第6話
「綾人君、あのね、君のお父さんは」
そうやって僕の肩に手を置いた葦屋さんは、静かに声を落とした。
だが、その続きよりも前に、廊下から響く硬い足音が僕の耳を塞いだ。高級そうなハイヒールを鳴らす音。それを聞き分けることが出来たのは、僕の耳が特殊だからではない。単純に、その音を僕は知っていたのだ。
「綾人君!」
勢いよく部屋の扉を叩き開け、僕に駆け寄る女。彼女は葦屋さんを睨むと、僕の肩を掴んだ。
「な、何されたの? 警察に乱暴されたの? 大丈夫だった?」
分厚いファンデーションの粉が、鼻腔を擽る。ヒビ割れたような目尻の皺と、濃い色のアイシャドウ。それらに包まれた目は、僕を自愛で包もうと必死に見えた。
「お、叔母さん……どうしてここに」
狼狽える僕の背中を摩るのは、叔母である
嗅覚細胞が拒絶を諦めた頃、コンコンと机が小さく震えた。震源では葦屋さんがその大きな拳で軽く机を叩いていた。彼は困ったように眉を下げると、パッと大きく口を開けた。
「織幡さんですね。警視庁の葦屋と申します。とりあえず、一度お座りになりませんか。お茶を用意しますよ」
威圧感を押さえつけ、葦屋さんは丁寧に頭を下げた。数秒の沈黙。叔母が小さく溜息を吐くと、それを合図に会議室の扉が開いた。一人の年若い婦警が、叔母の前に紙コップを置いた。中に入った冷たい茶を覗いて、叔母は静かに僕の隣を陣取った。不意に自分の肩に力が入ったのがわかった。葦屋さんの気迫に押された時とは違う、もっと別の生理的嫌悪にも近い不快感が、胃を満たしていた。
「突然のご連絡、混乱されたでしょう」
葦屋さんの一言で、叔母の意識が僕から削がれる。そうしてやっと、僕は息を飲み込んだ。喉の粘膜が乾いて、引き攣るような感覚があった。けれど、そんな主張も声に出せないまま、僕はただ、叔母の言葉に耳を傾けるしか無かった。
「えぇ、そうね。警察に呼び出されるなんて……しかも、道人さんが、亡くなったなんて」
どうやら叔母は、何も知らされないままここに呼ばれてしまったらしい。それが意図的なのか、それとも偶然なのかは、葦屋さんは説明する気は無いようだった。彼は肩をすくめながら、叔母を見下ろしていた。
「どうして道人さんは亡くなったんです? それに、どうして綾人君が、ここに」
「こちらとしてもお伝え出来る正確な情報はありません。なので、説明は後日……としたいところなのですが」
「な、亡くなった状況くらいは」
「確かなことがわかるまでは、お伝え出来ません。既に鑑識などに入ってもらって、調べてはいますが」
「か、かか、鑑識? それは、つまり、事件……道人さんは誰かに殺されたってことですか」
「いえ、そうとは決まっていません。病院以外で亡くなったので、変死扱いになっているだけです。司法解剖など詳細な調査をしてからでないと、お伝え出来ることはありません」
取り付く島を尽く切り捨てていく葦屋さんは、それでいて頬を緩ませていて、何処か作ったような、感情を押し殺したような微笑みを湛えていた。話の端を聞いている限り、どうやら葦屋さんにとっては、叔母がここに来ること自体、想定外のようだった。特に叔母に対して何か伝える気はさらさら無いようで、その顔の端には「早く帰れ」とでも言いたげな筋肉の硬直があった。
「綾人君は、何か知らないの?」
唐突に、叔母がそうやって僕に息を吐きかけた。足の指に力が入って、唇が震えた。叔母の目を視界から外したのは、防衛本能だったかもしれない。彼女の後ろ、葦屋さんに向ける。彼は静かに、人差し指を口元に当てていた。
「ぼ、僕は……何も、知らない、です」
「本当に? あの怖い警察官に口止めされてるんじゃないの?」
