姉八歳、弟六歳
部屋の中に残されていた手紙や、幼い恵美子の話から、出て行った母親および近親者がいないかどうかが調べられた。しかし、姉弟を引き受けてくれる人は誰も見つからなかった。結局、養護施設に入る事になった二人だが、入所直後は食事時間に人のものまで食べようとして、施設の職員を手こずらせてばかりいた。母親にちゃんと食事を与えられず、食べられる時には何でも食べようという本能が働いてのことだろうと職員は判断し、しばらくの間、食事時間を他の子供たちと別にして、ちゃんと毎食食べられるということを理解させようとした。それが功を奏したのか、一週間もすると、食事をする時の顔つきから必死さが薄れていき、時折、笑顔を見せるようになっていった。
養護施設には色々な事情を抱えた子供たちがいる。そして、子供たちはそれぞれの事情から色々な個性を見せるようになる。
父親に虐待されていた子が、他の自分より弱い子供に対していじめを振るう。厳しい、誤った躾をされて心の病になってしまい、施設の職員や他の子供たちに対しても心を開かない子。親に怒られるのが嫌で、いつでも親の期待する答えをしようと嘘ばかりつく子。母親が失踪したことを理解できず、女性を見るとすぐについていこうとする子。
施設にいる彼らは大抵の場合、親に見捨てられたり、親から逃れてここに来ている。そして、ほとんどの子供が頼る者を持っていない。そんな子供たちの集団生活では、ごく普通の生活をしている人間にはわからない、複雑な人間関係が構築されていくのである。
姉弟が施設に入ってから三ヶ月、いつも弟を守ろうと周りに対してきつく接していた姉がいじめの対象になった。施設には三歳から十八歳までの二十人が住んでいたが、やはり年齢の近い子供たちが一緒に行動することが多い。姉弟は二歳違いなのでいつも一緒に行動することが多く、その周りには十歳くらいまでの子供、十人ほどがいることが多かった。その中でリーダー格の女の子が、やたらと恵美子を嫌い、仲間外れにしたり、時には突き飛ばすようなこともあった。
まだ五歳の敬史には、いじめという行為はわからないものの、何となく姉が周りの子供たちと仲良く出来ていない事は感じていた。そしてその事が何故だか悲しく、いつもめそめそしていた。そんな敬史を恵美子はやさしく守ってくれるのだが、この二人の関係がリーダー格の女の子には許せなかったのである。自分には兄弟もいなければ親もいない。遠くに親戚がいるらしいが、引き取ってくれるどころか、会いに来てくれることもない。恵美子たちにも親がいないらしいが、こうして肉親といつも一緒にいて、仲良くすることが出来る。そんな存在が自分も欲しい、だけどいない、悔しい、どうして私だけ、どうして…。
敬史が六歳の誕生日を迎えた時、他の子供と同じように施設の人が質素なお誕生会をしてくれた。小さなケーキをみんなで分けるものだから、ほんの二口程度の大きさになってしまうのだが、その時、恵美子は自分の分を敬史に分けてくれた。
「今日は敬史のお誕生日だから、お姉ちゃんからのプレゼントだよ。」
滅多に食べられない、美味しいケーキが二つになってはしゃぐ敬史。その光景を嫉妬深く見つめるリーダー格の女の子。お誕生会が終わってから二~三日過ぎた頃、敬史が昼寝から起きると、小学校から帰ってきた恵美子が頬に絆創膏を張って寂しそうに座っていた。
「お姉ちゃん、どうしたの?顔に何か付いてるよ。」
「今日ね、学校の帰りに転んで擦りむいちゃったんだ。ドジだよね、私。敬史も気をつけようね。」
そこに例のリーダー格の女の子がやってきた。
「あら、恵美ちゃん、どうしたの?顔に絆創膏なんか張っちゃって。誰かと喧嘩でもしたの?」
心配顔で敬史が恵美子の顔を見ると、普段、怒った顔など滅多に見せない姉が、ものすごく怖い顔で女の子を睨んでいた。
「お姉ちゃん、どうしたの?何かあったの?」
弟の怯えたような心配気な顔に気づいた姉は、いつもの柔和な顔に戻り、敬史に言った。
「何でもないよ。心配しなくて良いから、もう少しお昼寝しようね。」
女の子を見ると薄ら笑いを浮かべて二人の会話を聞いていた。
「敬ちゃん、大丈夫だよ。お姉ちゃんはとっても強いから、何があっても敬ちゃんを守ってくれるよ。敬ちゃんの事を守る為に、人に逆らうなんて出来ないよね、恵美ちゃん。」
女の子が何を言いたいのかよくわからなかったが、姉が俯いて悔しさを押し隠していることだけは、何となく感じる事が出来た。
”お姉ちゃんはこの女の子にいじめられているんだ。”
何となくそう感じた敬史は、何とかして姉を守ってあげないといけないという、使命みたいなものを無意識の内に心の中に宿していた。
