姉四十三歳、弟四十一歳
新生”空”の経営はその後も順調で、着実に常連客を増やしていった。そして三人の城が確立されてから三年後、城に新しいヒロインが住むようになった。恵美子と浅野が結婚して娘が誕生したのである。
「香奈、ボール遊びしようか?」
「うん」
店が休みの日、四歳になった姪と遊ぶことが敬史の楽しみになっていた。まだ小さい姪は、ボールを投げることも受け取ることもなかなか上手く出来ないが、ふとした瞬間にバスケットのチェストパスのような仕種をすることがあった。そのかわいい仕種を見ているうちに、あきらめざるを得なかったバスケットへの情熱が、心の奥底に沈めておいた情熱が、急激に浮上して氷解してくるのがわかった。
”バスケットがしたい!”
事故で傷ついた脚は全快することは無く、今でも引きずるようにして歩くのが精一杯だった。それでも、障害者スポーツが普及したこともあり、健常者でなくともスポーツを楽しむ環境が大分整いつつあった。特にバスケットは車椅子バスケットが盛んであり、調べてみると敬史たちの住む町にも小さな車椅子バスケットのチームがあった。店が休みの日、姪の香奈を連れてチームの練習を見に行く事にした。練習場所は意外にも近くの中学校の体育館が使われていて、校門の側にいたその学校の先生に聞いたところ自由に見学してくれとのことだった。
体育館では十名ほどの選手が車椅子に乗ってバスケットの練習をしていた。お世辞にも上手いと思われる選手はいなかったが、皆、楽しそうにボールを投げ、追い、シュートを放っていた。コートの端に立って指示を出していた男が敬史たちに気づいて近づいてきた。
「車椅子バスケットに興味がおありですか?」
敬史と同い年くらいか、陽に焼けた笑顔で話しかけてきた。
「ええ、若い頃に少しバスケットをやっていたのですが、脚の怪我をしてからは出来ないものと諦めていたんです。」
「そうですか。それは残念でしたね。でも、今は彼らのように多少の障害があっても車椅子を使ってバスケットをすることが出来ますよ。うちのチームは決して強くないけど、皆、バスケットが大好きで、いつも楽しくやってます。もしよかったら少しやってみますか?」
「え、出来るんですか?今、この場で。」
「ええ、チームで予備の車椅子を持っていますから、体験する程度であればいつでも出来ますよ。」
まさかいきなり車椅子に乗ってバスケットをやるとは思いもしなかったが、目の前にあるバスケットゴールが眩しくて、気が付いたら車椅子に乗ってバスケットボールを投げていた。
香奈が一緒だったこともあり、体験したのはほんの十分ほどだった。それでも、自分が若い頃に経験したバスケットとは全然違う体の動きに戸惑いを感じたものの、久し振りに感じるバスケットボールの重みが敬史の心に小さな灯を点した。
翌週には正式にチームの一員となり、熱心に練習をした。しかし、慣れない車椅子に乗っているせいかパスやシュートの精度は低く、また、車椅子を上手く操れないもどかしさも募り、歯痒さばかりが先に立ってしまっていた。そして何よりも車椅子ではジャンプ出来ないという当たり前の制約に戸惑いを感じていた。二十年以上も前に身に付けた技術は未だに刷り込まれたままなのか、パスを投げる時やブロックをする時についついジャンプしようとしてしまい、ミスを繰り返していた。
”何で上手く出来ないんだ。何故たったひとつのパスが投げられないんだ。”
焦れば焦るほど敬史のパスは相手に届かなかった。
あまりに上手くいかない事に悩んでいたとき、姪の香奈がボール遊びをしようと誘ってきた。いつものように庭に出て相手をしてやると、相変わらずちゃんと投げられないボールはあっちに転がり、こっちに転がっていった。ところが香奈は飽きることなくボールを追いかけ、”きゃっきゃっ”とはしゃぎ、楽しんでいた。その姿を目で追っているうちに、自分がまったくもってつまらない事に悩んでいる事に気づいた。
