなか面白いんじゃないか。確かにターゲットとなる女性たちは情報に敏感で次から次へと新しいものに飛びつく。それに気まぐれと言うのもうなずける。だけど、彼女たちも女性であり、まずは女性の基本的な特性に着目しようと言うことだな。そうなのか、大槻。」

「あ、は、はい、そうです。ですが社長、女性をあまり前面に出すのもどうかと考えています。彼女たちは自由で行動的ではありますが、同年代には既に結婚して子育てを始めている友人・知人も数多くいて、無意識の内に女性そのものに抵抗を抱いているとの見方もあるようです。ですので今度出店する店舗は、どちらかと言うと中性的なものをイメージした内外装にしようと考えています。」

「よし、コンセプトは大体わかった。で、肝心の商品はどういったものを扱うつもりなんだ。」

「それは私から説明します。」

今まで黙って聞いていた浅野がおもむろに口を開いた。

「新しい店舗に置く商品ですが、月替りで決めていこうと考えています。」

「ん、月替り?どういうことだ。」

「はい、お店は原則、食品若しくは食材のテイクアウトを専門とします。そして、そこで販売する食品は毎月見直しを図り、出来るだけ同じものは置かないようにします。食品の種類はサンドウィッチやお弁当のようなものからお惣菜やデザートなどが主になりますが、それらはその時点で流行っている、若しくはこれから流行ると予想されるものを中心にします。そして、それらの食材を取り囲む形で様々な物を置いていきます。ただ、ここで言う”物”とは有形無形に限らず、彼女たちの琴線に触れそうなものを考えています。勿論、それらの”物”を我々だけで次から次へと捜しだすことは出来ませんので、その道に長けたスタッフを現在捜しているところです。」

「ほお、普通のテイクアウトの店ではなく、付加価値をつけようということか。それと短期間で商品の入れ替えをして、新物好きの彼女たちの気を惹こうと言うことか。何となくわかってきたぞ。しかし、毎月、新しい食品を投入していくのは結構厳しいんじゃないのか。」

浅野が恵美子の方を向き、微笑みながら先を促した。

「そうなんです。今回の企画の成否もそこにかかっていると考えています。とは言え、私たちだけでは継続的に新しいメニューを作り続けるのは難しい。かといってメニューを固定化してしまうのでは、既に展開されている他企業の店舗と差別化することが出来ない。そこで、メニューの刷新に協力してくれる企業と協業する事を考えてみました。例えば、厳選した素材を使ったおにぎり専門店”米蔵”で業績を伸ばしてきている米蔵社、オーガニック素材だけを使用したサンドウィッチで人気上昇中の”リリーおばさんのサンドウィッチ”を展開するナチュラルカントリー社などです。これらの企業は今回の企画に十分にフィットし、かつ、競合する分野も少ないと見ています。」

「マルイチだけでやるんじゃないのか?」

「ええ、これらの企業には毎月新しい商品を開発してもらい、原則、マルイチの店舗で販売する一ヶ月間は他店舗での販売を行わないようにしてもらいます。新商品の開発に当たっては、どんな材料を使うかについて情報提供をしてもらいます。それによって、マルイチで流通している食材との関係を把握することが出来ます。もちろん、彼らにとってもアンテナショップ的な役割を担うことが出来ますし、上手く展開できれば話題性をもった広告にもつながるはずです。」

「そういった企業との交渉はどうなってる?」

「まだ始めたばかりですが、先程話した二社については初回の交渉では好感触でした。」

「相変わらず、手回しがいいな。もし必要なら僕も交渉のテーブルに着くから、いつでも呼び出してくれ。」


こうして新しいお店での商品戦略がマルイチトップの決済事項として承認された。その後、協業会社として選んだ二社との交渉は順調に進み、ほぼ恵美子たちの描いたシナリオ通りの条件で折り合うことが出来た。また、食材以外の”物”を展開する為のスタッフも、高木のコネで見つけることが出来た。以前、広告会社に勤務していた時にJRのエキナカの企画にも関わったことがあって、今回の企画にはうってつけの人選だった。こうして開店の準備は着々と進み、お店の場所も本町に確保された。本町は都心ではないものの、今回の企画のターゲットとなる女性に人気のある街である。実際、リサーチ会社での調査結果でも、本町近辺には数多くの女性たちが居住していることがわかっていた。今回の企画は、彼女たちに継続的にマルイチの顧客になって貰うことがひとつの大きな目的である。であれば、スーパーという性格上、いつでも行ける範囲内に居住していることが望ましいだろうということで、最終的に本町に出店することになったのである。


