姉二十歳、弟十八歳

高三の春に全国大会を連覇したチームの中でも、突出した技とパワーを見せ付けた敬史。大学やプロチームからのアプローチが頻繁に行われるようになり、NBAへの挑戦と言う夢の舞台も現実的に思われてきた。そして、秋の大会が始まる頃には国内でもトップレベルのプロチームから内々の挨拶があり、事実上、入団が決定したのだった。


そんな頃、敬史は学校帰りに見知らぬ男から声を掛けられた。最近では自分が知らない人でも、相手はこちらのことをマスコミなどでよく知っていることがあるから対応については注意するよう、常日頃、監督から言われていた。その男もそういった類の人間だろうと思い、慎重に相手の出方を伺うことにした。

「初めまして、唐突に申し訳ありませんが、川島さんですよね。」

「ええ、川島です。失礼ですがどちら様でしょう。」

「私、川島さんが養護施設にいた頃に一緒にいた大川麗の父親です。」

「大川麗…さん。」

一瞬わからなかったが、麗という名前で思い出した。何故だか、背筋が冷えていくのを感じた。

「父親といっても、その当時は既に妻と離婚してましたから、施設にも行った事はないんですけどね。」

どう答えてよいのかわからず黙っていた、というよりも、言葉が出なかった。

「当時は別れた妻と連絡が取れない状況でして、娘の死を知ったのも、数年経ってからのことでした。」

川原の秘密基地でのことが脳裏に浮かんできて、何故だか冷や汗が流れ始めていた。

「そんな状況ですから川島さんがあの施設にいた事もつい先日まで知りませんでした。たまたまスポーツ紙で特集された川島さんの記事を読んでいたらあの施設のことが出ていたものですから、もしかして麗の事を知っているのではないかと思いまして。もしそうであれば少し話を聞かせてもらえないだろうか、と思って来た次第です。」

数年前に何度も夢で見た麗の顔が目の前にいる男の顔とだぶり、訳の分からない恐怖が込み上げて来た。

「ぼ、僕は何も知りません…。」

やっとのことで声を絞り出すと、知らぬ間に駆け出していた。必死に走り、どこをどう走っているのかもわからないくらい頭の中はパニックに陥っていた。だから、そこが交差点であることにも気づかず、スピードを落とすこともなく飛び出してしまった。不運なのか運命なのか、そこにはごく普通にトラックが迫って来ていた。


右膝粉砕骨折、入院期間は三ヶ月に及び、二度の手術を経て退院することは出来たものの、バスケットはおろか、杖なしでは歩くこともままならない大怪我だった。高校卒業まではまだ三ヶ月あったが、バスケットが出来なくなってしまった敬史は、学校に残ることが辛く、ほぼ退院と同時に高校を中退して実家に帰って来た。


「敬史、何があったの?お前が訳もなく交差点に飛び込んでいくなんて、お姉ちゃん、信じられないよ。」

「…」

敬史は黙って目を閉じたまま、姉の問いかけに答えようとはしなかった。


敬史は麗の父親の事は決して姉に話してはいけないと考えていた。何故かは分からないが、その事を話すと姉の身に何か良くない出来事が降りかかるような嫌な予感があったからである。


敬史が帰ってきてから三日目、夕飯を食べてお茶を飲んでいる時、恵美子が勤める会社の社長が訪ねて来た。こんな時分に何だろうと思ったが、社長はすぐに帰り、恵美子が慌てて出掛ける仕度を始めた。

「お姉ちゃん、こんな時間にどこか行くの?」

「う、うん、ちょっと友たちに会ってくる。すぐに帰ってくるから、敬史は先に寝てていいよ。」

そう言うと慌しく出掛けていった。何となく敬史と視線をあわせるのを避けてたようにも感じたが、気のせいだろうと思い、テレビを見るともなく、何をするでもなく、ぼんやりと過ごしていた。すぐに帰ると言って出掛けた姉は、日付が変わる頃にようやっと帰って来た。

「遅かったね。」

「なんだ、まだ起きてたんだ。」

「お姉ちゃん、結構、遅くまで遊んだりするんだ。」

「そんなことないよ、今日はたまたま。あ~あ、疲れた。私、明日も早いからもう寝るね。」

敬史の返事を聞く間もなく、以前は祖母が使っていた自分の部屋に入っていった。いつもの姉らしくない態度に違和感を覚えたが、三年近く別々に暮らしていたのだから姉も変わったのかもしれない。その晩は、そう考えて敬史も床に着いた。


翌日、久し振りに家を出た敬史は家の前を掃除している石川のおばちゃんに会った。

「どうだい、足の方は。」

「うん、なんとか歩けるって感じかな。」

「ちゃんとリハビリしてるのかい?」

「うーん、…。」

「敬ちゃんがどれくらい落ち込んでるかはおばちゃんには良く分からない。けどさ、起きてしまった事実はどうしようもないんだよ。敬ちゃんにはつらいことだろうけど、今は、一歩づつでも構わないから前に進まないとね。」