それからしばらくの間、恵美子が学校から帰って来る度に、擦り傷や痣が増えるようになった。そして、段々と元気がなくなっていく恵美子と一緒にいると、例の女の子が近づいてきて、恵美子に二言三言声を掛けていった。声を掛けられる恵美子の表情は、日を追う毎に追い詰められた動物のように余裕のないものに変わっていった。そんな姉の変化につれて、敬史の姉を守ると言う思いも強くなっていき、ついに当人に文句を言ってやろうと決心したのである。
施設の子供たち、特に姉弟が属しているグループの子供たちだけが知っている秘密基地が近くを流れる川の袂にあった。そこは、川べりまですすきで囲まれており、子供数人が入れる程度のスペースがあるという、子供にとっては格好の隠れ家的な遊び場、即ち秘密基地だった。施設からも近いため、まだ小さい敬史でも迷わずに行くことが出来る、数少ない場所である。
ある日の夕方、たまたま例の女の子と一緒になった敬史は、お姉ちゃんのことで話があるといって、この秘密基地に二人で向かった。
「何でいつもお姉ちゃんをいじめるの?」
精一杯、文句を言おうと思うのだが、いかんせん、敬史はまだ六歳、語彙も少なければ、自分の言いたい事をまとめることも上手く出来ない。当然、十歳の女の子に言葉で敵うはずもなく、段々と焦りだす敬史。もうどうしていいかわからなくなり、”わー”と叫びながら目を瞑って腕を振り回した。しばらくして目を開けたら、目の前にいたはずの女の子がいなくなっていた。辺りを見回そうにも、前面の川以外はすすきに囲まれていて何も見えないし、川もちょうどカーブしているところのため、右手の下流方向はほとんど見えなかった。
日が暮れかけた時間帯、周りのすすきの影響もあって自分の事を闇が包み始めたように感じたら、急に恐怖が競り上がってきた。慌てて施設に帰ろうと思い、振り返ってすすきの間にある獣道のような細い空間に踏み出そうとした瞬間、そこから人影がこちらに向かってきた。
「うわっ!」
思わず尻餅をつく敬史の前に現れたのは恵美子だった。
「何だ、お姉ちゃんか。びっくりしたぁ。」
「敬史、こんなところで何やってるの?」
「え、何でもないよ。」
「麗ちゃんはどうしたの?」
「え…。」
「さっき麗ちゃんと一緒に施設を出るところを見かけたから来て見たんだけど・・・。」
「…」
「敬史、麗ちゃんと何かあったの?」
優しく諭すように聞く恵美子の顔を見ていた敬史の顔が、見る見るうちに歪んでいった。涙をぼろぼろ流し、しゃくりあげながら、つい今しがたに起きた事を恵美子に告げた。
「それじゃぁ、麗ちゃんは敬史が気づいた時にはいなくなってたのね?」
「う、うん・・・。」
「そっかぁ、敬史、お姉ちゃんのために頑張ってくれたんだ、ありがとうね。」
「うん!」
ようやっと敬史の顔に安堵の色が戻ってきた。
「でもね、敬史、こういうことは、もうやらないでね。お姉ちゃん、敬史のことが心配だから。」
「うん、わかった。」
「それとね、この事は誰にも喋っちゃだめだよ。敬史とお姉ちゃんだけの秘密だからね。」
「うん、わかった。」
「よ~し、それじゃぁ、もうすぐ日も暮れるし、帰ろうか。」
すすきの間を抜けて土手に上がると、真っ赤に染まった夕日が大きく見えた。恵美子にはその夕日の色が血の色に思えて、とても暗い気持ちになっていった。
その晩、夕食の場に麗の姿はなかった。ただ、麗は今までにも帰ってくるのが遅くなることが度々あり、他の子供たちは特に気にも留めずに食事を終えた。敬史は麗との事もあり疲れたのか、食事を終えるとすぐに寝入ってしまった。その晩、十時を過ぎても女の子が帰ってこなかった為、警察に連絡がされたが、翌日になっても麗の行方は判明しなかった。
施設では他の子供たちへの影響を考慮し、麗は親戚の家に行ってる事にした為、他の子供たちは普段通りに過ごしていた。ただひとり、恵美子を除いて。
恵美子は敬史が夢中になって麗を突き飛ばしたところを、すすきの間から見ていたのである。敬史は麗に反論されて我を忘れていたから麗が川に落ちたことに気づかなかったんだろう。敬史が振り回す手を避けようとして後ずさった時、足元が滑って川に落ちた麗は、一瞬の出来事に声を出すことも出来ず、あっという間に流され見えなくなった。敬史の後方から見ていた恵美子にしても、麗が川に落ちて流されるまでがほんの僅かの時間だった為、すすきの間から出る間もなく、どうすることも出来なかったのである。
そして、麗が川に落ちてから三日後の十一月十二日、何も言わぬ麗が施設に戻って来た。恵美子たち、子供には知らされなかったが、施設から三キロ程下った川辺に麗の履いていた靴があり、そばに滑り落ちたような跡があったらしい。麗の遺体は、更に三キロ程下ったところで発見されており、死因は溺死だった。警察は状況から、誤って川に落ちた麗が溺れて亡くなったと判断し、事故死として処理を行ったのである。
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