開店三日前、久し振りに恵美子が”空”で敬史の作った定食を食べていた。

「姉ちゃん、いよいよ三日後だね、”花”の開店。自信の程はどうなんだい?」

「そうねえ、やれるだけのことはやったからそれなりに自信はあるんだけど…。そもそもこんなお店に入ったこと無いから、お客さんがどういう反応を示すのか想像がつかないのよね。」

「そうだよな。さっきお店の中を見せてもらったけど、正直、俺には良さが今一つわからなかったしなぁ。」

「え、そうなの?さっきは褒めてたじゃない。」

「そりゃあ、みんながいる前でそんな軽はずみなことは言えないだろう。良さがわからないって言ったけど、もう少し正確に言うと、評価できないってとこなんだから。」

「そっかぁ、そうだよね。三十前後の独身女性に気に入ってもらうように作ったお店を、四十過ぎの男性である敬史にその良さをわかれと言うほうが無理ってもんだよね。」

「でも、売れていると言うだけあって、米蔵のおにぎりもリリーおばさんのサンドウィッチも美味しかったよ。あれなら多少高くても売れると言うのは何となくわかるな。」

「へぇ、そうなんだ。私は正直言って、おにぎりやサンドウィッチは自分で作るものって固定概念があって抵抗があるんだよね。貧乏性なのかな…。」

「あはは、貧乏性って事はないでしょ。ただ、それが主婦の普通の感覚なのかもよ。そうやって考えると、高木社長の狙いは面白いところを突いていて、姉ちゃんたちの作った”花”が上手くそこを突破して行きそうな気もするね。」

「ところで、”音”は感じないの?」

「そうそう、それを言おうと思ってたんだ。実は今日お店に行った時にお店のスタッフたちが商品を並べている音が耳に入ってきてさ。ただ、それがちょっと不思議な感じなんだよね。決して嫌な音じゃないんだけど、どこかちょっと不安定で、まるで平行棒の上を歩いているような感じって言うのかな。落ちそうで落ちなくて、だけど安定しなくて…。」

「何それ、悪い予感なの?」

「う~ん、そういう感じじゃないんだよなぁ。その平行棒を上手く渡りきれれば良いことがあるぞ~、みたいな感じかな。大抵は結果の良し悪しがわかるんだけどね。今回ははっきりしなかったんだ。」

「ふ~ん、平行棒ねぇ…。私、子供の頃は大層苦手だったなぁ。」

「何言ってんだよ、そんなの全然関係ないじゃん。」


いよいよ開店当日、事前にネットを中心に情報発信していたことが功を奏したのか、客足は順調に伸びていった。郊外の住宅街に近いこともあり、ターゲットとは異なる年代や性別の客も来店した。ただ、一番多かったのは狙い通りの二十代から三十代にかけての女性たちだった。開店を週末にしたことも功を奏したのか、ランチ向けの商品を中心に買って行く客が結構多かった。そして週が明けて月曜日、店の雰囲気が一気に変わった。朝はほとんど客が来店せず、昼時には近隣の会社に勤めていると思しき人たちが中心となった。夕方以降、ちらほらと若い女性客も入ってはきたが、圧倒的に数が少なかった。この現象はその後も続き、ウィークデイの来店者はほとんどがランチ目当ての近隣の勤め人になってしまった。その結果、開店後一ヶ月の来店者の構成比は、男性客が一番で次が主婦層、肝心の若い女性は一番少ないと言う惨憺たる状況に陥ってしまったのである。

「恵美子君、これはどういうことなんだね。」

機嫌の悪さをなんとか押さえつけながら高木が聞いた。

「今、この状況の原因分析を行っています。その結果が出次第、詳細な状況の報告をさせていただきます。ただ、お客様に商品の入れ替えをなるべく早く伝えるために作成したLineグループは着実に会員数を増やしていますし、週末には狙い通りの客層が来店してくれています。この辺りに何か建て直しのヒントがあるのではないかと考えています。」


