第2話

「相変わらず僕の名前使うの、好きだよなあ、父さん」


 思わず出た独り言は、父が作品を発表する度に零す愚痴のようなものだった。主要人物に「アヤト」または「綾人」という形で僕の名前を付けるのが、父の遊び心らしい。そのせいで、一部のファンからは父の作品は「綾人シリーズ」などと言われる始末だった。ただ名前を使うだけなら良いのだが、インタビューだの後書きだので「綾人というのは息子の名前で」と大々的に公言しているものだから、父へのファンレターの中に混じって、時折「榊守綾人くんへ」という、作品上にしか存在しない僕へ向けた熱烈な文章が送られてくるのだ。小学生の頃は無邪気に喜ぶこともあったが、高校生になった時分、そろそろ自重してくれないかとは感じていた。


 それは、それとして、今回の作品には、他にも問題があった。


「……赤い唇の女って、何だ?」


 物語の序盤や中盤、果ては締めの文に、脈絡なく入り込む『赤い唇の女』――――多分、きさらぎ駅や主人公とアヤトの間には、何も関係のない、何か。物語の登場人物と言うには浮いていて、どちらかと言えば。ある意味、ホラー小説に必要な恐怖成分を含んでいる、不可思議なギミックのようにも思える。書店で販売される予定の文芸誌なのだから、きちんとプロの目は入っている筈だ。その上で掲載されているのだから、父の担当である守道もちさんも、この赤い唇の女に理解を示しているのだろう。しかし、父が今までにこんな不自然な仕掛けを織り込むことはまず無かった。それだけあって、本当にこれは父の書いた小説なのか、息子である僕だからこそ、疑いの目を向ける他なかった。

 いつもの如くアヤトを登場させているし、作者として紹介があるのだから、疑うも何も無いが。

 そうやって、父の久しい駄作に頭を抱えていると、机の上でスマホが震えた。画面を確認すると、件の父がわざわざ僕に電話を寄越したらしかった。

 最近の父は別荘に籠ってばかりで、家に帰ってくることは少なかった。僕が小学校に通っていた頃から、時折そういったことはあったが、ここ数日の父は電話での安否確認すら怠る程ののめり込み様だった。加えてこの一週間、父は僕の安否を確認するのに、指定した時間にメッセージを送るようにと言いつけていた。故に、父から電話がかかってくるという状況そのものが、少々不思議に感じられた。


「父さん、何かあった?」


 スマホの画面を耳に当てる。聞こえるのは荒い息遣いばかりだった。浅く口でするような呼吸音は、僕に返事を寄越さない。


「父さん?」


 何度も向こう側に声をかける。マラソンを走り切った時のような息。ただそれだけが続く。ホラーをメインに活動する作家とはいえ、父がこんな悪ふざけをするようなこと、あるはずがなかった。


「誰ですか、貴方」


 意識的に、声のトーンを落とす。喉から鋭い男声を響かせる。自分が子供であると悟られて、自宅に押し入られても困る。

 そうして僕が次に放つ罵声を用意している時、肉をぶつけるような音がした。直後、息を大きく吸う音が聞こえ、それは息を吐いた。


「……あぁ、すまん。少し、眠くて。ぼーっとしてた。大丈夫か、綾人」


 それは確かな父の声だった。単語の一つ一つに嗚咽のような音が入り込むこと以外は、いつもの穏やかな父の性格が表れていた。


「大丈夫って、僕は特に何も……いつも通りだけど……いや、そっちこそ、どうしたの」

「大丈夫、なら、良いんだ。夕食は、食べたのか?」

「夕食は……え、もうそんな時間? あ、本当だ。見本誌が届いてたから、読んでて忘れてた」

「そう、か。ちゃんと、ご飯は食べ、なさい。さっき、守道君を、そっちに、向かわせた、から」

「え? いつもみたいに出前にしようと思ってたんだけど」

「……なら、守道君と、一緒に、食べな。好きなの、頼んで」


 浅い息継ぎを入れ込んで、父は淡々と僕に語りかける。何処かチグハグな父の言葉が、不安感を煽った。

 もしかして、何か発作でも起こしたんじゃないか。脳の血管が、切れたとか。料理の出来ない父のことだから、別荘でいつも以上の不摂生をしていたのではないか。


「父さん、救急車、呼んだ?」

「救急車、か。必要ないよ……それより、そうだな、なあ、綾人」

「……何だよ」

「小説、面白かった、か」

「小説……見本誌に載ってたやつのことだよね。きさらぎ駅の。そんなことより、父さん、今すぐ病院に行こう。今別荘でしょ? 僕が救急車呼ぶから、乗せてもらって。電話切るよ」


