姉三十歳、弟二十八歳
長田町店における問題点の把握を終えた恵美子が始めたのは、まず最初に現場の意見を集約する事だった。最初の会合では、店の売り上げに占める割合の高い、精肉・鮮魚・青果の各部門から複数名ずつ集めて実情を聞いてみた。すると、余程不満を溜めていたのか、次から次へと問題点を訴え始めた。これではとてもまとまらないと判断し、次回会合までに各部門で意見を取りまとめることにして会合を終了した。終了後、この改革チームにオブザーバとして参加している浅野課長に意見を聞いてみた。
「あんなに不満が溜まっているとは、予想以上でした。こんな状況で改革なんて出来るんですかね。」
「いやぁ、びっくりしたね。普段、やる気の無い態度を取っていたのは不満の裏返しなんだね、きっと。だけど、不満を主張すると言うのであれば改善する余地はあると見ていいんじゃないかな。不満を取り除くことが出来ればやる気も出てくるだろうし。」
「そうですね、今の状態を問題視しない方がよっぽど怖いですしね。」
前途多難ではあるが、何とかスタートした改革チーム。まずは現場にいるメンバの心の中に石をひとつ投げ込んだ形になった。この後、どういう反応を示すのか…。
一方、顧客の声も集約してみてはどうかと浅野から提案があり、やってみることにした。ただ、お座なりに置かれていた「お客様、メッセージボックス」にはほとんどメッセージが入っていないことを聞かされていた。そこで、恵美子は常連と思しき客を見つけて実際にヒアリングしてみる事にした。
一週間後に開かれた二回目の会合。各現場で取りまとめられた意見と、顧客からヒアリングした内容を皆で確認する事になった。すると、現場で抱えている問題と顧客の要望には明らかにギャップがあることがわかった。特に、良い商品の調達と言う面では、とてもじゃないが今のままでは問題解決が難しいと思われた。現場としては良い商品を顧客に提供したいという気持ちはあるが、本部側が決める主力商品は利益率の高いものが中心となっている。そして、その手の商品はなかなか数が出ず、売れ残ってしまった商品はダンピングせざるを得ず、結果として利益確保が難しくなる。そういう事を繰り返すうちに、顧客はそういった商品を狙って閉店間際にその手の商品を購入するようになる。また、主力商品にかける原価が高くなり、予算の大半を消費してしまう為、売れ筋の商品を十分に仕入れることが難しくなる。すると、売れ筋の商品は常に在庫切れを起こしてしまい、売り上げを伸ばすことが出来なくなるだけでなく、顧客が離れて行く要因にもなってしまっている。正に悪循環である。
「本部からの指示が悪循環の一端になっていることは報告しているのですか?」
素朴に疑問を覚えた恵美子は店長に聞いてみた。
「え、ええ、一応、報告はしているのですが・・・。何分、主力商品の選別は本部からの指示ですから、無下に断るわけにもいかなくて…。」
何とも歯切れの悪い回答である。
「それと、主力商品を仕入れる先も本部からの指示があって、仕入れ値から仕入れ量まで決められているんです。」
鮮魚担当の主任が見兼ねて言葉を継いだ。
「そもそも本部が考えている客層と長田町店の客層にギャップがあるんじゃないか、と言うのが私たちの感覚なんです。客層が良いとか悪いとかではなく、長田町店の客層にあっていないんじゃないかと…。」
青果の担当者が更に言葉を継いだ。
前回の会合が終わった時に浅野課長が言っていた言葉が思い出された。彼らは仕事をしたくない訳ではなく、制約によって力を発揮できない現状に嫌気が差しているのだ。現場のみんなには、少なくともここに集まっているメンバには、長田町店を良くしたいという意志がある。であれば、その意志を行動に繋げてあげるのが私たちの役目なのではないか。恵美子が浅野を見やると、同じ事を考えていたのか、浅野も恵美子を見ていた。そして目が会うと、確認するかのように軽く頷きかけてきた。
「やりましょうよ。お客様に喜んでもらえるようなお店にしてみましょうよ。本部には私と浅野課長で掛け合って見ます。掛け合うにあたり、店長と各担当の主任さんとで仕入れの計画を至急練ってみてください。その計画を持って本部と交渉します。」
各担当者の目の色が変わったように感じた。気の弱そうな店長も、遠慮がちにではあるが、恵美子にうなずき返していた。
”これなら出来るかも知れない。”
一週間後、先の会合で問題視した現状をまとめたレポートと、新たに作成した仕入れ・販売計画書を携えた恵美子は、高木に直談判すべく本社に出向いた。本部からの指示を否定すると言うことは、会社の方針に異を唱えるものであり、サラリーマンとしてはそうそう簡単に出来ることではない。しかし、今の恵美子には現場を良くする、お客様に喜んでもらう、このことしか見えていなかった。
恵美子の勢いに気圧されたのか、高木は恵美子たちの主張を受け入れた。ただし、当然のこととして、結果を出すことが大前提として条件付けられた。店に戻って皆に結果を説明すると、彼らの間で緊張感が高まって行くのが手に取るようにわかった。
”いよいよ始まる。絶対に出来る!”