Lineグループは、二十代から三十代の女性限定で展開しており、先日来、今のお店に対するアンケートを実施しているところだった。そして、そこから浮かび上がった実情は、ちょっとした盲点であることがわかってきた。


”花”のコンセプトは積極的に活動する彼女たちに有形無形の情報を提供して、吟味してもらう事にある。彼女たちは昼間は仕事に忙殺されつつも、仕事が終わるとそこから多種多様な趣味の時間を謳歌する。その時、提供した情報が役に立てば彼女たちはその情報提供元に自然と集まってくるようになる。本町は都心から少し離れているが、会社帰りにそこで情報を収集し、翌日若しくは後日、その情報を生かすという行動パターンが出来るのではないかと考えていた。


そして、アンケートの結果から見えてきた実像は、概ねこの筋書きが正しい事を示していた。ただ、ひとつだけ恵美子たちの思惑とは違うものが見えてきた。それは”場所”だった。”花”が出店した本町には確かに若い女性が数多く住んでいる。しかし、彼女たちが”花”に置かれた類の情報を得るタイミングは、仕事が終わってから遊びを楽しむまでの短い時間帯に集中していることがわかってきた。ということは、彼女たちが情報を得たいと思った時点では彼女たちは本町ではなく、会社の近辺、即ち都心、若しくはそこからそれほど遠くないところにいるのだった。


恵美子たちはこのアンケート結果をどうみるか、関係者全員で議論を重ねた。その結果は、一刻も早く店舗を都心若しくは彼女たちが会社帰りに集まる場所に移転すべきと言うものだった。恵美子は早速高木に状況報告と店舗の移転について報告すべく、マルイチの本社に向かった。”花”が開店してから四十日目の朝、初夏の雨が霧のように降っていた。

「高木社長、私たちの読みは肝心なところで外れていました。早急に店舗の移転をさせてください。」

「恵美子君、大体の状況はわかった。ただ、これまでに投資した額を考えると、そうそう簡単に移転と言うわけにはいかないぞ。それと、君が先日も言っていたが、週末はある程度狙い通りの動きをしているのだろう?その点を考慮すると、立地条件がすべてとは言い切れないのではないか、と言う意見も出てこないとも限らない。その点についてはどう説明するんだ?」

「確かに今、移転することで掛かるコストはかなり厳しいです。しかし、”花”のコンセプトを実現するためには、週末ではなく、ウィークデイがメインなんです。そのウィークデイに彼女たちが来店しなくては、この企画はその時点で失敗だと私たちは捉えています。実際、Lineを使ったアンケートでは、”花”が会社の近くや彼女たちの遊び場の近くにあれば是非とも活用したいという回答が多く寄せられています。そして、その数値は来店者ほど値が高くなっており、”花”の情報も含めた商品戦略自体は間違っていないことがわかってきています。あとは、如何に彼女たちに来店してもらうかなんです。そして、来店してもらえる可能性の高い選択肢が店舗の移転なんです。」

「立地条件の重要性はわかった。その点は私がなんとか役員たちを説得してみよう。それで、どこに移転するつもりなんだ。場所によってはコスト面で猛反対されることも予想されるぞ。」

「銀座を考えています。」

「おいおい、恵美子君、銀座となると初期投資だけでなく運用資金も馬鹿にならないぞ。いくらアンテナショップといっても、マルイチのような中堅スーパーで賄えるコストには限度もあるしな。」

「確かにコスト高になるのはわかります。ですが社長、この企画のコンセプトを考えた場合、中途半端な立地条件では結果も中途半端なものになってしまいます。それと、コスト面では協業先である米蔵社とナチュラルカントリー社にも出資してもらうことでマルイチの負担を減らしたいと考えています。」

「商品提供だけでなく、経営面でも協業しようと言うことか。」

「ええ、両社ともこの企画にはかなり積極的ですから多分大丈夫だと思います。先日、担当者には話をしておきましたので、今日明日にでも正式に申し入れを行いたいと思います。」

「おいおい、既に手回し済みなのかい。いやあ、相変わらず君には振り回されるなぁ。」

「そんな、振り回すだなんて…。私はただ、今の状況を早急に変えなければいけないと思って行動したまでです。」

「ああ、わかってるよ。言い方が良くなかったな。ところで、新たな店舗の当てはあるのか?銀座といっても結構広いから、場所によっては”花”に向かないエリアもあるんじゃないのか。」

