姉二十三歳、弟二十一歳
心が折れてしまった敬史は日がな一日、何をするでもなくただボーっとしている事が多くなった。狭い庭には祖母が大事にしていた小さな梅ノ木が可憐な花をつけていた。人間の営みとは関係なく咲いている花を見ていると、中学に入ってから五年間、脇目も振らずにバスケットに専念してきた自分の生き様が虚しくなっていった。そして、自分の心が暗い闇の底にどんどんと転がるように落ちて行くように感じた。
敬史は結局高校には復学せずに新しい季節を迎えた。この頃になると心の傷は徐々に癒えて来ていたが、思う通りに言う事を聞かない右脚を動かそうとする度に、悔いの念が暗い闇の底から這い上がってきて敬史を苦しめていた。
初夏の風がいつの間にか紫陽花に恵みの水を運んできたなと思っているうちに、あっという間に真夏の強い日差しが朝顔の蔓をぐんぐんと伸ばすようになった。
恵美子はスーパーとラーメン屋の往復で日々のほとんどを費やしていたが、ふと気づくと、毎日のように店にやってくる客のことを目で追うようになっていた。最初のうちは意識していなかったが、目で追っている事に気づいてからは、逆に意識し過ぎて男の顔を見る事が出来なくなっていた。
恵美子はこれまで恋をしたという記憶がなかった。中学ではのしかかってくるプレッシャーを忘れようと悪友の中に飛び込み、自分を偽って過ごしていたし、中学を卒業してからはずーっと働き尽くめで、それこそそんな余裕もなかった。しかも、社長との関係が出来てからはとてもそれどころではなかった。
そこまで考えて、最近少し忘れつつあった辛い気持ちが頭をもたげて来た。
「私にはそんな資格なんてないんだ…。」
敬史は真夏の日差しが庭の向日葵に容赦のない、しかし向日葵にとっては願ってもないエネルギーを与えているのを見ながら考えていた。
”人には忘却と言うすごい力がある。誰かがそんな事をいってたっけ。”
実際、怪我をしてからの時間は、啓史の心を少しづつ軽くしていた。これまでは体を動かそうと言う気さえ起きなかったが、最近では、リハビリを始めてみようかという気持ちが芽生えつつあった。
ある日、庭を見ながらぼんやりしていたら、どこからともなく、ボールが飛んで来て目の前に転がってきた。すると通りの方から子供の声が聞こえてきた。
「やべえ、壁を越えちゃったよ。お前、取ってこいよ。」
「え〜、やだなぁ、怒られるんじゃない?」
「大丈夫だって。確か、ここの人、バスケットが超上手いはずだから、あんなゴムボール如きじゃ怒らないよ。
「え〜、本当?」
敬史は苦笑しつつ、松葉杖を頼りにボールを拾った。ソフトテニス用の柔らかいゴムボールは、バスケットボールとはまるっきり異なる感触ではあったが、なぜか、バスケットコートを走り回っていた頃のことが鮮明に浮かんできた。そして、もう一度、あのコートに立ちたいという思いがじんわりと心の奥底から滲んでくるのを感じた。
“頑張ってみようかな・・・”
翌日から、リハビリを兼ねて朝晩、町内を散歩するようになった。散歩を始めた頃、この半年で鈍った体は脚の後遺症もあり、とてつもなく重く感じられた。しかし、さすがに五年間鍛えただけあり、散歩を繰り返すうちに徐々に歩くスピードも早くなってきた。そして、体が軽く感じるようになっていくのに合わせるかのように、不思議な事に思考が少しずつ前向きになってきたのである。
ある日の夕方、散歩の帰りに姉の働く店で食事をしようと思い顔を出した。
「あら、珍しいわね、敬史がお店に来るなんて。」
「うん、今日は少し遠くまで散歩したら急にお腹が空いてきちゃってさ。ラーメンライスの大盛り食べさせてよ。」
「ええ、そんなに食べるの?すごい食欲ね。」
笑いながらカウンターの中にオーダーを通す姉の姿を見て、何となくほっとした。敬史が実家に帰ってきてから、いや、高校に入学してからずーっと、姉は自分のために仕事に明け暮れる日々を過ごしている。たまの休みは家の雑用をするか、疲れを取るためか、のんびりと家で過ごすことが多い。そんな姉の姿を見ていると、ついつい自分を責める思いが浮かんできて、姉の大事な時間を台無しにしてしまっているのではないかと考えてしまうのだった。だが、今日の姉の姿はどこか楽しそうで、何となく生き生きとしている様にも感じられた。
すごい勢いでラーメンライスを完食し、ふとカウンターの方を見やると、どこか落ち着かなげな姉の姿があった。しばらく見ていると、ちらちらとある客の方を見ている事に気づいた。まだ若い、とは言え敬史より、いや姉よりも年上と思われるその男は、ビールを飲みながら食事をしていた。少し気になり男の方に注意を向けていたら、テーブルをこつこつと指ではじく音が聞こえてきた。
”あっ!”
