第5話

 その後の記憶は曖昧で、覚えているのは自分の吐瀉物の味くらいだった。実の父親の肉を見るという、一生に一度あるかないかという経験をしていながら、その感情や風景をしっかりと記憶できていないというのは、いささか勿体無いようにも思った。その思考が人らしさを欠いているという自覚はある。だが、そう考えざるを得ない程に、僕の脳は混乱の中にあった。


 否、半分、それは夢を見ているようだった。父の血と肉の夢を、僕は見ていたのかもしれない。そう考える脳が、ふわふわととろけて、僕は白い微睡の中にいた。

 気がつけば僕はパイプ椅子の上に座らされていて、目の前には茶が紙コップに入れられていた。自分を覆う空間に見覚えはなかった。いつだったかに見た、高校の職員会議室がこんな様相だっただろうか。十数の長テーブルは長方形に並べられて、その全てにパイプ椅子が二脚ずつ添えられていた。だがその椅子には、僕以外の誰も座っていない。無人の会議室で、僕は一人、ホワイトボードと対面していた。その白い板面に、女の顔が浮かぶのではないかと、酷い妄想が浮いて、僕は目線を下げた。冷たい緑茶が入った紙コップには、僅かに水滴が浮かび始めていた。結露を指先で撫でつつ、僕は下顎に溜まっていた唾液を喉に通した。詰まっていた何かが取れたような、妙な爽快感があった。同時に、耳の詰まりも取れたらしい。カチカチと時計の音が頭に響いた。壁掛けの電子時計を見れば、既に夜は十時を超えていた。

 そうやって上を向いていると、視界の横で扉が開く音がした。かちゃりとノブを捻り、蝶番は鳥の声のようにキィと甲高く響いた。そちらに目を向けると、扉の向こうから黒い人影がこちらを見ていた。


「こっ、こんばんは……」


 驚いたような目が、僕を見下ろす。それは低く重厚だが、若々しい男性の声だった。合った目を下げて、その男の全身を視界に移した。黒い革靴は底が擦れて、僅かに乾いた土がこびりついていた。黒スーツの裾も同様で、どうやら彼は今まで何処か、湿った土のある場所を歩いていたらしい。転じて上半身は白く清潔な半袖シャツで、ネクタイも無く、首元にはじんわりと汗の痕が広がっていた。そこまで見て、ようやく、僕はこの男が筋骨隆々の巨漢であることに気づいた。扉を開ける二の腕は太く、上半身は猫背でもなお、戸口の上に頭が当たっていた。


「えーっと……ごめん、怖がらせた、かな」


 そんな巨躯を更に縮こませながら、男は僕に微笑みかける。黒縁眼鏡を隔ててはいるもののの、何処か鋭い彼の目線が、心臓に悪かった。一歩近づく毎に、男はどんどん目線を下げて、ついには床に膝を立てて僕の顔を見上げた。


「突然ごめんね。俺は、警視庁の葦屋って言うんだ。榊守綾人君で間違いないかな」


 机に腕を置き、葦屋はそう笑った。ぎこちない頬だったが、それでも何故だか、彼が穏やかな性格をしていることは見てとれた。


「はい。えっ、あの、刑事さん……ってことで、良いんですか」

「私服着てるし、一応、そうだね。多分、想像するような感じのそれじゃないけど……あ、手帳とか見とく?」


 僕が首を縦に振ると、彼はパッと困り眉のまま笑って、ズボンのポケットに手を入れた。共に飛び出た煙草を拾い上げ、彼は僕の斜め横に座った。そのまま目の前に置かれたのは、ドラマでよく見るようなあの警察手帳だった。


葦屋あしや……幽冥かくりさん?」

「変な名前でしょ」

「え、あ、いえ!」

「良いんだよ。自分でもそう思ってるし」


 朗らかに口角を上げる葦屋さんの声は、何処かに父性を感じる穏やかなものだった。ふと、それらが心臓に染みる感覚があった。じわりと、目元が熱苦なった。ボロボロと落ちる雫は、決して汗ではなかった。