「お店の場所については現在、大槻さんに当たってもらっています。昨日の話しではいくつか目ぼしい物件を見つけたようでしたので、候補を絞り次第、報告させていただきます。」

高木はその日の午後に緊急の役員会を招集した。ここまで恵美子たちが走り回っているのに、役員である自分たちがのんびりしていては、せっかくのビジネスチャンスを失いかねないと考えたのである。そして、恵美子が作成した新しい企画書を全員に配布して、銀座への出店という、マルイチにとっては大きな賭けに出たのである。


役員会での激しい討議を経て企画を承認した後、高木は改めて恵美子の潜在能力に感心していた。

”これでこの企画が成功したら、彼女にはそれなりのポストを用意して、改めてマルイチに迎えるべきだな。”


”花”がオープンしてから二ヶ月も経たない時点での銀座への移転は、協業相手の役員たちをも驚かせた。しかも、商品提供だけでなく、経営についても協業して欲しいとの申し入れがあり、一体どうなっているんだと訝る役員もいたほどだった。それでも恵美子たちの作成した企画書に目を通した後は、これといった目立った抵抗も無く、両社の役員会で承認され、”花”の銀座進出が決定した。そして、大槻が探し出してきた物件は、銀座一丁目の柳が揺れる通りに面していた。駅からは若干離れているものの、新しい情報やライトミールの新メニューが手に入るのであれば、彼女たちはきっと来店するだろう。早速内装工事に取り掛かり、あっという間にリニューアルオープンの日を迎えた。


場所柄、彼女たちが来店するのは主に平日の昼食時と夕方だろうと予想した恵美子たちは、オープンを水曜日の十一時とした。事前にLineやツィッターでオープンの告知を行って集客力アップを図ることは勿論、本町を中心とした地域に配布しているマルイチの広告や、米蔵及びリリーさんのサンドウィッチの各店舗でも”花”のリニューアルオープンを案内した。こうして、銀座に集まる女性たちに”花”の存在を知らしめることが最初の重要なステップだと考えたのである。


恵美子たちの読みは見事に当たった。オープン当日、開店と同時に客がどんどんと入り、十二時前には混雑でレジに列が出来てしまうほどの盛況となった。恵美子が店内を周ってみると、そこかしこで女性客の喜ぶ声が聞こえてきた。どうやら”花”の船出は彼女たちの琴線に触れることが出来たらしい。


その日の夕方、別件でオープニングに参加できなかった高木が来店した。

「どうやら先行き好調なようじゃないか。」

「あ、高木社長。お蔭様で昼間の営業はまずまずのスタートでした。」

「で、夕方の入りはどうなんだ?」

「まだ定時になっていない会社も数多くあるでしょうから何ともいえませんが、少し前からちらほらお客様がいらっしゃってますので、期待は出来るのではないかと思います。」

その時、三十前後と思しき女性の二人連れが来店した。どうやら米蔵のおにぎりとリリーさんのサンドウィッチを買おうとしているらしい。するとそこへ高木が近づいていって二人に声をかけた。

「いらっしゃいませ。これからどちらかへお出かけですか?」

「ええ、新作の映画が上映されるので二人で観に行こうかと。」

「それで、おにぎりとサンドウィッチと言うわけですね。ありがとうございます。当店のメニューは他店にはない最新作ばかりですので、是非とも、今後ともよろしくお願い致します。」


その後も客足が途切れることはなく、オープン初日としてはまずまずの感触だった。そして、翌日以降も昼食時と夕方を中心に順調に集客数を伸ばしていった。さすがに週末の集客は減ると予想していたが、昼前から夕方にかけて、絶え間なく来店する客は、その大半がターゲットである若い女性たちだった。後でわかったことだが、LINEや広告などで”花”のオープンを知りながら、勤め先が銀座から少し離れている女性たちが、週末に銀座で映画やショッピングの合間に立ち寄るケースが多かったのである。こうして”花”の銀座進出は順調な出だしとなり、ある面、賭けに出た恵美子たちの面目は何とか保たれたのだった。


「姉ちゃん、”花”の評判随分と良いみたいじゃない。さすが、高木社長の秘蔵っ子だけのことはあるね。」

「何ちゃかしてんのよ。だけど、正直言ってここまで上手くいくとは思いもよらなかったわ。本町で開店して閑古鳥が鳴いた時には”もうやめたい!”って思ったくらいだもの。」