”走れなければ歩けばいい、跳べないなら跳ばずにプレーすればいいんだ。ボールに触れて、パスをして、シュートをして、どんな形でもいいじゃないか。バスケットが楽しめるのなら。”
敬史は初心に帰って車椅子バスケットを学び始めた。そして車椅子バスケットならではの体の使い方や技術を次々と覚えていった。元々プロ候補と言われる程の逸材だっただけに、バスケットの基礎技術はまるっきり問題が無い。あとは、その技術を如何に車椅子バスケットのそれにフィットさせていくかがポイントだった。しかしそれも、車椅子バスケットの特性を理解した敬史にとってはあまり苦にせず身につける事が出来たのである。
車椅子バスケットは個々のメンバの障害の度合いが異なる。そして障害の部位や度合いによっては技術の得手不得手がある程度決まってくる。そのことはどのチームでもわかっている為、そういった技術の強化が各選手のトレーニングポイントとなる。反面、そういった技術が十分に強化できていない場合には狙われることもある。敬史が所属したチーム”ブルズ”はどちらかというと愛好会的な側面を持っていた。一応、大会にもエントリーするが、勝負に拘るというよりもバスケットを楽しむ感覚の方が強かった。そういったチームなので、大会ではいつも初戦敗退をしているとコーチの和久井が笑って話していた。
「みんな本当にバスケットが好きなんだよね。だから車椅子に乗ってでもバスケットに興じている。勿論上手くなりたい思いもあるんだろうけど、明るく楽しくがモットーなんだそうだ。」
和久井がコーチになったのは今年に入ってからなので、どういう経緯で今のような雰囲気になったかは知らないらしい。
「ただ、最近気付いたことなんだけど、端から出来ないと諦めてる節もあるんだよね。例えばパス練習の最中、あと少し頑張ればキャッチ出来るのにすぐに諦めてしまうとかね。彼らなら頑張れそうなレベルだと思うんだけど、そこで頑張ると、また次で頑張る事になる。それを繰り返して強くなっていくことは彼らも知ってると思うんだけど、繰り返していくためには心身ともに厳しいものがあることも知ってるんだろうね。だから、その少しの頑張りをしないで諦めているのかな、なんて考えてしまうことがあるよ。ハンデのある彼らにとって厳しい毎日を乗り越えるのはかなり高いハードルだから仕方ないんだろうけどね。もしかすると本当は強くなって試合で勝ちたいと言う思いがあるのかもしれない。」
練習を重ねていくうちに、和久井コーチの指摘が正しい事に気づいた。彼らはやっぱりもっと強くなりたいのだ。パスを受け損ねてしまった時、ブロックをかわされてシュートを決められてしまった時、そんな時に垣間見せる表情は悔しさでいっぱいだった。次の瞬間には笑顔に戻っているが、どれほどの悔しさを内に秘めているかはバスケットが好きな人間であれば容易に想像がつく。しかし、自分が頑張った時に周りの仲間に負担をかける事にならないか、とか、頑張り過ぎて怪我をしたらまた家族に迷惑を掛けてしまうのではないか、とか自分の周りの人への気遣いから躊躇しているのである。敬史は普段は車椅子ではないが、彼らのそういった思いは痛いほどよくわかる。自分はバスケットを選ぶことで姉や周りの人たちに多大な迷惑や負担を掛けてきた。たまたま定食屋を開くことが出来て多少は恩返しが出来るようにはなったが、ここで無理をして怪我でもしようものなら、また姉たちに迷惑を掛けてしまう。そう思うとどこまで頑張っていいのかわからなくなってしまうのだった。
香奈といつものようにボール遊びをしていた時、遊び疲れた香奈が縁側に腰掛け、アニメの歌を口ずさみ始めた。
「ラララ、ラ~、ララ、ラ、ラ~、…」
このところあまり感じなくなっていた音だった。ただ、今回聞こえてきたのは、迷いとか厳しさを感じさせる音だった。良くないことが起きるのだろうか、不安が敬史の頭をよぎった。