思わず声を出しそうになっていた。男が指ではじく音には、好意を感じさせるものが含まれていたのである。そして、男の視線の先には、小動物のように落ち着きのない視線をあちこちに向ける姉の姿があった。
姉が客の男に恋をしている。男も姉に恋をしている。
敬史は確信した。
この事実をどう受け止めればよいのか、敬史は悩んだ。半年前、自分が殴った社長との関係は解消したが、理由はどうあれ、姉のしたことは決して許されるものではない。それからたった半年で恋をする姉に対して自分がどういう態度を取ればよいのか、その答えを導き出すには敬史はまだまだ子供だった。また、姉を取られると言う獏とした不安感もあり、素直に祝福することが出来ない自分を理解出来ない面もあった。
その後しばらく、敬史は店に顔を出さなかったが、反面、休みの日に姉が外出することが多くなった。多分、あの男と付き合うようになったのだろう。それでも敬史は何も言わなかった。いろんな想いが錯綜し、未だ、心の整理をすることが出来なかった。
空に浮かぶ雲が高くなり、紅く染まる木々が北上し始めた頃、綺麗になっていく姉を見ながら敬史はひとつの決心をした。姉は大きな過ちを犯した。しかし、姉は今まで十分すぎるほど頑張ってきた。その分、姉には幸福になって欲しい。その為にも自分は自立しなくてはいけない。敬史は高校に通っていった頃に世話になったコーチに相談した。高校を辞める時に最後まで親身になってくれたコーチで、数少ない、敬史が信頼できる相手だった。
「姉ちゃん、俺もそろそろ働こうかな。」
「え、だけど脚はまだ…。」
「いや、リハビリのお陰で大分歩けるようになったしさ、そもそも、いつまでも働かないでぶらぶらしているわけにもいかないだろう。いずれは姉ちゃんも結婚するんだし。」
「結婚なんて、まだまだ先のことよ。とは言え、少しずつ動くのもいいかもね。どんな仕事がいいのかなぁ。」
「その事なんだけど、高校のコーチに相談してみたんだ。そしたらいい働き口があるって言われてさ。」
「へえ、随分と積極的ねぇ。で、どんな仕事なの?」
「料理屋の下働きなんだ。住み込みで雇ってくれるとかで、すぐにでも来て欲しいって。」
「え、住み込みなの?それじゃまたこの家を出るって事?」
「コーチが言うにはしっかりした料理屋さんらしいんだ。最初は下働きだけど、しばらく真面目に勤めれば料理人として雇ってくれるんだって。住み込みだと余分なお金も掛からないし、料理人になれればいつかは自分の店を持つことも出来るかもしれないし、良い条件だと思わない?」
「うーん、そう言われればそんな気もするけど…。ただ、私は敬史と一緒に暮らせなくなるのがちょっと…。ねえ、他の働き口も探してみて、それから決めても遅くはないんじゃない?」
「ごめん、コーチには前向きに考えますって言っちゃったんだ。姉ちゃんも喜んでくれると思ってさ。だから、今から他をあたると言うのはちょっと…。」
「そっか…。」
結局、敬史は姉を押し切り、三日後には東北にある料理屋に向かっていた。
料理屋は予想していた以上に規模が大きく、板前が五人、下働きも敬史のほかに二人いた。店に着く早々、挨拶もそこそこに仕事が始まった。掃除、皿洗い、荷物運びなど、店で生じる雑事一切を敬史たち三人でこなしていった。まだ入ったばかりで要領を得ない上、脚の悪い敬史は他の二人に比べて仕事の効率が悪く、何かと言うとすぐに怒鳴られる始末だった。それでも一ヶ月も経つとそれなりに仕事の要領を得て、何とか他の二人の足を引っ張らない程度の仕事が出来るようになりつつあった。そして、ある程度仕事がこなせる様になると周りのことも少しづつ見えるようになってきた。例えば、夜中に仕事を終えた後、敬史は疲労困憊ですぐに店の裏手にあるアパートに帰ってしまうのだが、他の二人はすぐには部屋に帰ってこない。いつも不思議に思っていたが、ある日、彼らがどこで何をしているのか様子を探ってみると、彼らは先輩の板前たちが夜中に試行錯誤しているところを食い入るように見つめているのだった。他の二人は敬史より年下だったが、料理人を目指していることは聞いていた。きっと料理人になりたい一心で、自分の睡眠時間を削ってまで努力しているのだろう。それに比べて自分は…。自分の中途半端な生き方に嫌悪を感じる敬史だった。
また、料理のことなどまるでわからない敬史は、符牒や料理のいろはを覚えるのにも難儀した。お陰で、しょっちゅう間違えては先輩から怒鳴られる日々を過ごしていた。特に板前の一人、佐々木には何かと理由をつけられては怒鳴られ、ひどい時には物が飛んでくるようなことさえあった。佐々木はまだ若い板前で、敬史とはほんの三~四歳しか違わなかった。それとなく仲居さんに聞いてみると、十五でこの道に入った佐々木は、下働き時代にかなり苦労をして今のポジションを手に入れたらしい。だから、二十近くで下働きとして入ってきて料理人になろうとしている敬史のことが気に入らないらしく、何かとあたってくるのではないか、ということだった。そう言われても今の自分には他に行く当てもなく、ここで頑張っていくしかない。多少の嫌がらせには我慢しようと決める敬史だった。