「ふーん、いきなり銀座への移転だなんて大胆な発想をした人の発言とは思えないね。」

「そりゃ、あの時はもう必死に考えたもの。ここで駄目にしたらここまで頑張ってきてくれた人たちに合わせる顔が無いってね。それにあの時、一緒にやってたみんなが、誰一人として負けてなかったのよね。」

「負けてなかった?どういうこと?」

「何ていうのかな、”絶対に成功させるぞ!”みたいな意気込みって言うのかな。もう、絶体絶命に近いとんでもない状況なのに、みんなそんなことを露ほども感じさせない勢いなのよね。そんなものが関係者全員から発せられてたら、ひとり、へこんでる訳にはいかないじゃない。だから今回の成功は関係者全員でつかんだものだっていう思いが本当に強いわね。」

「ふーん、いいメンバに恵まれたんだね。」

「そうね。今回は米蔵とかナチュラルカントリーとか社外の関係者も多かったから、チームをまとめるのも重要なポイントの一つだと思っていたけど、何てこと無い、勝手にまとまったって感じだったからね。そこで余計な気を使わずに済んだのは本当に助かったわ。」

「きっと姉ちゃんが一生懸命生きてきたのを神様が見ていて、ご褒美をくれたんじゃないかな。これからは”花”を通して色んな人たちに恩返ししていく番だね。」

「そうね。敬史は”空”で、私は”花”で、出来る範囲で少しずつ恩返ししていかなくちゃね。」


”花”がオープンしてから三ヶ月、集客数は安定した数字を残し、LINEや店頭でのアンケートによる情報収集も着実に実を結びつつあった。米蔵やリリーおばさんのサンドウィッチで出す新しいメニューにも様々な情報が寄せられ、それらの情報を各社の企画担当者や仕入れ担当者が自社の商品戦略に反映させるというスパイラルも出来つつあった。そんな折、高木からの呼び出しがあった。恵美子は”花”のことだと思ったが、珍しく敬史も一緒に声を掛けられており、何のことかわからずに高木の待つマルイチ本社に足を運んだ。

「敬史君、久し振りだね。”空”の方はどうだい?」

「ええ、お蔭様で順調にお客様に来店していただいています。社長もたまには顔出してくださいよ。スペシャルメニューをご馳走しますから。」

「そうだね、”空”の定食は美味しいだけじゃなくて食べていて気持ちが落ち着くんだよな。何ていうのかな、どこか懐かしい感じとでも言うのかな。」

「そう言っていただけると本当に嬉しいです。ところで社長、今日はどんな用件なんですか。”花”にはタッチしていない僕まで呼ばれるって、何だか怖いんですけど。」

「おいおい、それじゃ僕がとんでもない奴みたいじゃないか。まったく君たち二人には本当に敵わないな。今からでも遅くないから二人ともうちの社員にならないか。」

「社長・・・。」

「ああ、わかったよ、そんな顔するなよ。敬史君に続いて恵美子君にまで突っ込まれたらこっちの身が持たん。今日の用件を話させてくれよ。」

苦笑する高木の顔を見て、恵美子と敬史は顔を見合わせて笑った。

「二人ともわかっているように、”花”は当初の目的を確実に達成しつつある。役員によっては予想以上のスピードで成果が出ていることに驚いて、逆に警戒している者がいるくらいだ。ただ、”花”が相手にしている彼女たちは、普段我々が考える程度のことではなかなか納得してくれない。そこでだ、”花”の今の戦略はそのままに次の手を打って出ようと考えている。敬史君、”空”の姉妹店を”花”の中に開店してみないか。」

「え、”空”をですか。」

「社長、社長は以前、”空”は一店舗に集中すべきだと仰ってませんでしたっけ。」

「ああ、確かに言ったし今でもそう考えてる。だから今回の話は”空”という定食屋を出店するのではなく、”空”の味を”花”という店舗を通して彼女たちに伝えてみようというものなんだ。」

「”空”の味を”花”を通して伝える。具体的にはどういうことなんですか。」

「そもそも”花”はイートインでは無くてテイクアウト専門の店だ。そこで”空”の味を伝えようとしたら弁当という形になると思う。だが、”空”の今のメニューをそのまま弁当にして上手く行くとは考えていない。それどころか、下手をすると”空”の評判を落としてしまう危険性もあるのではないかと思っている。」

