「死にたい」から「生きたい」へと至る過程を描くこの物語は、私たちが直面する生の苦悩と死の恐怖を見事に描き出している。
物語は、死を望む心の叫びから始まり、生への渇望へと至る。この変遷は、ただ単に生きることの意味を問うだけでなく、人間の内なる葛藤と成長の過程を深く掘り下げている。
この小説は、一見すると虚無感に満ちた人生からの脱出を試みる若い女性の物語に過ぎないように思えるかもしれない。しかし、その背後には、人間の存在そのものの意義と、絶望の中でさえ見出される希望の光が描かれている。
登場人物たちは、自己の存在を否定され、愛されることのない孤独な生を送る。だが、彼らはそれでもなお、生きることの意味を求め、自らの運命と対峙する。
著者は、主人公たちの内面を丹念に描き出すことで、読者に彼らの心の奥底に潜む葛藤と苦悩を感じ取らせる。
特に、主人公が「死にたい」と願いながらも、最終的には「生きたい」と望むまでの心理的変化は、人間の強さと脆さの両面を浮き彫りにする。
この変化は、彼女が遭遇する人々との関係を通じて徐々に進行し、最終的には彼女自身の内面的成長へと結びつく。
この物語の中で、著者は死と生、絶望と希望、孤独と愛といった普遍的なテーマを巧みに組み合わせ、読者に深い感動を与える。
登場人物たちの運命が交錯する中で、彼らは互いに影響を与え、支え合いながら、自らの内なる光を見出していく。
それは、人間が持つ無限の可能性と、困難に立ち向かう勇気の証である。
夢見し蝶の遺言は、ただの物語ではない。それは、われわれ自身の内面を見つめ、生きることの本質を問い直す機会を与えてくれる。
著者が綴る言葉の一つ一つが、読者の心に深く刻まれ、長く残るだろう。
この小説は、生きることの真実を探求するすべての人々にとって、必読の作品だろう。
褒め言葉の間に縫い付けられる『死にたい』から始まる純文学短編。生と死を儚き虫に喩えつつ、死にたがりの少女と生き急ぐ男の物語が綴られていく、読後感の良い作品です。
ネット小説が普及する昨今『死生観』をテーマに扱う作品は、注目されつつあります。その中で『夢見し蝶の遺言』は、繰り返し読み返すのに適している印象を受けました。純文学は読み手と書き手の感性を研ぎ澄ます分野である為、自由に発信する事が可能な舞台では見逃されがちな傾向があります。しかしこちらは、丁寧なリータビリティで台詞と地の文のバランスが程良く、万人向けに相応しい作りでした。だから当方は三回も読み返したのでしょう。
カクヨムの性質上、読者を限定してしまうという点と、どの層の目にも触れる機会はあるので難解漢字のルビ振りは一考するべき課題がありますが、web短編小説のエンタメとして、純文学はこうで在るべきだろうと思わせる力作です。
哀しくも美しい。蝶のように儚く健気な小説。
これは「死にたい」が口癖のヒロインが、とある出来事を切っ掛けに人生の目標と生きる希望を見出す物語 ――。
そう書くと結末がおめでたいハッピーエンドのように思えるでしょうが、起きた悲劇の傷跡はしっかりとその後の人生にまで深い影響を及ぼしているのです。そこを妥協しなかった点が何よりリアル。
本来なら「死にたい」の対義語として語られるべき祝福の言葉「生きたい」が、この作品ではまったく別の切り口から「重さを伴った呪い」となり主人公の身に返ってきます。その異質さには人生の悲劇的真実ともいうべき、ある種の達観を感じました。
かつては自ら望んだはずの死の救済すらも、歳月が過ぎれば突き付けられる恐怖でしかない。若さと老い、耽美と現実の二面性を兼ね備えながらも、なお美意識を保っていられる作品などそうはないでしょう。
また主人公の恩人となるキャラクターも、ありがちな善人ではなくかなりの毒舌家である点も見逃せません。常人にとっては憎まれ口を叩く嫌な奴でしかないが、その嫌味と行動が孤独な少女を立ち直せらせています。そんな彼のままならない運命には、多くの読者が呆気にとられ「人生とは何か」を考えさせられることでしょう。
総評としては、この作品は人生の苦痛と素晴らしさの両側面がきちんと誤魔化し抜きで描かれているから美しいのです。ちなみに主人公とその恩人の名前は両方フランス語。興味がある方は意味を調べてみましょう。
美しい悲劇。どうせ死すべき身であるのならば美しいだけマシかもしれませぬ。
耽美に酔いしれるだけで終わらず、生と死を踊り切ったこの作品こそ入賞に相応しいものです。