「うん、、ありがと。」


リハビリを兼ねて町内を散歩して帰って来た時、石川のおばちゃんは既に掃除を終えたらしく、家の前には誰もいなかった。門扉を開けて郵便受けを覗こうとしたら、中に入っていた郵便物が勢い余って地面に散乱してしまった。言う事を聞かない足をどうにかして郵便物を拾っているとき、門扉の向こう側を歩く人の声が聞こえてきた。向うからは門扉の影になっていて敬史の姿が見えないらしい。

「川島さんの娘さん、東邦電気の社長さんと関係あるのかしら?」

「え、知らなかったの?二人の関係は街中が知ってるのかと思っていたわ。今のご時勢、自分の小遣い銭欲しさにホテルに行く子はいても、自分の弟の為に身を投げ出すなんて、やりきれないわよね。」


敬史には最初、何のことかわからなかった。しかし、通り掛かりに交わされた言葉を反芻していくうちに、昨夜の姉の態度が甦った。もしかして姉は社長と…。石川のおばちゃんに聞こうと思って家のベルを鳴らしたが、買い物にでも出たのか、チャイムに反応する声は聞こえて来なかった。


恵美子がアルバイトを終えて帰って来たのは十時過ぎだった。

「ただいまぁ。」

恵美子が茶の間に入ると仏頂面をした敬史が睨むようにして恵美子を見ていた。

「どうしたの、怖い顔して。何かあったの?」

「姉ちゃん、夕べ出かけた時、誰に会ってたの?」

「誰って、会社のお友たちよ。それがどうかしたの?」

「なんて名前の人?」

「何よそれ、お姉ちゃんのこと疑ってるみたいな言い方して。」

「社長さんに会ってたんだじゃないの。」

「えっ、そんなことないわよ。何であんな時間に社長に会わなくちゃいけないのよ。変なこと言うわね。」

「本当に違うんだね?」

「もう、好い加減にしてよ。私、明日も早いからお風呂入って寝るわよ。」

心の中の動揺を見透かされそうで焦った恵美子は、一時でも早くその場を離れたくなり、風呂場に急いだ。部屋を出る恵美子の後姿には、明らかに疑っている敬史の視線が浴びせられていた。


二日後、食事を終えた恵美子が出かける仕度を始めた。

「姉ちゃん、どこか出掛けるの?」

「う、うん、ちょっとお友たちのところに行って来る。」

どこかギクシャクした感じで出掛ける姉の姿を見て、敬史は居た堪れない気持ちになってきた。もし、姉が社長の愛人になっているとしたら、愛人になった理由が自分の高校生活を支えるためだとしたら、自分は一体何の為に東北くんだりまで行ったのだろう。選手として大成したならまだしも、自分の不注意で選手生命を断ってしまった。しかも、高校を辞めてから何をするでもなく、未だに姉に頼り切って迷惑を掛けている。

”俺は一体、何をやっているんだ…。”

今にも叫びだしてしまいそうな敬史だった。


三日前の晩と同じくらいの時間に表で車の止まる音がした。慌てて玄関を出てみると、車から降りてくる姉の顔がタクシーの車内灯でうっすらと浮かんで見えた。ままならない足を引きずる様にしてタクシーに近づくと、怯えたような顔でこちらを見ている姉を横に押しのけ、車内に座っている男の襟首を掴んだ。足は自由にならないものの、バスケットで鍛えた体には六十過ぎの痩躯な体を引きずり出すのは訳もなかった。

「俺の大事な姉ちゃんをどうしようっていうんだ!!」

引きずり出されて道路に尻餅をついたままの老人は、自分の目の前に立ち塞がる、小山のように大きな男に威圧されて身動き一つ取る事が出来なかった。一方、何も言わない老人に対してある種の恐怖と憎悪を感じた敬史は、自分の姉を守りたい一心で老人に向かって平手を振りかざしていた。

「バチッ!」

すごい音がしたかと思った瞬間、尻餅をついていた老人が横っ飛びに倒れた。その衝動で老人の自衛本能にスイッチが入ったのか、痛みも忘れて慌ててタクシーの中に飛び込んでいった。

「は、早く車を出してくれっ!!」

叫ぶようにして運転手に言うと、タイヤを鳴らしてタクシーが発信していった。そのテールランプの赤い灯を見るともなしに立ち尽くしていた敬史は、生まれて初めて人を殴ってしまった事にショックを受け、昼間聞いた悲しい噂話が本当だった事に愕然としていた。

「敬史・・・、ごめんね。」

姉のその一言が敬史の心の中に突き刺さり、敬史の両目からは大きな雫が滴り落ち始めた。その姿は、まるで幼子が姉に叱られて、許しを請うような泣き方にも見えた。


恵美子は町工場を解雇されたが、何ら文句を言うでもなく、すぐに近所のスーパーでパートを見つけ働き出した。スーパーのパートとラーメン屋のアルバイトに明け暮れる恵美子だったが、敬史に向けられる顔は翳りのない爽やかな笑顔に変わっていた。敬史は自分のした事に悔いを残しながらも、その笑顔に救われる気分になった。

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