「確かに料理の美味しいお店のお弁当が今ひとつってことありますね。それに”空”の料理を弁当で売ることは考えたことも無かったので、今の料理をそのまま弁当にしたらどうなるんだろう・・・。」

「実は僕もこの企画が正しいのかどうか判断しかねている。だからこそ敬史君に来てもらったんだが・・・。敬史君、”空”の姉妹店を”花”の中に開店するに当たって調べて欲しいことがあるんだ。”空”の味を弁当として提供出来るか試してみてもらえないか。料理の事については僕は素人だ。ただ、調理したものをその場で提供する料理と、弁当のように時間を置いてから食べる料理とでは、作り方も素材の選び方も違うんじゃないかと思ってる。そこで、今の”空”の味を”空”のコンセプトは変えずに弁当として提供出来るかどうか調べて欲しいんだ。」

「”花”で売る”空”の弁当ですか。」

「当然の事ながら、”花”のコンセプトを変えるつもりは無いから、弁当の内容は毎月のように変化、いや進化して行く必要がある。しかし、この点は”空”のコンセプトにはとても合わせ難いと僕は思っている。もともと”空”はいつでも変わらず安心して美味しいものが食べられるお店だ。一方、”花”は短期間で次から次へと新しい情報や物を提供して行くお店だ。この違いは、素人目には相反する内容に思えて仕方がないんだ。だから敬史君、プロの目で実現の可能性を判断してくれないか。」

「社長、そんなに難しい判断が必要な企画をどうして僕たちに委ねたりするんですか。」

「僕にとっては”空”も”花”もとても大事なお店だ。そして両店ともありがたいことにお客様に受け入れられている。そんな二つのお店を融合することが出来たら、それこそとても素晴らしい形になるんじゃないかと考えてみたんだ。そして、融合するためには君たち二人の感性がひとつになる必要があると、そう思ったわけなんだ。」

「”空”と”花”の融合・・・。」

「そうは言っても、さっきも言ったように、この企画の一番難しいところは”空”と”花”のコンセプトの相反すると思われる点をどうクリアするかなんだ。”花”のコンセプトは君も恵美子君たちから聞いて知っているとは思うが、実際に”花”を切り盛りしている恵美子君にも助言を受けて、二人でこの企画が上手くいくかどうかを検討して欲しいんだ。」


高木の突拍子も無い提案に戸惑う二人、道すがら交わす言葉も少なく、結局、浅野を交えて相談しなおす事にして一旦別れた。家に帰ると敬史はソファに横になって高木の言葉を反芻してみた。

””空”と”花”を融合することが出来たら素晴らしいと思わないか。”

””空”のコンセプトはそのままで、進化し続けて欲しい。”


高木の発案は確かに魅力的だ。ただ、彼自身が言っていたように、そこにはとても高いハードルがある。”空”の今の味を弁当という形に変えて提供することは多分どうにかなるだろう。しかし、米蔵やリリーおばさんのサンドウィッチのように毎月、新しい味を出していくことが可能なのだろうか。それに、そもそもそういった形で次から次へと新しい味を提供していくことが、果たして”空”のコンセプトにマッチするのだろうか。”空”はなんと言っても定食屋である。定食屋で提供するのは毎日食べる食事であり、自ずとメニューもスタンダードなものが中心となる。確かに若い女性向けのメニューとして品数を増やした小鉢料理も提供しているが、メインのおかずはスタンダードなものが中心である。そんな”空”が”花”のコンセプトにあった料理を提供することが出来るのだろうか。


その晩、浅野を交えて三人で話をしたものの、これといった妙案は出てこなかった。浅野も恵美子も敬史が考えたこととほぼ同様の意見だった。


それから二週間、敬史はまず始めに”空”の料理を弁当として提供できるかどうかを試行してみた。弁当として提供する為、”ある程度時間が経って、冷めてから食べる”ことを前提に考えてみた。その結果、味付けや食材を限定すればそれほど味のレベルを落とさず提供できる見通しがついた。しかし、毎月、新しいメニューを提供する事については何ら考えが浮かんでこなかった。