「……もう少し、落ち着くのを待った方が良かったかな」


 斜め横から聞こえた葦屋さんの言葉に、僕は首を横に振った。後から追いかけてくる感情が、煩わしくて、全てぶちまけてしまいたかった。


「あのっ……ここは、警察……なんですよね」

「うん。会議室を開けてもらったんだ。取調室とかじゃないから、安心して。調書とか取らないし、録音だってしていない。何喋っても大丈夫」


 ホッと胸のつかえが取れたのは、緊張が僅かに解けたからだろうか。それとも、喋って良いのだと、第三者からの許可が降りたからだろうか。そのどちらにしても、僕は涎でも垂れ流すようにして、小さく言葉を漏らした。


「……父は」

「榊守道人さんね……状況、覚えてる?」

「死んだ……んですよね、父は、別荘の玄関で」

「残念ながら、そうだね」


 やはり、あの情景は夢ではなかった。それは確かな現実。引き千切られた父の首と、血の手痕。それらは、僕の網膜へと、確かに焼き付けられていたのだ。


「父は……何か、こう、反社にでも、関わってたんですかね」

「何でそう思うの?」

「え? だって、あんな、首を引き千切るなんて……強盗だとか、怨恨じゃあ、しないでしょ。それこそ見せしめとか……いや、そもそも、人間がそんなこと出来るとも、思いませんけど」

「何で?」


 問いを繰り返す葦屋さんは、一瞬、眉間に皺を寄せていた。すぐに戻った表情筋は、先程までとは打って変わって、何処か仮面のような、作られた感情に見えた。


「何で?」


 静かに、彼は淡々と言葉を置いた。威圧感は無い。けれど、どうしてもその問いに正しく答えなければならないと思った。強迫的と言うのはこういったことを言うのだろう。眼鏡のレンズに、狼狽える僕の姿が反射していた。僕は口角を引き攣らせて、ボロボロと唾液混じりに言葉を溢した。


「だ、だって、千切れてたじゃないですか、首。それに――――」


 電話越しに、肉を千切る音が聞こえたんですよ。そう言うよりも前に、僕は両手で口を押さえた。それは吐き気に対する反射的な動きだった。だがそれを、葦屋さんは無理矢理に解いて見せた。僕の中指を摘んで、外側に反らせる。痛みと力に押されて、僕は大きく息を吸った。


「普通、ああいう死体はね、『首が切り落とされてた』とか、そんなふうに言うんだよ。君みたいに、素人が一瞬見ただけならね。だって、普通、人間の首を引き千切ることなんて、出来やしないんだから」


 口の端から溢れる僕の胃液を、彼は指で拭って見せた。穏やかな表情から漏れ出た殺気のようなものが、僕の脳を炙った。神経の故障か、横隔膜が震えて止まらない。しゃっくりが内臓を押し上げて、その度にまた、口から液体が漏れた。


「君、お父さんのこと、どれくらい知ってる?」

「さささ作家、で、僕の、父で」

「うん、君のお父さんは作家さんなんだよね。俺も学生時代に結構読んだよ」


 和やかに俺から目を逸らした葦屋さんは、立ち上がって、俺に顔を近づけた。それは明確な威圧。もっと喋れという暴力にも近しい命令。「でも、それ以上のことは何も」と僕が声を張ろうとした時、彼はそっと唇を動かした。


「じゃあ、前職は?」


 ぽろりと僕の前に転がった言葉に、質量は無かった。けれど、どうしても頬を殴られたように、ずきりと痛みが走った。


「父さんが作家に、なる前?」


 今の職を得る前の、父。それは僕が僅かにも知らない過去のこと。

 父の作品を全て読んだ僕は、勿論、父が作家になった時期だって知っている。十数年前、丁度、父は母と結婚した一年後に専業作家となっていた。それが父が三十過ぎくらいの頃の話。じゃあ、それまでは、何をしていたのか。


「知らない……何も、父さんの、過去……母さんと結婚する前のこと……」


 ボソリと呟いた音を拾い上げるように、葦屋さんは僕と目を合わせて笑った。

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