第9話

 自分でもよくわからないまま、僕は崩れた精神をそのままに、波瑠さんの顔を見つめていた。青い蝶の羽ばたきが耳を塞ぐ。そうして呆けている内に、彼は静かに僕の傍へと歩み寄った。


「本当に久しぶり。大きくなったね」


 視線の上に、成人男性の手が置かれる。反射的に、その手の裾を掴んだ。波瑠さんの着る黒いコートは、父が着ていたものと同じ造りで、肌触りでさえそっくりだった。


「えーっと……貴方は……」


 立ち上がれないままの僕の背後から、叔母の声が聞こえた。すると、朗らかな声が彼の肺から震えて落ちた。


「突然失礼しました。僕は溝隠波瑠と申します。榊守道人先生の弟子というか、何と言いますか」

「はあ……道人さんのお弟子さんということは、つまり、作家さんでらっしゃる?」


 掴めない波瑠さんの答えに、叔母は少々の苛立ちを見せながら、そう問う。それでもペースを崩さないまま、波瑠さんは小さくハッと笑った。


。本業は学生ですが。いえ、ね。幼少の時分に、シングルマザーだった母を亡くしまして。その直後に拾っていただいて、衣食住を提供していただきました。綾人君とはその頃に、兄弟のように過ごさせて頂いて。ね、綾人君」


 波瑠さんは笑顔で僕の目を見つめた。これに似た圧を、どうも昨晩も受けた覚えがある。嘘は言っていないし、その通りのことではあるのだが、如何せん、何だか妙に引っかかるところがあった。それでも、僕はただ黙って、こくりと顎を引いて見せた。


「関係者の方から、道人先生の訃報をお知らせ頂きまして」

「あら、それは……」

「三年振りにお話した翌日の、訃報だったので、つい、心配になってしまって」


 その言葉の端を耳に入れる度、また妙な感覚を覚えた。どうにも叔母を牽制しているというか、何処か、悪意があるような。ふと波瑠さんの顔を見てみると、青い蝶の隙間で、彼は口角を上げていた。その表情の全てはわからなかったが、一部分から類推するに、貼って付けたような、作ったような微笑みであることは伺い知れた。それに対して、叔母の口筋には、緊張しているというか、焦燥感のある態度がハッキリと感じられた。


「それで、綾人君。今、時間あるかな」


 叔母の言葉を全て押しのけて、波瑠さんは笑った。黒子が零れるように上下して、無理に口角を上げたのだということがわかった。


「は、はい。その、僕も色々、聞きたいです」


 そう言って、僕は彼の周囲で舞う青い煙の蝶を目で追った。一瞬、波瑠さんの顔が強張ったように見えた。彼は「わかった」と小さく返すと、僕の肩を二回ほどぽんぽんと叩く。そのまま靴を履くようにと視線を流した。


「すみません、叔母さん、ご飯食べられなくて。ちょっと行ってきます」


 止められるよりも前に、僕は靴を手に取っていた。庭を裸足で駆け出して、アスファルトの上で靴を履く。後ろから、叔母の小さな金切り声が聞こえた。勘は当たっていた。少し無理矢理だろうが、こうでもしなければ、きっと叔母を振り払って、波瑠さんに着いていくことは出来なかった。

 悠然と、尚且つ早歩きで、波瑠さんは足を動かす。その背は黒いコートで大きく見えた。実際、身長は三年前――当時高校入学直前だった彼と比べて、かなり増えている。細い手足がちらちらと見えては、きちんと食べているのだろうかと、父の不摂生まで真似していやしないかと、思考が廻った。そんな言葉の一つ一つは、喉の奥で転がっては、強い痛みと共に胃に戻る。というのも、波瑠さんの隣には、見知らぬ青年が一人、同じ歩幅で歩いていたからだった。


「近くに兎月さんが車持ってきてくれてるから」


 振り返りもせずにそう笑う波瑠さんは、意図的に隣に目を向けないようにしているように見えた。そんな存在を無視されている青年は、確かに質量を持っていた。昨日今日と、自分の視界に自信は無いが、恐らくこの青年は質量を持って存在している。その証拠に、彼の足には影があって、スニーカーが砂利を踏む音だって聞こえた。

 不意に、青年と目が合う。彼は翡翠のような瞳に僕を映すと、ケラと軽快に笑った。


「溝隠に師匠がいたとは思わなかったな」


 その特徴的な赤毛を揺らめかせて、青年は波瑠さんの前に顔を出した。波瑠さんが溜息を吐いたのがわかった。ほんの僅かに、速度が穏やかになって、僕は波瑠さんを壁のようにして、青年の顔を覗いた。


「綾人君だっけ、初めまして。僕は韮井識。溝隠の……仲間? 友達かな? よろしく!」


 目鼻立ちのハッキリした彼――識さんは、溌剌とした笑顔を僕に向けた。その勢いに押されてしまいそうで、僕は「はい」とだけ呟いて、顎を引いた。


「君と友人になんてなった覚え無いよ」


 少しの間を置いた後、波瑠さんは冷たく言い放った。溜息が混じったそれは、少しの疲労感を伴っていた。初めて見る彼の表情に、手の先が冷えたのがわかった。


「じゃあどう呼ぶ」

「赤の他人だろ」

「そうだとしたら、今一緒にいる理由は」

「君が勝手について来ただけだ」


 肩をすくめて、識さんは僕と目を合わせた。


「アイツ、昔からあんな感じ?」


 彼の指が指し示す先、一歩先を行く波瑠さんは、大通りの路上駐車を眺めているようだった。


「父さんと話す時は、少し、今と似てたかも」

「じゃあ、昔から不器用なわけだ」

「そうとも言うんですかね」

「そうじゃない? 僕が見てる限りは、そんな感じがする」


 識さんはそうやって、ニヤリと唇で弧を描いた。白い肌が夏の日差しを反射して眩しかった。彼の印象は、何処か波瑠さんとも似通っていて、成程、隣にいて上手く噛み合うだろうとは予想できた。


「……深い、関係なんですか」

「僕とアイツが?」

「違うんですか」

「どうだろ。まあ、色々と普通じゃない事はしてきたかな、一緒に」


 僕の精神を手で転がす様にして、識さんは再びパッと口を開けて笑った。そこに悪意は無いが、どうも、大っぴらに言うことでもないということらしい。彼は目線を僕から波瑠さんに移動させると、小さく「行こ」と呟いた。その視線の先では、車から降りた兎月さんと、波瑠さんが僕に手を振っていた。


「実際、勝手について来たってのは合ってるんだよ。僕さ、君に用事があって」


 早足で速度を合わせた時、識さんはそう言って、僕を見下ろしていた。その真意もわからないまま乗せられた後部座席は、昨晩の空気が染みついたのか、少しだけ血の匂いがするような気がした。

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