姉三十歳、弟二十八歳
三年後、北の海で船に乗る敬史の姿があった。家を出てからはあちこちの街で日雇いの仕事をしたり、公園で野宿をしながら何とか生きてきた。そして流れ着いた北の街、遠洋航海に出る船が働き手を探している事を知った。料理番の助手なので敬史でも出来そうな仕事だったということと、一度海に出ると数ヶ月帰って来れない為、成り手が少なくなってきていることが幸いした。素性の分からぬ敬史でも雇ってくれたのである。
半年の航海を終えて日本の大地を踏みしめた時、迷惑を掛け続けている姉の姿が脳裏に浮かんだ。何も言わずに家を出てから三年間、連絡もしない弟の事を姉は許してくれるだろうか。迷惑を掛ける弟がいなくなり、姉に幸せが訪れているだろうか。姉は結婚しただろうか。色々な想いが頭の中を錯綜した。
その頃、恵美子はスーパーで主任を任されるまでになっていた。働き始めた頃から特段目立ったわけではないが、確実にこなす仕事振りが認められ、通常は社員が行う主任の役目を担っていたのである。会社からは前々から社員になる事を勧められていたが、弟のことが気になり、なかなか踏み切れずにいた。
次の航海までの休息を使い、三年振りに実家の様子を見に来た敬史。家の近くまで来たところで石川のおばちゃんに会った。
「え、敬ちゃん?何だか雰囲気変わったわねぇ。」
「石川のおばちゃん、ご無沙汰してます。皆さんお元気ですか。」
「うちは相変わらずよ。それよりしばらく顔見なかったけど、どうしてたの?元気でやってる?恵美ちゃんも心配していたわよ。」
「すみません、ご心配お掛けして。今は遠洋航海に出る船に乗って働いてます。一度海に出ると数ヶ月帰って来れないから、なかなか家にも帰って来れないんです。だけど、何とか元気でやってますよ。」
「そう、良かったね、いい仕事が見つかったみたいで。恵美ちゃんも喜ぶよ、きっと。」
懐かしいおばちゃんとの会話で姉が元気にやってる事を聞いた敬史。どうやら職場でも評価されているらしいことがわかり、自分の事のように嬉しく感じられた。
「恵美ちゃん、いっつもあんたのこと心配していたから、元気に帰って来た敬ちゃんの顔を見たら泣き出すかもしれないわよ。ちゃんとお姉ちゃん孝行しなさいよ。」
「うん、そうですね。だけど、次の船が明後日に出航するから今日にでも戻らないといけないんです。姉がいれば会っていこうと思っていたんだけど、今日はこのまま帰ります。」
「そうかい、そりゃ残念だね。恵美ちゃんにはあたしから伝えておくけど、次に来る時は絶対に泊まっていくんだよ。」
「はい、そうします。」
そう言って、おばちゃんに北の海で執れたばかりの新鮮な蟹を渡し、実家には寄らずに船に戻る事にした。本当は来週の月曜日に出航なので時間に余裕があったが、何となく姉と顔を合わすのが恥ずかしく思えてきて、今日のところはいったん帰る事にしたのだった。
最寄の駅まで歩いて行く途中、どこからか鳥の鳴く声が聞こえてきた。
「ピー、ピピピ、ピー、…。」
その声は敬史が駅に着く手前までついて来た。最初は何も感じなかったが、駅に着く頃になるとそのさえずりが何かしら上手くいくことの予感として敬史の心に染み込んでいった。
“姉ちゃんに取って何か良いことがあるといいな・・・。”
恵美子が仕事を終えて家に着くと、間もなく、玄関で呼び鈴の音が聞こえた。普段、訪れる人などほとんどいないので、少し警戒しながら玄関に向かった。扉の向うに立っていたのはいつもの優しい笑顔を浮かべた石川のおばちゃんだった。
「恵美ちゃん、おかえり。」
「ただいま、おばちゃん。珍しいわね、こんな時間に。」
「今日ね、敬ちゃんが帰って来たんだよ。」
「えっ、敬史が!」
「びっくりしたよ、突然帰って来て。あの子、遠洋航海に出る船に乗ってたんだねぇ。真っ黒に日焼けして、また一段と逞しくなってたよ。」
「え、遠洋航海?」
「あら、知らなかったのかい。そうかい、あの子もいろいろと考えるとこがあったんだねぇ。」
「敬史、元気そうでした?」
「ああ、顔色も良いし、昔の元気な頃の敬ちゃんだったよ。あ、あと、お土産に大きな蟹を持ってきたよ。あんたと二人で食べるつもりで持ってきたんじゃないのかな。なのに、ひとつはうちにくれるなんて言ってくれてさぁ。」
