二章

第8話

 霞む視界の中にあるのは、いつもと違う皿と、他人が作った朝食。昨日までとは違う風景。昨晩までとは違う部屋の匂い。部屋に充満する甘い薔薇の香りは、いつも無香の自宅で過ごしていた僕には、異臭にすら感じられた。


 ――――でも、そうだ。僕は居候なのだ。文句は、言えない。


 脳内ですら辿々しく、僕は言葉を作る。仕方がない。昨晩から一睡も出来なかったのだ。意識は無くとも覚醒はしていたのだ。睡眠不足の脳では何も考えられなくて当たり前だ。


「綾人君、やっぱり、食欲わかない?」


 飛びかけていた意識の外、心配そうに僕の顔を見つめているのは、叔父の織幡きよしだった。キッチンで続々と料理を作っている叔母の姿を横目に見ながら、彼は一瞬怯えたような表情を作ると、目を細めた。


「無理しなくて良いから。色々あって、まだ気が滅入ってるでしょ。食べたいときに食べれば良いよ」

「ありがとうございます。でも、その……いつもこんなに作るんですか、叔母さんは」


 目の前に広がる料理の数々に、僕は少しの吐き気を交えながら、そう問うた。すると、叔父は肩をすくめて、困った様に笑った。


「美登里さんも心配してるんだ。ほら、顔を合わせるのも数年振りだろう。しかも君と食事するなんて、初めてだし。何が好きかもわからないから、手あたり次第作ってくれてるんだよ」


 そうですか。と僕が唱えると、叔父は皿の一つに手を付けて、黙々と食物を処理していった。目玉焼きに冷凍ハンバーグ、チキンソテーとミートスパゲッティ。おにぎりと卵焼き、数種類のサラダ、焼かれたソーセージとボイルされたソーセージ。成程、手あたり次第という単語が良く似合う風景だった。

 脂質と糖質のコントラストで、再び胃を焼く。そんな暴力的な視界に、白く細い手が、ぬっと入り込んだ。口元を抑えながら、僕はちらりと横に目線を向けた。

 僕の目の前にあった白米に箸をつけるのは、一人の凛とした少女だった。彼女は母親に似た高い鼻に皺を寄せながら、その鋭い目線で僕を見た。


「何」

「あ、いや、その、僕のお米」

「アンタ食べないんでしょ。勿体ないから貰う」


 ぶっきらぼうに呟く少女は、何処か苛立ちを僕に向けながら、唇に箸をつけていく。


「……ありがとう、詩織しおりちゃん」


 少女――詩織ちゃんにそう微笑むと、彼女はそっと目線を反らした。「別に」と彼女は呟いて、再び食事を進めていく。

 僕の一つ下の従妹である彼女は、以前顔を見た時には、まだ小学生にもなっていなかった。僕の隣で背筋を伸ばすこの美しい少女が、あの泣き虫で、ずっと僕にくっついていた鼻たれ娘だったという事実が、未だに理解出来ないでいた。


「詩織ちゃんは、来年高校だよね。志望校何処?」


 話題を繋ぎたくて、他愛も無い言葉を吐いていく。すると、手を止めずに、彼女は無表情に呟いた。


「梅総付属」


 梅ヶ丘総合大学付属高校。それはこの街ではそれなりに偏差値の高い有名私学である。何より、僕が現在通っている高校だ。


「詩織ちゃんが後輩か……部活は? 詩織ちゃん、確か海とか好きだったよね。アウトドア部とかあるんだよ。水泳部も、室内プールで……」


 僕が言葉を繋ごうとしたその隙間。詩織ちゃんはテーブルに茶碗を置いて立ち上がった。食べ残しの無い綺麗な器をその場に、制服のスカートを翻す。


「うるさい。食べられないんだったら喋ってないで部屋に戻りなさいよ。いつまでも母さんをキッチンに立たせないで。後でせっかく作ったのにって言われるの、私と父さんなんだから」