翌日から恵美子たちの活動が始まった。まずは在庫を一掃してから、各担当が考えた仕入計画に変更する。そして、そういった品揃えが今までとは大幅に変わる事をチラシ等で周辺地域の顧客に周知する。とは言え、今までのお店の状況を良く知っている顧客たちは、そう簡単には振り返ってくれない。結果として、売り上げも中々伸びずに苦しんだ。それでも今は我慢の時と割り切り、現場が作成した計画を愚直に進めて行く恵美子たちだった。
そして、一つの目安となる月次の収益が明らかになった。店長と浅野、恵美子の三人で集計・分析したところ、対象とした三部門とも集客力がアップしていることがわかった。しかし、売上面では精肉部門と鮮魚部門が、利益面では青果部門が伸び悩んでいた。この結果をどう見るか。恵美子たちは悩んだが、結論を出す前に現場の意見を聞いてはどうかという事になった。早速、この数字を持って各部門の主任を交えた会合を行った。すると、各部門共にまだまだ改善の余地があるという意見が続出した。皆のモチベーションが明らかに向上していたのである。
高木への報告では、数字はまだまだだが現場の意識改革が進みつつあること、その結果、今後の成果に期待が持てる事を伝えて、引き続き今の路線で活動を進めて行く了承を得た。そして迎えた次の会合で思いもかけない事態が発生した。精肉部門の主任が活動に異を唱えたのである。周りの皆が説得し始めると、何を思ったのか、敬史が犯した事件のことを持ち出して恵美子にはついていけないと言い始めたのである。まさかこの時点で弟のことが持ち出されるとは露ほども考えていなかった恵美子は大きなショックを受けた。一瞬、頭の中が真っ白になり、思考が停止したように感じた。と、その時ふいに高木の言葉が甦った。
"少し厳しい言い方かもしれないが、そんな環境の中では、君たちは十二分に働いて初めて認められると考えたほうがよいのではないかな。"
「弟は確かに過去に過ちを犯しました。しかし、既に刑期を終え、今は北の海で遠洋航海の船に乗ってきちんと更正しています。私はこの弟の事を恥じたりしませんが、皆さんが気にする気持ちもわかっているつもりです。もし皆さんが弟の事で私をチームの一員として認められないと言うのであれば、私はこのチームから抜けることも厭いません。」
皆がざわつき始めたが恵美子は話を続けた。
「私はこのお店に来て色んな事を見聞きしました。そして、皆さんの今回の活動を見ていて思うのは、お客様の喜ぶ顔が見られる売り場にしたい、それだけです。このことだけは言っておきます。あとは皆さんで決めてください。私をチームの一員として認めるのか否か。その結論を受けて今度のことを決めましょう。」
翌日から現場担当者だけのミーティングが始まった。当然の事ながら浅野も恵美子も参加しないので、どのようなことが話されているのか窺い知ることは出来なかった。仕方が無いので、浅野と恵美子の二人で今後の改善ポイントを考えて行く事にした。しかし、現場のメンバが加わらなければ細かいところがわからない。結局、通り一遍的な改善点しか見つけられなかった。現場担当者によるミーティングはすぐに終わると思っていたが、意外なほど時間をかけて議論が交わされていた。結局、結論が出るまで三回のミーティングを重ねる事になった。そして五日後、現場を代表して青果の主任が浅野と恵美子のところに来て結論を伝えた。
「川島さん、浅野課長、結論を出すのに時間がかかってしまい申し訳ありませんでした。」
「随分と時間をかけたようだけど結論は出たの?」
「ええ、各現場の主任及び主要メンバ全員の総意として川島さんには引き続き改革チームのリーダとして私たちを引っ張っていただきたいと言う事になりました。」
「それは全員の意見なのかい?」
「ええ、そうです。先日の会合の際には弟さんのことが出ましたが、その後の私たちだけのミーティングでは、その事だけでなく川島さんのこれまでの仕事への姿勢だとか、私たちの待遇だとか、お客様のことなども含め色々と話をしました。その結果、やっぱり私たちはお客様が喜んでくれる売り場にしたいんです。先日、精肉部門の主任があのような発言をしましたが、あれには理由があったんです。実は長田町店では以前にもこのような改善活動を行っています。そして、ある時、活動を牽引した方に最後で裏切られたことがありました。彼はその時のことが急に思い出されて、思わずあのような事を言ってしまったと反省していました。」
「そうか、確かに長田町店では今までに色々な改善活動をしてきたと聞いている。だけど、そういった活動の中でそういうことが起きていたとは知らなかったな。川島さん、どうしますか?」
「私は…、先の会合で言ったとおり、皆さんの判断に従うまでです。それでは、明日、次の会合を開きましょう。」
翌日の会合から今後の活動に関する議論が再会された。チームは今まで以上の結束を見せ、各部門が我先にと自分たちの提言をするほどの積極さが出始めていた。そんな中、精肉現場の主任が意見を言おうと挙手をした。先の会合で弟の事を指摘した主任であり、皆が息を飲んで彼の発言を待った。