言いながら抱えていた発泡スチロールの箱に入ったタラバ蟹を恵美子に手渡した。
「明後日に船が出るとかで今日は帰っていったけど、今度、船が戻って来たときには泊りがけで来るってさ。良かったね、敬ちゃん、元気にやってて。」
「おばちゃん・・・。」
おばちゃんの目が心なし光って見えた気がした。
敬史が自分の道を見つけた。事故で脚が満足に使えなくなって自暴自棄になった心を、自分の力で立て直したのだろう。それに引き換え私は何を躊躇しているのだろう。弟の事を理由に前に進まないのは、自分に言い訳をしているだけに過ぎないのではないか。それに、弟の事を隠すのは、自分が弟の事を否定している事になりはしないか。そんな考えが浮かんできた。
”どうなるかはわからないけど、前に進んでみよう。”
敬史の顔を思い浮かべながら、自分も前進する事を選んだ恵美子だった。
翌日、課長に社員になるべく話をした。ただ、自分には過去に罪を犯した肉親がいることを正直に話した。その弟は既に刑期を終え、今は北の海で遠洋航海の船に乗ってきちっと更正していることも話した。そして、自分はこの弟の事を恥じたりはしないが、正社員として採用してもらえるのなら肉親に犯罪歴のある者がいることを認めたうえで採用して欲しいとお願いした。会社が採用できないと判断したとしても何ら恨みを持ったりはしないので、客観的に判断して欲しいとも伝えた。恵美子の話を聞いた課長は、最初、かなり驚いた様子だった。ただ、恵美子が話を続けていくうちに段々と落ち着いてきて、いつしか真摯な態度で恵美子の話を聞いてくれた。そして、話を聞き終えてからしばらく考え込んだ後、この件はしばらく自分に預からせて欲しいと恵美子に伝えた。
「罪を犯すことは確かに良くないことですが、きちっと更正しているのであれば何ら川島さんの採用に関わるものではないと思います。ただ、きちっとその点を関係者に説明しておく必要はあると思いますから、少し時間をくれませんか。」
それから一週間、課長からの連絡は無かった。たまに会社で顔を合わせても、もう少し待ってくれとのことだった。やはり無理だったのか、とあきらめかけた頃、帰り際に課長に呼ばれた。会議室に行ってみると真面目腐った顔をした課長が、堪え切れないように笑みをこぼして言った。
「無事採用する事になりました。川島さんは今日からマルイチ社の社員です。ポジションは主任です。採用条件については日を改めて人事部の担当者から説明があります。それで構いませんか?」
「ありがとうございます。」
正式に主任として採用されてからも恵美子の仕事の仕方はほとんど変わらず、着々と業務を遂行していった。ただ、今までは遠慮していた部分にも積極的に関わるようになったこともあり、社内改革への貢献度はこれまで以上に高いものになっていった。
そして、採用から半年、恵美子の貢献もあり店舗の売り上げが倍増するという効果が数値としてあらわれた。その報告を店長から受けた専務の高木は恵美子に興味を持ち、密かに恵美子の仕事ぶりをチェックし始めた。仕事の進め方や周りのメンバーに対する接し方など、人と成りを確認し、検討中の業務を任せられるかどうか量っていたのである。
マルイチ社はスーパーを十店舗展開しており、恵美子はその中の本町店に勤務している。本町店の近くに本社があるが、普段はそこに顔を出すことはまずない。ところが今日は朝から本社に顔を出すよう昨日、課長から言われていた。内容は課長も知らないとかで、何となく変な感じを覚えつつ本社の総務に顔を出した。すると、そこに待っていたのは高木専務だった。
「あなたが川島さんですか。初めまして、高木です。」
いきなり役員が出てきて戸惑った恵美子は、何をどう話してよいのか分からず軽く目礼をするだけだった。
「突然に呼び出して申し訳ありませんでした。今日来てもらったのは、実はあなたにある仕事をしてもらおうと思ってのことなのです。」
「ある仕事?それは本町店での仕事とは別なのですか?」
「川島さんはパートで入社してから四年程なのでマルイチ社全体のことはあまり把握されていないかも知れませんが、長田町店の業績が良くないことは知ってますよね?」
「ええ、その件は浅野課長から聞いてますのである程度は。」