ある日、恵美子が香奈を連れて”空”にやってきた。

「あれ、珍しいな。香奈がうちに来るなんて。」

「お母さんが、”敬史おじさんが悩んでるから元気付けてあげて”って言うからわざわざ来て上げたのに、そんなこと言うと帰っちゃうよ。」

「ああ、悪い悪い。せっかく来たんだからうちの自慢の定食を味わっていってくれよ。」

「それじゃ私、さば味噌定食。お味噌汁は筍がいいな。おじさん、筍のお味噌汁ある?」

「え、筍かい。まだ旬には少し早いなぁ。今日は豆腐と大根のお味噌汁で勘弁してくれないか。」

「そっかぁ、今度来る時は筍のお味噌汁にしてね。」

「ああ、わかったよ。筍の時期になったら作っておくよ。」


香奈が帰って、ランチタイムの客もほぼ引けた頃、さっきの香奈との会話が敬史の脳裏に甦った。

”筍のお味噌汁がいいな。”

”筍の時期になったら作っておくよ。”

筍の時期、旬、四季折々の食材・・・。


一週間後、敬史は高木への答えを聞いてもらうべく、浅野と恵美子に会いにいった。

「旬の食材を使ったお味噌汁を提供したらどうかな。」

「旬の食材?」

「そう、例えば筍とか、菜の花とか、浅利とか。あくまでも”空”は定食屋だから普段手に入らないような凝った食材を使うのは似合わない。だけど、日本には四季があって、昔から旬の食材を日々の食事に取り込んで来たよね。そういった食材を使ったお味噌汁であれば、毎月のように新しいメニューとして提供することが出来る。」

「それ良いかもね。確かに昔は旬のものを取り入れて日々の食事が作られていたけど、最近は色々な技術が進歩したせいか、旬をあまり意識しなくなってるから、かえって新鮮に感じるかも知れない。」

「だけど、旬の素材を使ったお味噌汁ってどれくらいあるんだろう。それと、”花”で提供した後に”空”で提供しようとすると時期外れになってしまうこともあるんじゃないかな。」

「そうなんです。提供する時期は多少ずらすことは出来るかもしれないけど、”花”も”空”も同じ、若しくは時期が被るようにしないと難しい。ただ、この点は米蔵とかリリーさんのサンドウィッチと違って店舗がひとつしかないから高木社長も納得してくれるんじゃないかと思うんだけど、駄目かな。」

「食材の種類はどうなの?あまり少ないと短期間の企画にしないといけないかもしれないわ。」

「その点は大丈夫だと思う。まだ詳しく調べてはいないけど、日本は北から南まで地域毎に異なる食材があるし、同じ食材でも違う食べ方をすることが多い。だから、色んなバリエーションが考えられると思うんだ。そもそも、”空”の味付けは関東風だから、例えば北海道や九州の素材や味付けのお味噌汁を出すだけでも新メニューになるよ。」

「そうか、うん、そうだね。これなら上手くいくんじゃない。もう少し、具体的なプランにして高木社長に説明しましょうよ。あなた、高木社長とのアポ、お願いね。敬史、具体的な素材や調理法、あと提供する時期をまとめて頂戴。さあ、また忙しくなるわよ。」


「うーん、旬の味噌汁かぁ。確かにスタンダードをベースとする”空”の領域だし、季節毎の素材や調理法を取り入れていくという変化は”花”の情報発信の仕方にもマッチしている。ただ、少し気になる点があるな。」

「気になる点ですか?もしかしてそれは米蔵との競合のことですか。」

「なんだ、既に対策済みかい。で、どうやって競合を解消しようとしてるんだ?」

「まだ担当者レベルでの話ですが、相乗りしようと考えています。」

「相乗り?米蔵と”空”がか?」

「ええ、”花”で提供する米蔵のおにぎりには”空”のお味噌汁を合わせる。そして”空”のお弁当のご飯を米蔵のおにぎりに替えられるようにする。もともと米蔵のお味噌汁はおにぎりを引き立たせるために用意されているメニューですから、それほど執着はしていないそうです。それよりも、”空”の料理やお味噌汁が客に受け入れられて、そこに米蔵のおにぎりをあわせることで相乗効果が生まれるのであれば、願ったり敵ったりだと担当者は言ってました。」