 僕が別荘に救急車を呼ぼうと、電話を切ろうとすると、父は大きく張った声で「待て」と怒鳴った。初めて聞いた父の怒声。驚きのあまり、床にスマホが滑り落ちる。慌てながら再び画面を耳に付けると、父の咳き込むような声と、ヒューヒューという薄い呼吸音が聞こえた。


「綾人、感想を、くれないか」

「何でそんな……あの……また僕の名前使ったでしょ。良い加減やめてくれないかな。流石に自分の名前の人間が死んでた話は頂けない」

「それは、ふふ、ごめんな」

「それ以外は、まあ、良いんじゃない。洒落怖要素強いし。あー……でも、何だろうな。恐怖演出がちょっと僕には合わなかったかも」

「……電車、ひとりぼっちって、怖くない、か」

「いや、それは良いんだけどさ、ほら、赤い唇の女が出てくるじゃん。脈絡なく」


 僕が「赤い唇の女」と唱えた時だった。画面の向こうから、父の息が消えた。コンマ数秒のことだったと思う。一瞬、時間が止まったような気がした。僕の意識が動き出した時、目が覚めるような爆音が耳元で唸った。


「早く逃げろ! 綾人! 早く!」


 鼓膜を破るような父の声。先程の怒声とも、今までの息切れした声とも違う。それは僕に向かって放たれた、一種の命令。状況を理解出来ないが故の硬直。四肢の末端までもが強張って、僕はそのままスマホから流れる音を耳に入れた。


「あ」


 一つだけの音。それは何もかもを諦めたような、そんな父の声。その次の瞬間には、ハンバーグをこねる時のような、肉が絡みつくような音が、僕の鼓膜を震わせた。硬い床か何かに、スマホが落ちる音がした。僕は何故だか声を上げてはいけない気がして、ずっと、息を止めていた。


『…………――――る』


 肉の音が終わる。その次にスピーカーが僕に届けたのは、男とも女とも取れない、微かな人間の声。


『いる。そこに』


 途端、耳元で囁くその声を、僕は部屋の隅に投げつけた。背筋を焼き付けるような、氷海の中に突き落とされたような感覚。それらが全身を支配して、僕は椅子から転げ落ちた。床を跳ねたスマホは、画面が割れていた。それでも未だ通信媒体としては機能している様子で、父との通話画面の上、「着信:守道さん」という表示があった。

 その名前を見て、僕は咄嗟にスマホ握った。知った声を聞いて、安心したかった。震える四肢を抑えて、僕はどうにか父との通話を切った。守道さんからの通話に切り替える。震える唇を噛んで、僕は大きく息を吸った。


「守道さん! 父が! 父さんが!」


 画面の向こうにいる青年の声を待たずして、僕はそうやって叫び散らした。叩きつけた衝撃か、スピーカーからは乱れて意味をなさない音声だけが聞こえていた。そんなこともお構いなしに、僕は何度も助けを叫んだ。そうやって数秒を無駄にしていると、唐突に、スマホの電源が切れた。バッテリーに支障でも出たのか、ほぼ満タンだったはずの電池は切れていた。

 息を整えて、口に空気を入れる。父の逃げろという言葉を思い起こして、震える足で立ち上がった。

 とにかく、何か、何かが起きている。守道さんに、会わなくては。今なら何処にいる。職場か。否、今の状況なら、別荘か。

 リビングから廊下に出ようと、一歩、足を前に出した。ずっと床を見ていた目を、前に向ける。廊下に出る扉は開いていた。冷房の冷たい空気を逃さないために閉めていた筈のそれは、生暖かい夏の外気を部屋に取り込む。

 

『いるって、言ったよ』

 

 耳元で、あの声が囁く。振り返ることも出来ずに、僕は走っていた。一瞬見えた白い顔は、確かに赤い口元を湛えていた。

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