我慢する事を決めた敬史だが、毎日のように続く、八つ当たりのような佐々木の態度にはどうしても腹が立ってしまう。そんな時は仕方がないので街に出て憂さを晴らそうとするのだが、夜の街では百九十センチの体躯と杖を突いて歩く姿はある種異様で、道行く人々の視線を集めてしまう。そして、時間を持て余している喧嘩っ早い学生やチンピラたちに絡まれてしまうのだった。普段は喧嘩などしない敬史だが、店での嫌がらせや、自分の体がままならない事によるストレスがない交ぜになって破裂しそうになった時には、ついつい相手をしてしまうのだった。バスケットで鍛えた体躯から繰り出されるパンチは破壊力があり、大抵の相手は一撃で吹っ飛んでしまう。だが、喧嘩慣れしている相手の場合、ハイエナのように敬史の脚が良くない事に目ざとく気づき、執拗に脚を攻撃し始めることが往々にしてあった。そして、数多くのハイエナに弱点を狙われたライオンのように、最後には餌食になってしまうことも度々だった。
そんな日々を過ごす敬史だったが、姉には心配を掛けないよう、
「上手くやってるよ。店の人にも良くしてもらってるし。」
と偽りの報告をしていた。
その後も何とか我慢しながら働いていたが、ある時、ちょっとした事件が起こった。敬史が外出から戻ると、店の中が何となくざわついた雰囲気に満ちていた。
「どん、ど、どん、どん、ど、どん、…。」
嫌な気分にさせる音が聞こえてきた。
”良くないことが起こる。”
店の中では女将さんをはじめ、関係者がほぼ全員集まって何やら話をしていた。近くに下働きの勇次がいたので聞いてみた。
「何かあったの?」
「常連さんから集めてきたお金が無くなったらしいんだ。調理場の入り口に置いたバックが無くなったらしくて、その中に二十万円ほど入った封筒があったんだってさ。」
「ふーん、調理場の入り口だと、外の人はほとんど入ってこないじゃないか。」
と、その時、いつも敬史に因縁をつける板前の佐々木が大声をあげた。
「おい、そこ、何べちゃくちゃ喋ってる。」
嫌な予感がした。
「お、敬史、お前、知らねえか。女将さんのバッグが無くなったんだよ。」
「いえ、知りません。そもそも俺、今帰って来たばかりですから。」
「なに口答えしてるんだ。そいういやお前、金に困ってるとか言ってなかったか。」
「そ、そんなこと言ってませんよ。」
「本当か?夜中にこそこそ街まで遊びに行ってるの知ってるぞ。街で女でも抱いて、金が足りねえんじゃないのか。それで、つい手が出ちまったんじゃないのか。」
「そんなことないですよ。勘弁してくださいよ、佐々木さん。」
皆の前である事ない事言われて、挙句の果てにバッグを盗ったと言われて敬史は焦った。皆の視線が半信半疑で突き刺さってくるのがわかった。
「何かおどおどしてるな。やっぱりお前が盗ったんじゃないのか?」
佐々木が近づいてきて、挑発するように耳元で言った。
何か言い返そうとしたが、皆の視線が益々強くなったように感じ、思わず絶句して立ち竦んでしまった。
「ほう、何も言い返せないところを見るとやっぱり怪しいねぇ。今ならまだ皆も許してくれるかもしれないぜ。早く白状しちまえよ。」
頭の中が真っ白になった。周りの景色も何も見えなくなった。どれくらいの時間が経ったのかわからないが、急に佐々木の大声が聞こえてきた。
「痛ぇ!何しやがんだ、こいつ。」
急に視界がクリアになった。そこには、押さえた右腕の下から血を流して、憎々しげに敬史を睨みつける佐々木がいた。そして、ふと右手で何かを握り締めている事に気づいて視線をやると、そこには、紅い血の着いた刺身包丁がギラリと鈍い光を放っていた。
佐々木の傷は大した事なかった。後から聞いた話では、敬史が急に身近にあった包丁を握って振り回した際に、佐々木の右腕を掠めたらしい。しかし、事を重んじた社長が警察を呼び、敬史は傷害罪で逮捕された。これも後で聞いた話だが、バッグは女将さんの娘が気づいて部屋に持っていったが、友人から連絡があり、母親にそのことを告げずに出かけてしまったらしい。結局、集金したお金も無事だったと言われたが、後の祭りだった。
裁判では、初犯であることや事件の起きた状況を鑑み、軽い刑罰になることが予想された。しかし、被害者である佐々木はきっちりと被害届を出し、かつ、敬史を糾弾した。また、敬史も頑なな態度を取った為、量刑は思った以上のものとなった。懲役二年、裁判長の重厚な声が法廷内に響くのを聞き、恵美子は傍聴席で涙を流した。
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