「そうか。あとは味噌汁だけでいいのか、という点だな。」

「料理も”花”で提供すると言う考え方ですね。」

「ああ、そうだ。確かに旬の素材を使ったお味噌汁と言うのは受け入れられると思うよ。だけど”空”のメインは定食であり、おかずなんじゃないのか。旬の素材を使うと言うのであれば、メインであるおかずでも同じ様な事が出来るんじゃないのか。」

「その点も考えてみました。確かに、旬の素材を各地方の調理法で考えれば目先の新鮮さを提供することは出来ると思います。ただ、”空”が提供するのはあくまでも毎日食べて飽きの来ない定食です。定食とは言い換えてみれば家で食べる食事だと僕は思っています。そういった料理に目先の新鮮さをお客さんが望むだろうか。正直、この点の答えがまだ出ていません。もしかするとお味噌汁でも”空”のお客さんたちは浮気をしないかも知れない。常連さんたちは皆、”空”に好意的なので最初は注文してくれるかもしれませんが、二回三回と続いたときにどういう反応を示すのか。正直言って、少し怖い気持ちが未だに残っています。」

「そうだな、言われてみると”空”に望むものは食べて気持ちがほっとする食事だよな。そういった食事をする時に、食べ慣れない料理は注文しないもんな。ただ、季節を感じる食べ物は日本人にとっては、いつでも懐かしさや安らぎを感じさせてくれる。だから、日々食べる食事の中に少しだけ旬を感じようと言うわけか。」

腕組みをして目を閉じた高木、しばらく黙考した後に二人の目を見て言った。

「旬の味噌汁、やってみようじゃないか。旬の味噌汁で、”空”と”花”の融合に挑戦してみようじゃないか。恵美子君、敬史君、すぐに取り掛かって見てくれ。」


四月、”花”の一角に”空”のスペースが展開され、”旬のお味噌汁”と”空の弁当”が提供されるようになった。第一弾として採用された旬の素材は、奇しくもこの企画のきっかけになった、香奈が望んだ”筍のお味噌汁”だった。既に米蔵とリリーおばさんのサンドウィッチで客足が順調だったこともあり、”空”の提供した食材もすぐにターゲットである彼女たちの審判を受ける事になった。結果はすぐに口コミで広まり、週末には本町に住む彼女たちが、”空”に定食を食べに来るという思い描いた通りの結果となっていった。


一方、”旬のお味噌汁”を提供し始めた店舗では、思いのほか常連客に好評で、敬史の心配を他所に、毎回のように旬のお味噌汁を注文する客の方が多くなっていった。ある時、敬史が常連客の一人に聞いてみた。

「”空”の定食は、味噌汁を含め、美味しいし毎日食べていても飽きないよ。ただ、旬のものがあるとなんとなく手が出ちゃうんだよな。うちは子供の頃、決して裕福ではなかったけど、母親が旬のものは欠かさなかったんだよ。で、旬の食材を買ってくると二~三日は、多少の形は変わるものの、同じような料理が続くんだ。当時はまたかよ、なんてぶつぶつ言いながら食べたもんだけど、今になるとそういった旬の食材が懐かしいと言うか、無意識の内に欲してしまうようなとこがあるみたいなんだよね。」


”花”の好調はその後も続き、噂を聞きつけた雑誌社から取材の申し込みが入ることもあった。ある雑誌は、やはり三十歳前後の女性をターゲットとしており、読者から”花”のLINEグループのことを知り、取材に来たと言っていた。そして、マスメディアに取り上げられた”花”には今まで以上の客が来店するようになり、その影響は”空”にも波及していった。


ある日、マルイチの役員会議で”花”の今後が議題の一つとして取り上げられた。マルイチは当初、”花”を期間限定のアンテナショップとして運営する事にしていた。ところが、今の”花”の状況はアンテナショップとしてのみならず、採算面でも十分に利益をあげるビジネスになっていた。また、直接マルイチの利益とはならないものの、”空”や米蔵社、ナチュラルカントリー社での売上貢献も無視しかねる額になってきていた。このような状況の中、いつまで”花”を存続させるか、また、協業関係にある各社との関係をどうしていくか、すぐにはなかなか答えを出すことが出来ずにいた。それでも役員の大半は、継続する事に前向きであり、引き続きビジネスの状況を注視していくことで会議は終了した。


こうして姉弟の恩返しは、恵美子が”花”を通して、敬史が”空”を通して続けて行くことが出来ることになったのである。

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