外聞:識

第7話

 蝉の鳴き声に脳を掻き回される、七月の終わり。大学に入って初めての期末考査を終えた『僕』は、冷たい廊下を歩いていた。大学構内の中でも特に日差しを拒むこの棟には、その暗い空気感も合間って、人通りが少なかった。一人で歩くリノリウムの床は潔癖とも思えるほどに磨かれて、僕が歩く度にキュッと甲高い音を立てた。

 そうやって足音でリズムを作っていると、目的の扉を見つける。古ぼけた扉のプレートには、『海洋文明学研究室』と書かれていた。教授欄の隣、『調査中につき不在』という文字を視線でなぞった後、その下に目をやる。『准教授・韮井にらいミツキ』と書かれたプレートの隣は、しっかりと『在室』の文字があった。扉の表面を二回叩く。向こう側から「入れ」と短く声がして、僕はドアノブを引いた。


さとる、来たか」


 研究室の奥、一人で静かに珈琲を注いでいたのは、准教授である韮井ミツキ――僕の叔父であった。彼は赤い髪を揺らして、その鋭い翠眼で僕を見た。


「座れ、お前の分も淹れてある」


 叔父はそう言って、デスクの一つに白いマグカップを置いた。デスクチェアを回転させて、脚の長さを主張するように、彼は大胆にも足を組む。その隣、僕は少しだけ背を縮こませて、腰を下ろした。


「調子はどうだ」

「調子も何も、今朝も同じこと聞いてきたじゃん。そこそこ元気だよ」


 それもそうか。と、叔父は鼻で笑った。訳あって、僕は高校入学から今まで、叔父夫婦と生活している。故に、こうして大学で顔を合わせなくても、毎日叔父とは会話を交わすし、話もする。だからこそ、ここでは叔父と甥という関係よりも、教員と学生という間柄が優先されていた。


「テストの方はどうだった」

「う……ま、まだ結果出てないし、特に報告出来ることは……」

「お前は勉学の頭はある方だから、気にしちゃいないが」

「それは、信頼されてるってこと?」

「その認識で構わない」

「光栄なことで」


 自分の唇が引き攣るのがわかった。何処かよそよそしさすら感じられる叔父の言葉に、嫌な予感がしたのだ。

 何か、重たい荷物でも押し付けられる直前のような。或いは会いたくもない人間と会う前日のような、そんな絶妙な匂いがした。


「……それで、何で僕の成績なんて聞いてきたの、叔父さん」

「聞いておかなければならない話を、これからするからだ」

「特待生、取らないといけなかった?」

「そんな高尚なものは求めていない。再履修と再試験が無ければそれで良い」


 いつも通りを装う叔父はまた小さく笑った。その表情は僕の胸の近くで滑って、胃へと落ちる。


「世間話は家で出来るでしょ。本題、早く言ってよ」


 僕がそうやって催促すると、叔父は精神を床に落としたように、虚無を顔に浮かべた。コンマ数秒の沈黙の後、彼は長い溜息を吐いて、懐に手を入れた。


「失せ物探しをお前に託そうと思ってな」


 そう言って叔父が出したのは、数枚の写真だった。『匣』を写した白黒のそれは、古ぼけて鮮明さを失っていた。


「識、『コトリバコ』って知ってるか」


 表情を落としたまま、叔父は僕の目を見た。その答えはイエスだった。


「コトリバコ。インターネットでよく見る都市伝説で、怪談話……或いは、その中に登場する呪物的なもの、細工の施された箱……っていう認識で良いんだよね」

「基本的にはそれで良い」

「じゃ、じゃあ、僕が探すのは、コトリバコってこと? この写真の……実在してたんだね」


 写真の中で動かないその匣を、僕は見つめる。白黒でもわかる程に煌びやかなそれは、僕の知るコトリバコのイメージとは違っていた。インターネットで囁かれるそれは、元々、女子供を害するために作られた呪詛の塊だ。他人を呪うために作られた、子供の指を詰めた残酷で狂気的なもの。だが写真にあるのは、何処か温泉地などで売られているお土産というか、文化的価値のある伝統工芸品といった面持ちだった。


「あぁ、何か勘違いしているようだが」


 ふと、感情を取り戻した叔父が、頬を掻く。その困ったような眉を動かして、彼は再び口を開けた。


「都市伝説のコトリバコそのものじゃない。これは、そのだ」

「元ネタ?」

「本来は誰かを呪い殺すだとか、そんな物騒なものではないらしい。子供の指こそ入ってはいるが、それは既に死んでしまった子供の指、なんだとさ」


 何故だか伝聞式に言葉を吐く叔父は、そう言って写真をまとめた。クリップで端を止め、僕の手の中に放り投げる。何処か面倒そうな彼の表情は、事の軽薄さを物語っているようだった。


「それを探してほしいと言ってきたのは、ここの研究室の卒業生でな。私の兄弟子に当たる人だ」

「つまりってこと?」


 僕の問いに、叔父は静かに頷いた。僕が界隈と呼んだそれは、人間が現実を認識する時に出る副産物――――『怪異』と呼ばれるものが跋扈する世界だ。幽霊、妖怪、都市伝説……呼び名も分類も数多くあれど、その全ては人間の脳と言葉に担保された、形と魂を持った伝承だ。それらに取り憑かれた者、それらの欠片を持つ者。そういった人間の中で、怪異を真理的探求――一般に科学Scienceと呼ばれるもので或いは者。それが叔父のような『研究者』だ。


「兄弟子さんに頼まれたなら、叔父さんがやるべきじゃないか。僕はまだ『研究者見習い』だし」

「驕るなよ。お前はまだ見習いですらない」

「だったら、尚更」

「心配するな。いくら時間をかけても良い。最悪、見つからなくても良いんだ。報酬が出る訳でもないし、優先順位が低い。だからお前に任せるんだ」


 どういうことだろうと僕が首を傾げると、叔父は一瞬、目を伏せた。そうして喉に唾を通すと、彼は再び口を開いた。


「昨晩亡くなったんだ、その依頼人は」


 手指に力が入るのがわかった。返答が出来ないままに、僕は息を飲んで、叔父の言葉を待った。


「同時に、警察の方から私に捜査依頼が入った。私はそちらを担当しなければいけない」

「怪異絡みで死んだ……ってこと?」

「それ以外に何がある」


 眉間に皺を寄せる叔父の表情は、強張っていた。どうにも、動揺が隠せていない気がした。いつもはポーカーフェイスで冷静な彼が、何か、焦っているように見えた。


「叔父さん、何か、隠してない?」


 僕がそう問うと、叔父は困ったように笑って、喉を震わせた。


「隠してないさ。私は」


 そう言って、叔父は珈琲を飲み干した。

 彼の横顔を眺めていると、ふと唐突に、コンコンとドアをノックする音が耳を刺す。叔父が「入れ」と声を上げると、その扉はゆっくりと隙間を広げた。

 突如として、廊下から溢れるのは、青い蝶の塊。それらは鱗粉を煙のように撒いて、空気に溶ける。


「突然失礼します。韮井先生」


 蝶の中からそんな定型文を唱えたのは、一人の青年だった。

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