「会社としてはこの長田町店の業績回復が喫緊の重要課題になっています。しかし、昨年から行ってきた意識改革や業務改善がなかなか効果を発揮できず、未だに業績回復の目処が立っていません。そこで、会社としては次の手を打たなければいけないのですが、その改革を推進して行くリーダー候補が見つからずに困っていました。」
部屋の外から近くを走る電車の音が聞こえてくる。ゴトン、ゴトン、ゴトン…。リズミカルに聞こえてくる音。敬史ならこの音が良い音なのか悪い音なのか分かるかも知れない。
「失礼ながらこの数週間、川島さんの適性を調べさせてもらいました。適性と言っても、仕事振りや周りの人との関わり合い等を君の周りの人から報告してもらって、その情報から先程話した長田町店の改革推進リーダーに相応しいかどうかを私なりに判断しただけなんですけどね。」
ゴトン、ゴトン、ゴトン…。今度は下りの電車だろうか、先程より若干音が小さく感じる。
「長田町店の業務改革リーダーをやってもらえませんか。」
「えっ、私がですか?」
社員になってから半年そこらの私に不採算店の業務改革をやれとはどういうことなのか?高木の真意が測れず、思わず彼の目を凝視した。すると、そこには恵美子に負けない強い力を漲らせた二つの目が、有無を言わせぬ迫力で恵美子を凝視していた。
「わかりました。どこまで出来るかわかりませんが、長田町店の改革に取り組ませていただきます。」
頭で考えるより先に言葉が出ていた。
恵美子が長田町店の改革リーダーに抜擢されたことはすぐに社内に広まった。今の仕事を引き継がなければいけないので、着任は一ヵ月後だった。ただ、噂を聞いた本町店の従業員は、至る所で恵美子の噂を口々に語るようになった。本町店における恵美子の仕事ぶりは皆がよく知っていたので、噂の大半は好意的なものだった。しかし、中には妬みや嫉妬の類も含まれいた。恵美子は、噂話はなるべく聞かないようにしていたが、それでもちらほらと耳に入ってくることがあった。単純な妬みや嫉妬だけなら恵美子も気にしなかったが、敬史の事に言及された時にはとても心が痛んだ。
二週間ほどすると、周りの人の方が気を遣い始めたのか、段々と距離を置く人が増えてきた。やはり弟のことが影響しているのかと思うと、本当にこの仕事を引き受けていいのかどうかがわからなくなってきた。そもそも、社員として働くこと自体、本当に良いのだろうか、そんな思いが頭をよぎるようになっていった。
そんな時、長田町店での改革に関する打ち合わせで高木からの呼び出しがあった。
「どうですか、引継ぎは順調ですか?」
「ええ、まあ。」
「何だか歯切れが悪いですね。何か気になることでも?」
高木に会う前は考えていなかったが、今の気持ちでこの仕事を引き受けるのは会社にとって良くないことなのではないかという気になってきて、思わず口をついて愚痴がこほれだしてしまった。
「私でいいのでしょうか?」
「ん、何か思うとこありって顔だね。どういうことなのか説明してもらえますか?」
高木の一言が引き金になったのか、恵美子は、ここ二週間の周りの人たちの変化、そして、何よりも弟の事を気にしている今の自分の気持ちを一気に高木に投げ掛けた。そして、最後に、
「私はやはり社員になるべきではなかったのかとも…。」
腕組みをしてじっと話を聞いていた高木は、しばらくの間、黙考していた。やがて顔を上げ、優しい表情で恵美子に言った。
「川島君、君は弟さんの事をどう思っているのですか?」
「え、どうって・・・。」
「彼は一度は罪を犯した。この事は一生消えることの無い事実です。しかし、人は悔い改めることが出来る生き物だ。そして彼は更生した、と、あなたは浅野課長に言ったのではないですか?そんな彼の事、あなたは堂々と胸を張る事が出来ないのですか?」
「いえ、決してそんなことはないです。」
「人は頭で理解していても感覚的には割り切れないことが多い。弟さんのこともそうだ。何かのきっかけで、弟さんの事を斜めに見てしまう人もいるだろう。君は、いや君たちはそういった環境の中で暮らしていかないといけないことはわかっているはずだ。少し厳しい言い方かもしれないが、そんな環境の中では、君たちは十二分に働いて初めて認められると考えたほうがいいのではないかな。」
高木の言葉は厳しいものだが、その内には深い優しさがあるように感じた。
