第30話

 物語のキャラクターとして示された、僕の『母親』は、静かに神社の廊下を蠢いていた。その手の一つを咄嗟に掴んだ。声の一つも上げない彼女の腕は細く、そして軽々と千切れた。肉と言うよりも、紙で出来たようなそれを捨てて、彼女は進む。それ以上を止めようという感情は、何故だか湧かなかった。足元に溢れていた血が、床板の上に伸びた。


「止めないのか?」


 そう言って、七竈さんは僕の顔を覗き込む。彼女はジッと黒い真珠の表面に、僕の顔を映していた。鏡のように僕の中にある答えを求めて、彼女は口を開いた。


「このまま放置すれば、コイツは織幡美登里を殺しに行くぞ。作家の描いた物語が成立するとは、そういうことだ」

「止める手立てが、あるんですか」

「ある。怪異だって何でもアリってわけじゃない。行動にはルールがある。ルールこそが怪異を作るからだ。それを利用すれば、出来ない事ではない」

「では、その方法は」

「簡単なことだ。織幡美登里を神社の境内に入れないことだ。手段は何でも良い。榊守道人が書いた物語では、コイツは神社で織幡美登里を殺すことになっている。舞台を揃えなければいい。舞台が無ければ演者は演じる場所を失う」


 それだけのことだ。と、七竈さんは唇を閉じた。彼女の言葉を皮切りに、識さんが走り出した。それが叔母を救うためだということは、彼の精神性から鑑みれば明らかだった。

 そんな彼と同じ一歩を踏み出せないでいる僕は、ただ母親を眺めていた。彼女が作り出す赤い手跡は、確かに父の死体の周囲にあったそれと同じだった。

 

 ――――何故父さんを、父さんの首を、ねじ切ったんだ。

 

 追う背に、そう語りかけようとしても、口は動かなかった。七竈さんの言っていたことを思い出す。彼女は父の物語に則して動いている。であれば、父はその物語に、己の死すらも書き記したのか。だから父は、最期に僕と話をしようとしたのか。だったら、何故、その時、僕に逃げろと言ったのか。思えば、不可思議な点が未だ満ち溢れていた。どうも、パズルのピースが上手くハマらないような、そんな感覚があった。四肢の動きを代償に、思考はずっと動き回っていた。意識は自分の中ばかりを見て、周囲を見ていなかった。故に、隣から詩織ちゃんがいなくなっていることに、気付いたのは、数分の後のことだった。僕が前を見たその瞬間に、僕の傍にいたのは、波瑠さんだけだった。


「綾人君」


 あのね。波瑠さんがそう言って、僕と目を合わせた時。廊下の先から、微かな女の金切り声が聞こえた。それは記憶にある叔母の声だった。母と言い争っていた過去の情景が思い浮かんだ。苛烈な精神をした叔母の、論理の無い発言は、この甲高い声から始まる。

 波瑠さんの言葉を置いて、僕はやっと足を前に進めた。静かな社の、血に染まった廊下は、あの燃えて灰となったものとは全くの別物だというのに、何故だか懐かしさがあった。

 歩みを進める程に、金切り声は意味を成した。織幡美登里の発する言葉は、どれも誰かに対する罵倒だった。その目の前にいるのが詩織ちゃんでないことを祈って、僕は目の前を塞ぐ戸に手をかけた。

 溝の掘られた木の板でしかないそれは、力の入らなくなった僕の腕でも、軽々と横に滑って行った。夏の夜の、青臭い空気が鼻を刺す。そこに血の臭いは無かった。

 視界に入ったのは、地面に叩きつけられる叔母の姿だった。彼女は神社に入りこむギリギリの、小さな黒い鳥居の前に伏していた。彼女の上に跨ってその顔を地面に擦り付けていたのは、葦屋さんと、神社を運営している神職の人々だった。黒い森を背景に、白い装束が良く映えた。そんな皆の前で、静かに、何も言わず立っている詩織ちゃんは、赤い巫女装束と、その黒く長い髪を夜風に流していた。


「何で私が捕まんなきゃいけないのよ! ちょっと! 詩織! 何か言ってよ!」


 歳の割に幼い語気が、神域の全てに響いた。子供が駄々を捏ねるように、彼女は葦屋さんの手の下で四肢をばたつかせていた。

 

「遅い、やっと出てきたか」


 そんな乱れと静寂の折り重なった鳥居の前、七竈さんは僕達に目を向けた。そんな彼女に、波瑠さんは訝し気に口を開いた。


「何が起きてるんですか」

「そこの馬鹿が神社の境内に入ろうとして、あの化け物が襲おうとしたんだ。それを識が蹴り出したんだよ、両方一緒に。で、織幡美登里を、追っかけてた幽冥達が取り押さえてる」

「織布留美紀代姫は」

「消えた。神社の外に出された時点でな。多分、そういう縛りなんだろう。思っている以上に、アイツは物語に忠実な存在だ。だが存在も不安定で、次に出て来る時……これからどう変化していくかはわからん」


 怪異僕達とは、そういうものだ。


 七竈さんはそう言って、ジャージのポケットに手を入れた。彼女は煙草を一本咥えると、その先に火を点けた。白い煙を吐きながら、彼女は頬を掻いていた。表情の変化こそ無いが、何処か迷いがあることだけは理解出来た。


「ま、織幡美登里はこのまま、警察に任せておけば良い。二度とこの神社に近寄らなければ、あの化け物に殺されることは無い。物語を書き換える人間がいない限りな。それに、過去のことを踏まえても、警察行きが一番おさまりも良いだろう」


 煙と共に吐き出された言葉は、目の前で喚き散らす叔母ではなく、それを眺める詩織ちゃんに向けられていた。詩織ちゃんは、七竈さんと目を合わせると、ただ一度だけ首を縦に振った。振り返った彼女の顔には、赤黒い粘液が貼り付いていた。それは血の付いた指でなぞったような線になっていた。その痕跡は、確かに、母が子供であった僕達を慈しむ時の、その指の動きを真似ているようだった。


「詩織ちゃん」


 そんな彼女の肩に触れようと、腕を伸ばした。足元が崩れて、そのまま前のめりに膝をつく。這いつくばる両手には、夜闇の中でもハッキリと亀裂が浮かんでいた。まるで乾いた粘土細工のように、今にもボロボロと土に還ろうとするその手を、詩織ちゃんはただ眺めていた。


「やっぱり、アンタ、綾人じゃないわ」


 静かに、だが芯の通った声で、少女は呟いた。その表情は微かに、憂いを帯びていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る