口の底から溢れる唾液を飲み込んで、僕は首を横に振った。吐き出したいことはある。引き千切られた父の首。赤い六本指の手痕。あまりにも人間がやったとは思えないその惨状を、一人で抱え込むのは難しかった。それでも、この叔母はその事実を共有するには値しないと、本能でわかった。数年ぶりに顔を合わせた今の彼女は、僕の覚えにある若々しい彼女よりも、ずっと鬱陶しい。何より、僕に向ける目線が、何処か気色悪かった。
「すみません。僕も、頭の中、追いつかなくて。葦屋さんに、介抱してもらっていたところで」
小さい嘘を、唇に落とす。そうして組み上げた薄い壁は、叔母の問いを退けるには十分だったようで、彼女は「そう」と声を落とした。
「とりあえず、今日はもう遅いので」
葦屋さんがそう言って、手を差し向ける。その先には、廊下に出る扉があった。婦警が扉を開くと、叔母は「そうね」と小さく呟いて、僕の手を引き上げた。
「綾人君も帰りましょう。お腹も空いてるでしょ。コンビニで好きなもの買ってあげる」
酷く自然な動きで、彼女は僕を連れ出そうと歩き出す。引きずられるまま、僕は一歩、足を踏み込んだ。
「ま、待ってください!」
唐突の轟音。ビリビリと響いた声は、間違いなく葦屋さんのものだった。その巨躯から放たれた制止の声に、丸まっていた背中を叩かれる。
「何ですか!」
オロオロと驚く叔母は、再び葦屋さんを睨んで甲高く吠えた。
「急に怒鳴らないでください! 綾人君が怖がるでしょ!」
「すみません、いや、あのですね」
「何ですか、私達に話せることは何も無いんでしょう。だったら、帰らせてもらいますよ」
「そりゃ、その通りです。ですが、綾人君まで帰られるのは」
「は?」
止められた意味を理解出来ないまま、叔母は大きく口を開けていた。要領を得ない葦屋は、説明の出来ないものをどう語るか迷っているようで、そのままずっと、口をモゴモゴとさせるばかりだった。
ふと、背後から大きな溜息が聞こえた。それは扉を開け続けていた婦警の息で、彼女は気怠げに二人を眺めていた。
「うるせえババアだな……」
婦警の口から出たのは、そんな汚らしい罵倒だった。よく見れば、どうも彼女は警察官と呼ぶには違和感のある立ち姿をしていた。足元はブランド物のスニーカーで、葦屋さんと同じく乾いた泥がついていた。部分的に窮屈そうな制服は、着慣れていないことがよくわかった。そうして少しずつ目線を上げていくうち、ギラリと光る彼女の目に行き当たった。白い皮膚に埋まった黒真珠が、深淵に僕を飲み込まんとする。そう錯覚する程に、婦警は妖美な瞳をこちらに向けていた。しっかりと結びついた目線は、僕から思考を奪っていた。
「哲学的ゾンビも、一丁前に狼狽えるもんなんだな」
そうやって、女は僕を鼻で笑った。単語の意味すら理解出来ないまま、僕はただ、彼女をぼーっと眺めていた。醜悪な振る舞いをしているというのに、目に映る彼女は、心底美しかった。
「……と君! 綾人君!」
叔母の叫び声に叩き起こされて、僕はその幻想から覚める。いつの間にか婦警は僕から目を離して、右頬が赤く腫れた葦屋さんの隣で鎮座していた。
「行こう! キリがない!」
赤面で眉間に皺を寄せる叔母は、そう言って僕を引きずった。止めることも出来なかった手で、葦屋は宙を掻いていた。僕はそんな彼に一礼して、歩きながら顔を上げた。
――――上下に揺れた視線、会議室を出る一瞬。その僅かコンマ数秒、視界の一部に赤い唇があったのは、気のせいだったかもしれない。
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