 そう言うと、彼女は小さく背を丸めて急ぎ足で部屋を出た。それを追いかけるようにして、叔母が「ちょっと」とキッチンから顔を覗かせた。


「詩織!」


 叔母が名を呼んだ瞬間、彼女は駆け足で階段を上がっていく。その足音が再び近づいたかと思うと、黒いセーラー服が廊下を駆けて消えていった。


「ちょっと! 何処行くの!」

「図書館! 勉強!」


 玄関から聞こえる娘の声に、叔母は頭を抱えて溜息を吐いた。


「綾人君、ごめんね。あの子、反抗期で」

「いえ……」


 眉間に皺を寄せて、叔母は再びキッチンに消えた。そうして再び大皿を複数テーブルに置くと、詩織ちゃんの残した食器類を回収していく。「残したら夕飯にするだけだから」と微笑む彼女に、僕はぎこちなく口角を上げた。

 ふと、そんな時だった。詩織ちゃんが玄関の鍵を開けたのだろう。そんなガチャガチャという音と同時に、ピンポーンと甲高い音が響いた。インターホンに気付いた叔母が、三度キッチンから駆け出す。それらと同じくして、詩織ちゃんがリビングに戻った。大きく見開いた目は、何かに驚いたようで、少しだけ息が上がっていた。


「はいはい、何方でしょうか」


 セキュリティ画面のスピーカーに声を上げる叔母は、詩織ちゃんのことなど見向きもしていなかった。詩織ちゃんは何かを言いかけると、びくりと肩を震わせて、玄関の方に顔を向けた。そのまま逃げるようにしてリビングに入り込む。


 ――――そんな彼女を追いかけるようにして、一匹の青い蝶が舞っていた。


 それを見た途端に、僕の目は醒めて、霞が晴れる。夜に至る前の空のような青。それはひらひらと舞って、煙のように空気の中に溶けた。吸い込む酸素に混じったそれは、何故だか胸を包むような懐かしさが混じっていた。


「――――失礼、織幡さんのご自宅でいらっしゃいますでしょうか」


 若々しい青年の声が、ノイズの中に聞こえた。スピーカーに向かう叔母は「はい」とだけ答えた。

 セキュリティ画面に映っていたのは、二人の青年だった。どちらも昨晩の刑事のお仲間というふうにも、宅配便のアルバイトにも見えなかった。顔こそよく見えなかったが、どちらかといえばまだ学生のように見えた。

 不意に、その一人の顔に目が行った。正確には、小さな画面に映る、更に小さな黒子が目に入ったのだ。夏だというのにしっかりと着込まれた黒いコートに映える色素の薄い髪と顔。その容貌は美青年と呼んで差し支えないだろうが、如何せん、何故だか輪郭がはっきりとしなかった。目も鼻も口も見えていて、それらがしっかりと主張をしているのに、顔として認識出来ない。そんな中でも、しっかりと、僕はその小さな目元の黒子を捉えていた。


「ど、どなた様? 何の御用?」


 動揺する叔母の声で、僕は思い出す。曖昧なばかりでぼやけた数年前の記憶。そのセピア色の視界にある、目元の黒子と笑う少年。その抱擁と、押し入れの中で聞く叔母の震えた声。

 気が付けば、僕は玄関に走り出していた。唾を飲み混んで、裸足を玄関のタイルで冷やす。鍵の開いていた扉を、ゆっくりと開けた。僕の背中に隠れる詩織ちゃんも、僕と同じようにして唾を飲み混んでいた。

 夏の昼下がり、熱と水分を含んだ空気が家の中に入り込む。その奥、庭と塀の向こう側から、ひょっこりと二つの頭が見えた。その二人の周囲には、青い蝶が大量に舞って、顔を隠す。鮮やかな色彩の中に、僕はあの色素の薄い髪を見出す。


波瑠はる兄!」


 その人の名前を、僕は久しぶりに叫んだ。


「綾人、久しぶり」


 微笑む青年は、僕の覚えている少年時代の面影を残して、蝶の中にはっきりとその顔を見せた。


 溝隠みぞかくし波瑠はる――――かつて、僕の父・榊守道人の弟子だった人。そして、母と姉を失った幼い頃の僕を支えた人だった。

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