恵美子は、帰り道、高木の言葉を反芻しながらどうすべきかを考え続けた。精一杯働くことは何ら苦にはならない。今の会社の仕事はやりがいもあるし、何よりも周りの人たちのやさしさがありがたかった。ただ、自分が一生懸命働くことが弟の為になるのかどうか、その点がどうしても心の中のどこかに引っ掛かり、思い切ることが出来なかった。
”本当に私がこの仕事を続けていっていいのだろうか…。”
家に帰ると珍しく敬史から葉書が届いていた。石川のおばちゃんに伝言を残していって以来、たまに連絡がある程度で仕事の様子もよくわからず心配していた。葉書には久し振りに日本に帰ってきて、短い休暇をのんびり過ごしているとあった。最近は調理場の助手として仕事を任されるようになってきて、それなりに貢献できるようになった喜びが短い文章の中から窺うことが出来た。
”敬史もどうやらひとつの壁を乗り越えたみたいだな。”
そう思うと、今、自分が悩んでいることがとてもちっぽけなことのように思えてきた。高木が言うように過去に起きてしまったことは消すことが出来ない。しかし、大事なのは過去ではなく今の自分たちであり、これからどうやって生きて行くかなのだ。弟の事をあれこれ言う人がいたら、弟は現在、立派に船員として北の海で働いていると言ってやろう。何なら新鮮な蟹を届けてやろう。
”蟹を送るのは勿体無いな。フフ。”
長田町店の改革リーダーを全力でやりきろうと決心した恵美子だった。
翌日から精力的に引継ぎ作業を進め、辞令が発令されると共に長田町店の現状確認を始めた。事前に高木から状況は聞かされていたし、ここ数年の実績データも頭に叩き込んでいたのでそれなりの覚悟はしていた。しかし…。
赴任初日の朝、現場のメンバに紹介されているときから雰囲気の悪さを感じた。そして、開店準備の時点から店内各所を見聞きして周ると、気になることが次から次へと見かけられた。青果や精肉など、担当部署毎にばらばらの作業をしていたり、担当者がおしゃべりをしながらいい加減な作業をしていたり、掃除は中途半端、陳列の仕方も適当、等々、あっという間に改善すべきところがいくつも見つかってしまった。
開店してからの店内も似たようなもので、売り場担当者が客に背を向けたまま作業をしていたり、レジ担当者はお釣りを投げるように渡していた。更に棚に空きスペースがあっても商品の補充をしないなど、とても客のことを考えて行動しているようには思えなかった。
二週間ほど様子を見ていて分かったことは更に酷かった。商品を仕入れる外部業者と馴れ合っていて、相場より高い仕入れ値になっていたり、明らかに余ったと思われる商品を通常の価格で仕入れたりといった事実が発覚した。そして何より驚いたのは、そういったいい加減な店である事を客に見抜かれてしまっていることだった。商品を計画的に仕入れないため、毎日のように大量の売れ残りが発生する。そして、翌日に持ち越せない商品はダンピングしてでも捌こうとする。そういったことが毎日のように行われている為、近隣の客はそういった類の商品ばかりを購入して行くのである。想像していた以上の酷さに、思わず頭を抱えたくなる恵美子だった。
次の航海が三日後に迫った日、船に乗るメンバの顔合わせがあった。このところ同じメンバで航海していたので、顔合わせとは名ばかりですぐに宴会が始まるのが常であったが、この日は若干違った。前々から若いメンバを探していたのが見つかったらしく、新しく慎二と言う若者が初乗船する事になったのである。高校を卒業したばかりの慎二は酒など飲めないのだが、そこは海の男たちの集まり、年齢など関係なしに宴会が始まり、慎二はあっという間に酔いつぶれて寝てしまった。
「若いのに意気地が無いのぉ。」
冗談交じりに誰かが言って、宴はそこでお開きとなった。
「敬史、あとはまかせたぞ。」
この船に乗る船員は比較的年齢が高く、今までは敬史が一番年下だった為、寝てしまった慎二の面倒は敬史が見る事になった。
初めての航海で慎二は皆の予想以上に仕事をこなした。遠洋に出ると海に慣れるまでが最初の難関なのだが、慎二は子供の頃に漁船に乗っていたことがあったらしく、それほど苦にすることも無く遠洋の海に慣れていった。