「ラララ、ラ~、ララ、ラ、ラ~、…」
香奈はそこしか覚えていないのか、同じフレーズを何度も繰り返し口ずさんでいた。その表情を見ていると、つい今しがたに感じた不安がさらさらと溶けていき、微笑ましさに心が安らいでいくのがわかった。
ある日、敬史がいつものように中学校の体育館での練習に行ってみると、皆が集まって何やらざわついた雰囲気を醸し出していた。誰かが敬史の事に気づくと、それまでの会話が一気に止み気まずそうに敬史の顔を窺うようにして和久井が口を開いた。
「川島君って、高校の頃にプロからスカウトを受けた例の川島選手なんだって?」
「え、ええ。」
「道理で上手い訳だ。だけど、何だってこんな弱小チームに入ったんだい?」
チームで最年長の栗田が少し言いづらそうに聞いてきた。
「弱小チームだなんて…。僕はただバスケットが楽しみたくなって、そしたらここで車椅子のチームが練習している事を聞いて…。昔やってたことは別に隠すつもりは無かったんですが…。」
「こんなチームじゃ大会に出てもまるっきり勝てない。君みたいな技術を持ってたら面白くないんじゃないか?」
「そんな…。僕は二十年振りにバスケットが出来たことにとても満足しています。皆さんとの練習も本当に楽しいし、車椅子バスケットにしかない技術も少しずつ出来るようになってきて、それはまた新しい発見でわくわくしてますよ。皆さんだって同じなんじゃないんですか。」
「そりゃぁバスケットは好きだよ。車椅子なら僕らのように障害を持っていても楽しめるしね。だけど、試合となったら話は別なんじゃないかな。僕らのように下手糞の集まりだって、本心では勝ちたいと思っているくらいだから、君みたいに高いレベルの技術を持っていたら尚更なんじゃないのかい?」
「試合になったら勝ちたいとは思いますよ。それってスポーツをやる人なら普通の感覚ですよね。そういった意味では、出来ることなら僕はブルズで勝ちたいと思っています。ただ、皆さんには皆さんの事情があるし、僕自身もバスケットにどこまでのめり込んでいいのか悩んでいます。学生の頃、バスケット中心の生活をしてどれほど周りに迷惑を掛けたことか。その事を考えると、今、バスケットをやること自体もどうなんだろうかと考えてしまうことがあります。それに、このチームのモットーである”明るく楽しく”を念頭に置きながら試合に勝ちに行こうとすると矛盾する点が出てくるのも事実です。正直なところ、試合に勝ちにいきたい気持ちと、バスケットを楽しむだけでいいやという思いと、バスケットをやっていいのか、どれが自分の気持ちなのかわからなくなってる面があります。」
「そうか、君も色々と抱えているんだね。僕らからするとあの時の事故はとてもセンセーショナルだった。日本人としてNBAでの活躍を期待していただけに、すごく残念に思えたけど、何よりも辛かったのは事故にあった当人である君だもんな。」
「過去のことはもう言わないでください。さすがにこれだけの年月を経ると記憶も曖昧になってきますし、今はブルズでのバスケットが一番楽しいんですから。」
「わかった。変な事を言ってしまって申し訳なかったね。」
「いえ、そんなことないです。僕も皆さんに話をしてすっきりしました。さあ、練習始めましょうよ。」
急に照れくさくなった敬史がボールを取りに行こうとしたところ、和久井コーチの声が背中越しに聞こえてきた。
「みんなで一年間頑張って見ませんか?」
振り向いた敬史と他のメンバを見回しながら和久井が続けた。
「一年間、一生懸命練習をして地区大会で優勝を目指してみませんか。勿論、みなさんにはそれぞれ事情があるでしょうから、各人が出来る範囲で試合に勝つ為の練習をする。そして地区大会で優勝できたらブルズの活動方針を見直す。負けたらこれまで通りの方針で”明るく楽しく”をモットーに活動していく。どうですか?」
笑顔を浮かべる和久井に釣られるように、メンバー全員の表情が柔らかくなった。
「そのかわり、やるとなったらその範囲内で徹底的にやりますから、きちんと覚悟してくださいね。」
翌週から試合に勝つ為の練習が始まった。練習はこれまでのものとは打って変わり、練習中の雰囲気も一変した。今までは練習時間の最中、あちこちで笑顔が見られ、笑い声が絶えなかったブルズだった。それが、笑い声の代わりに車椅子のぶつかる音が体育館に響き、パスのやり取りなどで発する声が激しい口調のものに変わっていた。そして、時には車椅子同士がぶつかり、倒れて選手が床に投げ出されるようなシーンも見られるようになった。和久井と敬史は少しやり過ぎかと心配したが、選手の顔つきは今までになく生き生きとしていた。
強化練習を始めてから二ヶ月後、和久井が練習試合の相手を探し出してきた。相手は同じ地区に属するチームで、ここ三年間で準優勝二回という強豪チームだった。チームの名前を聞くや否や、最年長の栗田が驚いた表情で叫んだ。
「えぇ、そんな強いチームとやるのかい。ハードル高すぎるんじゃないか?」
「大丈夫です。この二ヶ月間の皆さんの練習を見てきた僕が言うんだから信じて戦ってみてください。きっと勝てますよ。」
和久井が如何にも余裕がありそうな顔つきで、ニヤリと笑いながら全員の顔を見回した。
敬史はこの練習試合の前に和久井と相談し、敢えて強いチームを対戦相手に選ぶ事を決めた。一年後の地区大会で優勝する為には技術的なレベルアップもさることながら、精神面の強化が必須だった。ブルズは今まで出ると負けの弱小チームだったため、試合前から気持ちで負けてしまう悪い癖が染み付いている。そんなチームが試合に勝つためには、まずはこの癖を取り除かなければならない。それを同じレベルのチームとの練習試合で成そうとするには時間が足りないと判断したのである。今回の練習試合で勝利を得ることは高いハードルかも知れないが、負けても構わないから、気持ち負けしないで試合に臨めるかどうかを試してみようと和久井と決めたのである。
練習試合当日、いつになくみんなが緊張しているのがわかった。しかし、そこには”負けてもしょうがない”というあきらめの表情ではなく、”やってやるぞ!”という意気込みを感じさせる表情があった。
「和久井さん、もしかしたら…。」
「川島君、頼みますよ。みんなを引っ張ってくださいね。」
試合が始まると敬史を中心としたパスワークが思いのほかスムースに通り、シュートも次々に決まっていった。相手チームはこれまでにもブルズと対戦したことがあり、その変身振りにあきらかに戸惑っていた。それでも敬史のことは事前に情報を得ていたらしく、試合開始早々から厳しいマークがついた。ただ、その分、ブルズの他のメンバへのプレッシャーが弱くなり、その間隙を縫ってみんなが次々とチャンスを作り、次々とシュートを放っていったのである。
今までは開始早々に大差をつけられ、これといったチャンスも無いまま試合終了を迎えていたが、この試合ではハーフを二点リードで折り返すことが出来た。
「おいおい、どうなっちゃってるんだよ。万年最下位のブルズがリードしちゃってるよ。何だよ、和久井マジックか?」
「栗田さん、マジックなんかじゃないですよ。みんなが一生懸命、練習に取り組んだ結果ですよ。さあ、後半もこの調子で行きましょう!!」
後半も試合は接戦となった。相手チームのコーチや選手も、今までのブルズとは違う事を認めて戦略を練り直してきた。それでもブルズのメンバは必死にボールを追った。車椅子が激しくぶつかり、時には転倒しながらも必死でボールを追った。そしてゲーム終了間際、一点ビハインドのブルズが最後のパスを敬史につなぎ、敬史がシュートを放つと同時にタイムアップとなった。放たれたボールはバックボードに跳ね返され、ゴールリングに当たって弾んだ。全員の視線が集中する中、弾んだボールはゆっくりと落下してリングの内側を通過した。
「うぉぉぉ~!!」
誰とも無く叫び声があがった。新生ブルズが記念すべき初勝利を勝ち取った瞬間だった。
初勝利に気をよくしたメンバは、今まで以上に張り切って練習に取り組んだ。その意気込みに応えようとして和久井も次々と練習試合を組んでいった。ところが、初勝利以降の試合では善戦はするもののなかなか勝利することが出来なかった。メンバの力量は明らかに高まっているし、対戦相手との戦力差がそれほどでもない試合でも勝つことが出来なかったのである。結局、地区大会が始まるまでに行った練習試合は二勝八敗という惨憺たる結果だった。それでもメンバたちの表情は明るかった。
「何だかさぁ、試合には勝てないんだけど、試合で実力を発揮出来てる実感が嬉しくってさぁ。地区大会では絶対勝てるって気持ちが湧いてくるんだよね。」
練習後の雑談で栗田が和久井に話しているのを聞いて、敬史は驚くと同時に嬉しさがこみ上げてきた。これがついこの間まで万年最下位、出ると負けのチームメンバの言葉なのだろうか。
”これならきっと勝てる。よーし、僕も今まで以上に頑張るぞ!”
そして始まった地区大会。栗田の予想通り、ブルズは順調に勝ち進んだ。しかも、一回戦は大差の圧勝という、今までのブルズではあり得ないような試合展開だった。その後も危なげなく勝ち進み、迎えた準決勝戦。対戦相手は、ブルズが記念すべき初勝利をあげたスペンサーズだった。試合は前回の練習試合と同様、一進一退の白熱した展開となった。今回はスペンサーズも十分にブルズ対策を練ってきていたようだが、今のブルズには勢いがあった。前半はほぼ互角で展開していたが、後半に入ってブルズの勢いが勝り始め、次第に点差がつき始めた。しかし、そこまで頑張っていたガードの栗田が相手のパスを阻もうとして相手選手と接触して転倒した。その勢いで車椅子から弾き飛ばされた栗田は、無意識の内についた手を捻ってしまいプレーを続行することが出来なくなってしまった。仕方なく選手交代となったが、元々選手層の薄いブルズではレギュラーと控え選手の力量に差があることは否めない。スペンサーズは残り時間での逆転を狙ってそこを徹底的に攻め始めた。ブルズもそこが狙われることは十分にわかっているので必死に応戦に回った。両チーム、必死の攻防は試合終盤まで続き、ついにブルズ一点リードで最後のパスがスペンサーズのセンターに送られた。何とかパスカットをしようとするブルズのメンバー、必死に手を伸ばしてボールに触れようとするが、ボールは無常にも指先を掠めてセンターの元に届いてしまった。そしてセンターの手から放たれた最後のシュートは、バックボードにもバスケットリングにも触れることなくゴールネットに包まれていった。
和久井の一言で始まった地区大会優勝の夢は、あと少しのところでシャボン玉の泡のように弾けて消えた。選手たちはみな、負けた事に対してすごく悔しい思いを抱いていたが、一年間頑張ってここまでやれたことに対する感謝の気持ちの方が圧倒的に強かった。確かに優勝は出来なかったが、ひとつの事をやり遂げた充足感に包まれていた。和久井はそんな彼らの心情を慮ってしばらく練習を中断する事を提言し、皆もその提言に賛同してしばらく休養する事になった。
練習の行われる日曜日は”空”の定休日に当たるため、敬史はチームに入る前のように時間を持て余すようになった。せいぜい香奈の相手をするくらいで、他にこれといってやりたいことも思い浮かばなかった。仕方が無いので香奈と一緒に散歩に出かけ、あてもなく歩いていたら、いつの間にかいつも練習に使っている中学校の近くまで来ていた。何の気なしに体育館の方を見やると、そこには右手に包帯を巻いた栗田が所在なさげに佇んでいた。
「栗田さん。どうしたんですか、練習はしばらく中断ですよね。」
「おお、川島君か。練習が無いのはわかっているんだけど、他にすることもないし、何となくぷらぷらしてたらいつの間にかここまで来ちゃったんだよ。」
「栗田さんもですか。僕も何となくやることもなくて、気付いたら来ちゃいましたよ。」
「お互い、寂しいねぇ。せっかくの休みだって言うのに、行くとこも無いのかねぇ。ハハ…。」
しばらく体育館の横で盛り上がらない世間話をしていたところ、体育館の中からボールを床に打ちつける音が聞こえてきた。
”バン、バン、バン”
栗田と顔を見合わせるや否や、敬史がすぐさま体育館の扉を開いた。するとそこにはブルズのメンバが三人、バスケットボールの入った籠を用具室から運び出しているところだった。栗田が敬史を押しのけるように体育館の中を覗きながら言った。
「おい、お前ら練習はしばらく中断だぞ。何やってんだよ。」
「あっ、栗田さんに川島さん、お疲れ様です。練習が中断なのはわかっているんですが、体が鈍っちゃいそうで、少し運動しに来たんですよ。良かったら一緒にどうですか?」
「馬鹿野郎、俺は右手の捻挫でしばらくバスケットはやりたくても出来ないんだよ。わかってるだろ、それくらい。」
「あはは、そうでしたね。失礼しました。川島さん、どうですか、一緒にやりませんか。」
「えっと…。」
栗田が川島の顔を見てにやりと笑った。
「やってこいよ。香奈ちゃんは俺が見ててやるから。そんなうずうずしている顔されちゃ、やるなとは言えんだろうが、まったく。」
「すみません、それじゃ少しだけボールと遊んできます。香奈、しばらくおじちゃんと遊んでいてくれな。」
言い終わらない内に慌てて靴を脱いで体育館の中に入っていく敬史の後姿を見て栗田がひとりごちた。
「あ~、いいなぁ。俺も早くバスケットやりてぇなぁ。」
「おじちゃん、ボール遊び好きなの?香奈も大好きだよ。今度一緒に遊んであげるね。」
バスケットコートではシューズもウェアも無い敬史が子供のように楽しそうにボールと遊んでいた。
翌週にはチームメンバ全員が体育館に集まり、メンバを代表して栗田が和久井にある申し出をした。一年前、和久井の提案で始めた新生ブルズは、地区大会で優勝することは出来なかった。だから以前のチーム方針”明るく楽しく”に戻すことは構わない。そのことはメンバでも話して異論は出なかった。ただ、これからのチーム方針にはもうひとつ付け加えたいと言う。
「和久井さんが来るまでみんなで話していたんだけど、”明るく楽しく”の”楽しく”には試合に勝つことも含まれるんじゃないかって。だからこれからのチームの活動方針は”明るく楽しく”だけではなく、”明るく楽しく、かつ、強く!”なんじゃないかって。和久井さん、どうだい?俺たちをもっと強くしてくれないか。」
「それじゃ今日から練習再開ですね。実はそんなことじゃないかと思って、新しい強化メニューをきっちりと作ってきました。さあ、時間が勿体無いから早速練習開始しましょう!!」
「よーし、みんな頑張れよ。俺が復帰するまでの間に俺に少しでも近づくように。」
「あれ、栗田さん、練習しないんですか?」
「練習って、和久井さん、この手じゃバスケット出来ないでしょうが。」
「あれれ、栗田さん、ここに栗田さん専用の練習メニューがあるんですが。今度の大会ではもっとフィジカルに強くなって貰わないといけないので筋トレ中心のメニューですね。うん、今の手の状況なら十分出来る内容だ。良かったですね、栗田さん、これでみんなに置いてかれずに済みますよ。」
「え~、俺の一番嫌いな筋トレかぁ、参ったな、この鬼コーチ!!」
栗田が苦笑いを浮かべると、チームの全員が堪えきれず、爆笑の渦に包まれた。
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