「今の肉のカットの仕方は人によって無駄が出てしまうことがあります。人によってカットの仕方が変わらないよう、手順なりを決めてみてはどうでしょうか?」
発言が弟のことと一切関係なく、ほっと安堵する雰囲気が漂いそうな中、恵美子がその発言に食いついた。
「何でそんなことが起こるの?それって精肉売り場の担当者なら知っているべきことなんじゃないかしら。精肉の現場ではそういった技術を後輩とか若い人に伝えないの?」
「以前は川島さんが言われるように、先輩から教えてもらって技術を覚えました。ところが、ここ数年は各自が複数の売り場をこなせなければいけなくなって、各売り場の作業は会社が用意したマニュアルに沿ってやるようになりました。ところが、精肉のマニュアルには基本的なことしか書かれておらず、さっき言ったようなポイントは書かれていないことが往々にしてあります。そのため、通常なら知っているようなことも覚えていない担当者が増えているんです。」
「あっ、それって青果でもあるよ。俺なんか入ったのが古いから先輩の安田さんにさんざん仕込まれたけど、今の若いのはそういう機会が無いから野菜のことなんてろくすっぽ覚えちゃいないよ。」
青果部門のベテラン社員が続いたと思ったら、鮮魚でも同じ様な事があると報告が上がった。
「何それ、これって効率を重視するあまり、肝心の職人育成が疎かになっているってことじゃない。しかも、職人が育たないことが大きく現場の作業に悪影響を及ぼしている。本末転倒もいいところだわ。」
恵美子はすぐに行動を起こした。現場の職人育成の現状については浅野に取りまとめてもらうこととし、とにかく一分一秒でも早くこの事実を経営陣に伝えるべく、翌日朝一番で高木を訪ねた。事前に何のアポも無く現れた恵美子の顔を見て、何か重大なことが起きている事を悟った高木は、挨拶もそこそこに恵美子の話を聞く事にした。
「…と言うわけで、現場で一番大事な職人の育成が後手に回っています。早急に対策を講じないと、第二第三の長田町店が出ないとも限りません。」
恵美子の説明を聞いていた高木は、すぐには返事が出来なかった。長田町店の業績不振の根底に、自分たち、経営側の方針が大きく影響していた事にショックを受けていたのである。スーパーの経営手法は、昔からアメリカに倣うことが多い。一人の担当者が複数の売り場をこなせるように配置する方法も、元をただせばアメリカで考案された方法論である。しかし、日本には独自の文化があり、その両者を如何に融合させるかが重要であることは自分でも認識していた。特に職人文化は日本が誇る大きな特性であり、マルイチの現場でもその力は十分発揮されていると信じきっていた。しかし、現実にはその職人文化を途絶えさせてしまいかねない状況にしてしまったのである。
「わかった。長田町店だけでなく、全店舗の状況をチェックして早急に対策を打とう。川島君、よく報告してくれた。」
「高木専務、この事は私ではなく、長田町店のみんなが教えてくれた事です。彼らは自分たちのお店を少しでも良くしたいと言う気持ちを持っています。ただ、少しだけコミュニケーションをすることが苦手なだけなんだと思います。彼らの思いと高木専務たちの戦略が結びつけば、長田町店の業績回復は思った以上に易しいことなのではないかと思えるようになってきました。」
高木もすぐに動いた。緊急で経営会議を開催し、長田町店の現状を伝えた。そして、早急に全店舗の状況確認および社員の育成計画の見直しを提言した。全店舗の状況確認結果では、多少の差はあれ、職人の徒弟制が崩れて技術を身につけていない職人が増えつつある事実が明確となった。と同時に、職人の技術の違いによる問題点も明らかになった。会社側は社員の育成計画を見直すと共に、暫定処置として現場の標準化および担当者の配置計画の見直しを徹底する事にした。
問題提起をする形になった長田町店は、職人の技術の伝承をどう行っていくかを検討・試行するモデル店舗として位置づけられることになった。その結果、各売り場の担当者たちは今まで以上にやる気を出して改革チームに活気を与えるようになった。
「俺、この会社に入って二十年近く経つけど、こんなに活気があるのは入社以来だぜ。今は俺が若い奴らに教えているけど、当時の先輩たちに比べたら全然及ばないし、まだまだ頑張らないといけないなって気になってくるよ。」
「そうですね。僕も彼らのように先輩から教えられたから今の自分があるわけで、如何に先輩の姿が大事なのかが改めて身に染みてきますね。」
こんな会話があちこちで聞かれるようになり恵美子は思った。もう自分の役割は終わったのだと。彼らは既に自分たちで改善の輪を回していく術を身に着けていた。そして、気付いてみたら長田町店の業績は回復傾向を示し始めていた。このまま行けば半年後には社内でも上位グループに入れるのではないかと考える役員も出てくるほどの勢いを持っていた。
ほっとする反面、何かが離れていってしまう寂しさのような感覚もあり、素直に喜びきれない自分の感情に戸惑う恵美子だった。
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