「敬史さんは最初の航海はどうだったの?」
船員の中では歳が近いことや最初の宴会で介抱してやったこともあり、慎二は何かと言うと敬史のところに来て話をしていった。
「さすがに最初は船酔いで大変だったよ。しかも仕事が料理場の手伝いだから、二重苦さ。」
「あはは、そりゃ大変だ。でも今はもう全然平気だね。」
「ああ、さすがに何度も乗ってりゃ慣れてくるさ。それと、昔バスケットをかじっていたせいか、バランスを取るコツを覚えるのもあまり苦にならなかったな。」
「へえ、バスケットやってたんだ。あれって結構ハードだよね。高校のとき、バスケット部の部員が足りなくて急遽試合に借り出されたことがあったけど、前半だけで息が上がっちゃったもんな。」
慎二が弟のように懐いてくるせいか、辛い思いをしたバスケットの事を何の苦もなく喋っている自分が不思議だった。そしてバスケットの事を話していると気分が良くなってくるのを感じた。やはり自分はバスケットが心底好きなんだな、あらためてそう思う敬史だった。
「カン、カカン、カッカッカッ、…。」
慎二が甲板を叩く音が聞こえてきた。
「あっ!」
敬史があげた声にびっくりした慎二がこちらを見た。
「どうしたの?何かあった?」
「いや、何でもない。そうだ、夕飯の仕込をそろそろやるかな。慎二も持ち場に戻る時間じゃないのか?」
「あれ、もうそんな時間?あ~あ、またこき使われるのか。」
「何言ってんだ。お前は一番若いんだから、どんどん働いてみんなのテクニックをどんどん吸収しなきゃ。」
「わかってるって。もう、敬史さんも親父みたいなこと言ってると早く老けるよ。それじゃ、俺戻るわ。」
「慎二、人は自然の前では所詮無力なんだから、無茶をするんじゃないぞ。」
「へーい、了解です。」
何か嫌なことが起きる。今回だけは外れて欲しいと願う敬史だった。
翌日から海が荒れ始めた。嵐が予想以上の勢いで近づいてきた為、十分に距離を確保することが出来なかったようだ。船の揺れは治まる気配を見せることもなく、時が経つにつれ、どんどんとひどくなっていった。食事の下準備をしていた敬治たちも、足元がおぼつかないうえ、野菜や調理器具があちこちに動いてしまって仕事にならなかった。仕方なく一旦仕事を中断して部屋で休憩していたところ、甲板の方が妙に騒がしくなった。慌てて駆けつけてみると、甲板上は叩きつけるような雨と風、そして時折、大きくうねった波が甲板を洗うという最悪の状況になっていた。そんな中、右舷の方に皆が集まり、緊迫した雰囲気が漂っていた。身近にいた船員に聞いたところ、苦虫を噛み潰したような顔で慎二が海に落ちたと答えた。海を見ると大きな波の間に人が見え隠れするのが見えた。近くに浮き輪が投げられたが、波の具合でなかなか掴まることが出来ない。慎二は海育ちなので泳ぎは人一倍得意だが、さすがにこの嵐ではいつまで持つかもわからない。じりじりしながら何も出来ない歯がゆさを感じている内に、気がついたら近くにあった浮き輪を持って海に飛び込んでいた。無我夢中で慎二のところまで泳いでいき、半分意識を失いかけてる慎二を引き寄せ、浮き輪に掴まらせた。仲間に引っ張ってもらって何とか船に上がろうとした瞬間、反対側から大きな波が迫っている事に気づいた。何も考えず、慎二を突き飛ばして自分も船上に上がろうとしたが、今度は背後から来た波に飲み込まれてしまった。何がどうなったのかわからないが、海の中にいることだけはぼんやりとした頭で理解することが出来た。水面に上がらなければと思うのだが、朦朧とした意識の中、天地を判断することは出来なかった。一瞬、姉の顔が目の前に浮かんだような気がしたが、意識はそこで途切れた。
気が付くと見覚えのある天井が目に入った。どうやら揺れる船室のベッドに寝ているらしい。
「良かったね、助かって。」
声のする方を見やると、心配そうな顔でこちらを見ている慎二の顔があった。
後で聞かされた話によると、海に飛ばされた時に一緒に浮き輪が飛ばされていて、無意識の内にその浮き輪にしがみついていたらしい。もし、浮き輪が無かったら、浮き輪に掴まることが出来ていなかったら、そう思うと身震いがいつまでも止まらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます