姉十六歳、弟十四歳
家の中の雰囲気が暗くなり、会話も大幅に減ったまま一年が過ぎた。恵美子は万引きで補導されてからは表立って悪さをすることはなくなっていたが、祖母や敬史、そして学校のクラスメートともほとんど口をきかなくなっていた。そして、春、敬史が中学に入学して姉弟は揃って同じ中学に通うようになった。
中学に入ると敬史はバスケット部に入った。祖母の家に引き取られてからは野山を駆け巡って遊んでいたこともあり、入学したら思い切り走り回れるバスケット部に入ろうと決めていたのである。そして入部から三ヶ月。バスケット初心者の敬史ではあったが、足の速さと勘の良さが認められ、夏の新人戦のメンバーに選ばれた。そして、迎えた新人戦では経験者以上の活躍を見せ、チームに大いに貢献したのである。これをきっかけに部内での敬史の評価はうなぎ登りに高まっていき、秋の大会ではレギュラーになるんじゃないかという声が、恵美子のいる教室にまで届くようになっていた。
ある日、恵美子が家に帰ると茶の間で所在無げにしている敬史の姿があった。その後姿が気になったのか、珍しく恵美子から声を掛けた。
「今日は部活はないの?」
「あ、姉ちゃん、お帰り。今日は調子が悪いと言って帰ってきちゃった。」
「どうしたの?どこか体の具合でも悪いの?」
「そういうわけでもないんだけど…。」
「秋の大会ではレギュラー確実と言われてる我が校一の注目株がどうしたのよ。」
「うん、実はさぁ、そのことなんだけど・・・。」
「そのことって、注目株ってこと?」
「うん。姉ちゃんは僕が音を聞いてその後に起きる事を予測できることを知ってるよね。」
「うん、変なことも予測されちゃったしね。」
「あの時はごめん。ただ、それっていつもいつも出来る訳じゃないし、自分で意識して出来るわけでもない。ところが、バスケットを始めたら、毎日のように音が色んな事を教えてくれるんだ。特に試合の時には、ほぼ百パーセント。」
「色んなこと?」
「そう、例えば、相手デイフェンスや味方のメンバーの動きだとか、パスコースだとか…。」
「それって、ゲームの先が読めるって事?」
「そう、だから僕みたいな初心者でもある程度活躍することが出来るんだ。でも、これって何だかずるいんじゃないかな。」
「ずるいって、音が教えてくれるから?」
「うん、他のみんなはそんなことわからないのに、僕だけ先がわかっているって、不公平な気がして…。」
恵美子は俯き加減に話す敬史を、優しい眼差しで、包み込むように見つめいていた。
「そんなことないよ。」
「えっ?」
「敬史が音で色んな事を判断出来るのは敬史の才能だよ。だからその才能を駆使してバスケの試合で活躍するのは不公平でも何でもない。もっと自信持って、胸張ってレギュラーの座を獲得してごらんよ。」
「才能…。」
「敬史、人間はね、みなそれぞれ個性があって、能力にも差があって、そういった個性や能力を活かしきった人が選手になったり、何かの代表になったりするんだと思うよ。中にはすごい能力を持ってる人が、その能力を活かしきれずに目的を達成できない事だってあるかもしれない。だけど、目的を達成できないことよりも、能力を発揮しきれないことの方が悔いを残すような気がするな、お姉ちゃんは。」
「能力を発揮する…。」
翌日から敬史の帰りが遅くなった。そして、今までも部活をやってから帰ってきてたので、家に着くと疲れた様子はあったが、最近は、家に着いた途端に倒れるんじゃないかと思うくらい疲れているのがわかる様になった。きっと、今まで以上に練習に集中して自分を追い込んでいるのだろう。いくら能力があっても、その能力を活かす技術や体力がなければレギュラーを獲得するのが難しい事に気づいたのかもしれない。ろくでもない姉の話したことを素直に聞いてくれた弟に感謝すると同時に、あんな事を話した自分を思い出して照れ臭い気分になる恵美子だった。
いよいよ秋の大会が始まり、順調に調整が出来た敬史は、無事、レギュラーの座を射止めた。大会でもチームを引っ張る大活躍を演じ、遂に我が校初の優勝を遂げたのである。
恵美子は試合を観に行かなかったが、敬史の活躍は学校中で話題になっており、普段話しかけてこないクラスメートまでもが敬史のすごさについて話しかけてきた。そのお陰で恵美子は敬史がどんな活躍をしているのかほとんど知ることが出来た。すると、弟のことなのに何だか自分まで嬉しくなってきて、暗く澱んでいた心の闇に一筋の光明が射しているような気になってきた。
「私も頑張ってみようか…。」
秋の大会の優勝を祝って、川島家の夕餉は敬史の好物が並ぶご馳走だった。そして久し振りに恵美子が会話に加わって、夕餉はとても楽しい雰囲気になっていた。すると、恵美子が唐突に言った。
「私、高校受験してみようかな。」
思わず祖母と敬史が互いの顔を見て、その後、二人の視線は恵美子に注がれた。
「何、そんなに驚かなくてもいいじゃない。どうせ気まぐれなんだから、明日にはやめちゃうかもしれないし…。」
照れ隠しか、鶏のから揚げをほう張り、顔を赤らめる恵美子。
「頑張ってごらん。今からだと大変かも知らんけど、お前が頑張るんなら応援するから。」
祖母が素っ気無い振りで答えた。
その日から恵美子は今までの分を取り戻そうと必死に勉強をした。悪友からの誘いも一切断り、朝昼晩と寸暇を惜しんで勉強した。それでも中三のこの時期までさぼっていたつけは大きく、年が明けても、まだまだ手をつけていない部分が多く残っていた。
「やっぱり無理かなぁ。まだ、こんなに手をつけてない箇所があるよ。」
「まだ二ヶ月近くあるから大丈夫だよ。正直、姉ちゃんがこんなに頑張るとは思わなかったけど、このペースでやっていけば必ず受かるさ。」
炬燵に入って話す二人。姉がこつこつとテーブルを叩く音、敬史にはその音が悲しく聞こえる事を姉に言えずにいた。
「私の受験、敬史には聞こえないの?」
「うん、聞こえないみたいだね。ごめん。」
「何謝ってんのよ。聞こえないんじゃしょうがないじゃない。」
迎えた受験の日、何とか出題範囲はすべて勉強した。十分とはいえないかもしれないが、これだけ勉強できた事に恵美子自身、悔いはなかった。
家を出て駅に向かう途中、以前よくつるんでいた仲間の知り合いが話しかけてきた。
「恵美子、恵美子、どうしよう。さっきまで今日子とデニーズにいたんだけど、変な連中に絡まれちゃって。二人で逃げようとしたんだけど、あいつ逃げ遅れちゃったよ。」
「え~、何それ。変な連中って何よ。」
「何だか、どこかの族みたいだったな。四人いてさ、駐車場に改造バイクやらがあったよ。」
「近くに誰かいないの?」
「聡ならまだ寝てると思うから呼んでくるよ。恵美子、様子見てきてくれない?」
「え、私これから受験なんだけど。」
「何よ、仲間を見殺しにする気?最近、付き合い悪いとは思ってたけど、そこまで性根が腐っちゃったんだ。もういいよ。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。」
「受験があるんでしょ、早く行けば。」
「わかったよ。デニーズって、いつものとこでいいのね?」
「え、行ってくれるの?さすが、恵美子。そう、よく行ってたいつものデニーズ。それじゃ、私、聡、呼んですぐに追いつくわ。」
デニーズは駅とは反対方向であり、今から行ったら受験開始時間には間に合わないかもしれない。だけど…。
デニーズに向かって駆け出す恵美子。着いてみると駐車場にはそれらしきバイクなど止まっておらず、店内に見覚えのある顔がふたつ、こちらを見て笑っていた。状況が理解できず佇んでいると、店から出てきた今日子たちが近づいてきて、
「本当に来たよ。はい、ご苦労さん。」
笑いながら遠ざかっていく二人の後姿を見ながら、“自分はここで何をやっているんだろう”、“何の為に受験勉強に打ち込んできたんだろう”、複雑な思いが渦巻いていく恵美子だった。
結局、受験会場にも行かず、高校への進学をあきらめた恵美子。祖母の知り合いの伝を頼り、地元の町工場で事務職として働く事になった。
「高校なんて面倒臭くなったんだよ。」
祖母と敬史に告げた理由だった。偽りの答えであることはわかっていたが、それ以上、話しかけることは二人には出来なかった。その優しさに触れ、声を殺して涙を流す恵美子、静かにひとりで泣き続けた。
恵美子の受験失敗で落ち込んだ敬史だったが、それでも気力を振り絞り、春の大会では秋の大会以上の活躍を見せた。一回戦、二回戦と難なくクリアしたあと、三回戦を翌日に控えた練習後の帰り道、何となく見覚えのある顔をした男が近づいてきた。
