第22話

 神と仏は違うのだと、父がいつも言っていたのを思い出す。であるとすれば、この空間は異質だった。神仏の全てが混ざり合って、猫という可愛らしい獣を祀っている。子供が作った粘土細工のように歪で、それでも信仰の叡智として成り立っていた。


「カビ臭いだろう。一晩だけ我慢してくれ。着替えられるものなら、多分布団と一緒に箪笥の中にあるから、少し待ってて」

「ここで……夜明けを待つつもりですか」

「猫神様の御神体が安置されているからね。何処の神様だろうと、猫神様以外はここに入っては来られない。ここが一番安全だ」


 猫神様の御神体。多分、神棚の中、社のようになっている箱の中にあるそれだろう。守道さんの視線は、度々そこに向いていた。当の猫神様は、僕の傍をうろうろと徘徊していた。時折、部屋を囲む襖の前で、毛を逆立てさせて見せる。恐らくはその視線の向こうに、あの人肉蜈蚣がいるのだろう。カリカリ、カリカリ、と、紙の表面を掻く音が聞こえた。


「多分、あの怪異が部屋の外をぐるぐる回ってるんだ。こちらから襖を開けない限りは入って来ないだろうけど……一応、韮井先生達には救援を要請してみる」

「連絡取れるんですか」

「スマホは持って来てるよ。電波は通じてるし、時間の歪みさえ無ければ何とかなる」

「時間の歪み?」

「ほら、マヨイガとか……それこそ、きさらぎ駅の話にもよく出てくるだろう。異質な世界と外とでは時間の流れが全く異なるっていうやつ」


 守道さんはそう言って、仏壇の隣から布団を引き摺り出した。

 彼の言葉には少なからず納得がいった。古今東西、よく言う異界というものに入り込んだ時、その時間がねじれてしまうというのは、よくあることだ。神隠し事件だとか、そういうのと似た事象だろう。実際に怪異の世界にもそういったことがあるのであれば、今この空間は、外界と切り離されている可能性は高い。

 もし、夜明けの時が一年後だったりしたら。それはそれで、また別の意味で問題だろう。そうやって思考を嗜めていると、守道さんはスマホの画面に耳を当てた。少しだけ漏れる表示は、電波の向こうの誰かと通じ合っていることを示していた。


「韮井先生、私です。守道です」


 一際明るくなった守道さんの声は、状況の打破を示していた。彼等の問答を聴くに、どうやら外と内の時間はねじ曲がっていない。その上、韮井先生はこちらに向かっているようだった。弾みのついた声色は、隠れていた不安感を炙り出していた。猫神様が、甘い鳴き声で守道さんの足に頭を擦り付ける。「良かったな」と言っているのだと、直感で分かった。


「……さて、韮井先生が来てくださるまで二時間程度。カリカリカリカリうるさいのもいるし、寝てはいられないかな」


 そう笑って、守道さんは布団の隙間から浴衣を取り出す。白地に浮かぶ朝顔の柄は、仄暗い堂の中でもはっきりとわかった。帯を手渡されて、無意識半分、いつか父が着ていた記憶を半分で、裾に腕を通していった。素肌に触れた布が絹だと理解した時、頭の隅で浴衣一着の値段が浮かんだが、今は考えるだけ野暮だろうと、唾と一緒に飲み混んだ。


「うん、似合ってる。若い頃のお父さんとそっくりだ」


 守道さんの零した言葉は、父の昔を知る人が、よく使う文言だった。成長痛に悩まされるここ数ヶ月は、特にそうだった。きっと、母が今の僕を見れば、同じことを言うのだろう。


「……守道さんって、若い父と会ったことがあるんですね。担当になったのはほんの少し前でしょう」

「若い頃の、と言っても数年前だけど……作家業で関わる前に、祓い屋として、ね。私がまだ学生の頃、韮井先生経由で、この猫神堂を調査にいらっしゃったんだ」


 ふと、守道さんがそう置いて、再び襖の一部を開けて見せた。見たことも無いような古い書籍が、隙間無く詰め込まれていた。その一つを取って、守道さんは再び僕に微笑みかけた。


「何せ、古い家だからね。こういう地域の史料ばかりは残してあって。猫神様が守っているものの中には、こういった書籍も含まれているし、持ち出しが出来るものでもないんだ」

「それで父は、態々ここまで調査に……資料をあたりに来たと」

「そういうことだね。あの頃は……溝隠君もいたなあ、そういえば。今よりずっと愛想が無くて、道人先生以外には目も合わせてくれなくて……嫌なクソガキって感じだった。でも猫神様とはよく遊んでいて。先生も凄くお若く見えてさ、最初は学生だと思って、タメ口で喋りかけちゃって。後から韮井先生よりも年上って聞いた時には、驚いたな」


 若い父の記憶と、幼かった頃の波瑠さん。そんな二人の肖像は、守道さんの語りをもってしても、脳裏に浮かぶことはなかった。僕にとって父とは、その年にしては少し若く見える程度の、普通に歳を取った中年だった。波瑠さんは身長こそもっと低かったが、優しい微笑みの、愛嬌のある顔をした少年だった筈だ。


「もしかして、父って、ここ数年で一気に老けました?」

「そうだね……うん、綾人君の言う通りだと思う。ここ最近、また年相応って感じになってたよ。思えば不思議だね」

「年相応なのが、不思議ですか」

「祓い屋って、作家にしても研究者にしても……肉体が若いままの人が結構いるんだよ。肉体の時間が捻じ曲がっているというか……祓い屋となる、怪異に近づくということは、周囲の認識に存在を固定されるということだから……一般的な生物学が当てはまらなくなることがあるみたい」

「父の時間も、歪んでいたということなんでしょうか」


 そういうことだね。そう呟いて、守道さんは手遊びに開いていた本を戻した。その瞬間、眼球の奥が絞られるような感覚があった。無意識的に、僕は守道さんが持っていた本の表紙を見ていた。


「……守道さん」


 声がひっくり返った。呼び立てられた彼は、眉間の皺を僅かに見せつつも、「何?」と優しげに笑った。


「父は数年前、一体何を調べていたんでしょうか」


 止まった守道さんの手の中、そこに見えたのは『織幡神社史録』という文字だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る