外聞 識

第31話

 神社での一件から数日が経った。朝のテレビ番組も、毎日のネットニュースも、いつもと変わらない表情をしている。指織神社で捕まった織幡美登里の名前も出なければ、街を化け物が闊歩していた事実も、誰も何も言わなかった。世間ではただ一つだけ「榊守道人」が死んだという事実だけが公表されていた。作家によくある死因である心不全を騙って、出版社は哀悼の意を表明する。そんなフィクションだらけの現実を眺めれば、少しずつ気が滅入っていった。

 

 自分に出来たことは、もっと何か無かったのか。榊守綾人という少年と、指織姫である織幡詩織が傷つかない選択があったのではないか。そんな追及を脳に焼き付ける。

 

 そんな精神を慰めるが如く、自宅でスマホ弄りに励んでいた頃のことだった。ふと画面が一際明るさを持って、振動と音を発する。そのメロディは、ある一人の女性の声を届けるものだった。


『こんにちは。それともおはようの方が良いかしら』


 嘲笑を含んだ口元が、いとも簡単に想像がついた。少女性の抜けない彼女の声は、僕の鼓膜を優しく叩いた。


地楡ちゆさんから電話なんて珍しい。どうしたの。何かあった」


 電話の向こうの少女――――花鍬はなくわ地楡ちゆは、僕の声にクスクスと鈴のような微笑みを鳴らした。それが終わったかと思うと、今度は小さな吐息が耳孔を擽った。


『韮井先生から聞いたの。夏休みだっていうのに、不貞寝ばかりなんですって?』

「不貞寝って……少し、色々、考えることが多くて。疲れただけだよ」

『そう。じゃあ、頭が疲れているのね。少し外に出ない? 外の空気でも吸いましょ?』

「ショッピングの荷物持ちが欲しいなら、そう言って欲しいな」

『あら、別にそういうわけじゃないのよ。まあ、荷物持ちというのは当たっているのだけど』


 コロコロと硝子玉を転がす様に、彼女は笑っていた。「それでね」と言葉を置いて、再び彼女は喉を震わせた。


『今、貴方の家の前にいるのよ。とっとと出て来て。腕が攣りそうなの』


 そう言って、地楡は一方的に通話を切る。短い電子音を閉ざして、僕は背を伸ばした。ソファから零れた足を、床に着ける。外に出ようか迷って着ていたシャツの裾を直す。顔を洗うか迷っていた時、玄関のインターホンが鳴った。早く出て来いということらしかった。裸足のまま、玄関を降りた。サンダルのゴムが温く足裏に貼り付いた。


「割れ物なの。大切に持ってくださる?」


 玄関の扉を開いた矢先、そう言って僕の両手に膨らんだ布袋を押し付ける。その少女は、夏の昼間だというのに、長く分厚い黒のコートを着込んでいた。


「相変わらず、暑そうな服だね」

「仕方が無いわ。露出出来ないもの。知ってるでしょ」


 困った様に微笑む彼女は、両手の塞がった僕の顔を、ハンカチで拭った。息がかかる程に近い彼女の顔は、その半分が焼け爛れた皮膚で覆われていた。甘い抹香の香りが、彼女の首元から漂っていた。


「酷い顔ね。そんなに深い考え事をしてらっしゃったのかしら」


 汗を吸ったハンカチを、彼女は僕のズボンのポケットに刺し込んだ。


「……そうでもない」

「そうね、どうせ貴方のことだから、自分ではどうしようもなかったことを、悔やんでいるんでしょう。そして、どうしようも無い過去のことを考えて、不貞腐れている」


 軽やかに彼女はそう笑うと、分厚いコートのその下、赤いスカートを翻した。爛れた皮膚の中で、焼けて灰色となった彼女の瞳がこちらを見ていた。赤い唇の両端を上げて、彼女はアスファルトの上でブーツを鳴らす。


「貴方のそういう所、好きよ。でもいつまでもウジウジされると、一緒に楽しい事をする時間が減っちゃうわ。というわけで、少し解決に行きましょう。全てが丸っと収まるとは言わないけれど、ほんの少しだけ。そうね、貴方の気休めになるくらいのことは、してしまいましょう」


 地楡の整えられた黒髪が、夏風に揺れた。歯を見せて笑う彼女は、そのまま僕の腕を引いた。僕が問う何物も「秘密」と言って、彼女は何も答えなかった。

 そうやって無駄な問答を続けるうち、商店街を抜ける。夏の人集りの隙間を縫う頃には、何も考える力は残っていなかった。黙り込んだ僕を眺めながら、地楡はただ道を進んだ。


 そうして辿り着いたのは、一軒の日本屋敷だった。数日前に見た指織神社とはまた異なって、何処か明治の花街のような雰囲気を伴ったそこは、『守道』と書いた門と塀でその周囲を囲んでいた。


「守道さんの、家?」

「そう。貴方、会いたいかなと思って」

「守道さんに? 何で?」


 僕が汗を垂らしてそう笑って見せると、地楡は口をへの字に歪めた。「察しの悪い人ね」と頬を膨らませると、彼女は目を反らして、インターホンを押した。数秒の沈黙の後、守道さんの明るい声が聞こえた。再度の待ち時間、たまらず僕が「ねえ」と彼女に声をかけた時だった。玄関の門が開いた。守道さんの困ったような顔が、僕を見上げていた。


「遅くなってしまって申し訳ありません。道具一式、一人で持って来るには重かったので、彼に同伴して頂いたんですよ。駄目だったかしら」

「え、あぁ。いえいえ。花鍬さんだけが来るものだと思って、少し驚いて。識君もよく来たね。上がって。溝隠君もいるよ」


 良心で零したのだろう事実は、僕の胸を刺した。

 溝隠波瑠。彼の現状を、僕はこの数日一言も聞くことは無かった。アレとは元々そこまで仲が良いというわけではないが、今は合わせる顔が無いように思えた。

 何よりも、自分からコトリバコについて関わっていったというのに、それがある一人の少年の存在を否定することに繋がったということが、喉に引っかかっていた。溝隠は弟分として榊守綾人に愛情を持って接していたことは、ほんの数時間の会話でも理解出来ていた。


「地楡さん、僕……」


 外にいるよ。そう言って、対面を避けるつもりだった。あちらだって、僕と同じような感情だろう。いつか守道さんに止められたような諍いは、避けたかった。

 だが、そんな僕の感情を余所に、守道さんはふと、明るい面持ちで僕と目を合わせた。

 

「綾人君も、識君と会いたがってたよ。元気なお兄さんだよねって、一緒に話してた所なんだ」


 守道さんのその言葉に、一瞬、脳が思考を止めた。地楡と目を合わせる。彼女は含んだ微笑みを僕に向けた。


「ほらね、気休め程度には、なりそうでしょう」


 そうやって軽やかに庭を歩く彼女の後ろを、僕は呆けたまま歩き続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る