「よお、俺の事、憶えてないか?」
「えっと…。」
「まだ小さかったから憶えてないか。養護施設で一緒だった桜田だよ。」
確か三つ年上の男だった。確か姉のいじめには加わっておらず、どちらかというと一人でいることが多い男の子だったはずだ。
「最近、大分活躍しているみたいじゃないか。俺もあの後、親戚に引き取られて、隣町に住んでるんだけど、新聞の地方面とか、ローカルニュースとかで結構取り上げられてるぜ。」
「たまたまです。」
何となく気乗りしなかったが、一方では懐かしさもあり、しばらく立ち話で施設にいた頃の話をした。そのうち、川で溺れ死んだ麗の話が出て、敬史は気分が悪くなってきた。早々に話を切り上げて逃げるようにして家に帰ったが、何故か動悸が治まらず、しばらく横になってしまった。
翌日の三回戦は何とか勝つことが出来たものの、敬史の調子は最悪だった。昨日の桜田との会話に出てきた麗のことが気になり、試合に集中することが出来なかったのである。家にいても気分は優れず、練習にも身が入らなくなった敬史は、ついに次の試合、スターティングメンバーから外されてしまった。結局、春の大会は決勝にも進めず敗退し、その後も敬史の調子は悪くなるばかりだった。春の大会までは大いに評価されていた敬史だったが、一気に調子を落としたことで、壁に当たったとか、ここまでが出来すぎだ、といった批評めいた言葉を交わされる様になってしまった。
恵美子は春の大会の応援には行かなかった。ただ、試合の結果や家にいる時の敬史の雰囲気から、何か悩んでいるのではないかと感じるようになった。
「最近、何かあったの?春の大会頃から元気ないみたいだけど。」
「うーん、元気ないかなぁ、僕。」
「そうね、バスケの調子でも悪いの?」
「最近さぁ、夢を見るんだ。」
「夢?どんな?」
「姉ちゃん、麗ちゃんって憶えてる?施設にいた頃、川で溺れ死んだ。」
「そりゃ憶えてるわよ。あの頃、身近で人が死ぬなんて経験なかったし。ほんの少し前まで一緒に遊んでいた子が亡くなるなんて実感なかったしね。あの麗ちゃんの夢を見るの?」
「そうなんだ。麗ちゃんの顔は良く憶えていないんだけど、寂しそうな顔をした小学生くらいの女の子が僕の方を見ている夢。ただ見ているだけで、その後しばらくすると、すーっと消えて行っちゃうんだけど。」
「ふーん、今までもそういう夢、見たりしたの?」
「ううん、今まではこんな夢、見たことなかった。それに麗ちゃんの事もすっかり忘れていたんだ。だけど…。」
「何か心当たりがあるの?」
「いつだったかな、施設にいた桜田さんに会ったんだ。桜田さんって憶えてる?」
「うん。確か三つくらい年上のおとなしい男の子だよね。」
「そう、その桜田さんと偶然会って、施設の頃の話しをしていて麗ちゃんのことが話題になってさぁ。そしたら急にあの時の事を思い出して、気分が悪くなったんだ。」
「あの時って?」
「僕が麗ちゃんを呼び出して文句を言った時の事だよ。いつの間にか麗ちゃんがいなくなっちゃって、そして三日後に麗ちゃんが亡くなって…。あれって、もしかして僕が突き落としたからなんじゃないのかなとか変な考えが浮かんできちゃって・・・。」
「そんなことないよ。確か麗ちゃんはあの日、親戚の家に泊まりに行ってたはずだよ。だから夕飯の時にもいなかったじゃない。麗ちゃんが川で溺れちゃったのは親戚の家から帰ってきてからだから、翌日か翌々日だよ。だから敬史は何も関係ないよ。」
「そっかぁ。そうだよね、確かにあの日は親戚の家に行ってるって田尻さんが言ってたね。すっかり忘れていたよ。」
「あの時、敬史はまだ四歳か五歳くらいだからよく憶えてなくても不思議じゃないよね。お姉ちゃんなんか、中学校の頃のことも忘れてるよ。」
「ええ、それはまずいんじゃないの。もうボケちゃったの?それじゃぁ、お祖母ちゃんを追い越しちゃうじゃん。」
「何言ってるのよ、冗談に決まってるでしょ。」
他愛もない会話を交わしながら、恵美子は心の奥底に、またもや澱んだ滓が溜まり始めるのを感じていた。しかし、敬史に本当の事を知らせる訳にはいかない。真実は私がずーっと心の奥にしまっておけばいい。
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