神宿る指織
棺之夜幟
一章
第1話
赤い唇の女が、私を見ていた。
いつもの夕暮れ、いつもの路線。毎日、夕方の通勤ラッシュに巻き込まれながら、私は確かに吊り革を握っていた。
だというのに、今日に限って、私はハイヒールで草臥れた足を慰めるように、硬い座席に腰を降ろしていた。周りには人一人いない。先程まで確かに私と一緒にホームで立ち並んでいた筈の人々は、何処かへと消えていた。
夕焼けが眩しい。だが私が乗り込んだのは地下鉄なのだ。こんな、赤く煌々と焼けるような空が見える筈がない。光に向けて目を細める。都会の風景は田舎の田園風景に変わっていた。何処か懐かしさを感じながら、私はふと、スマホの画面に目を向けた。
体感では既に数十分、電車に揺られていた。けれど、私の目に映るホーム画面の時刻表示は、変わらず夕方十八時と数分を表していた。腕時計も変わらず、同じ時間をずっと私に主張している。ただ一つ、秒針だけが、ずっとぐるぐると回り続けて、短針と長針は私を嘲笑うかのように止まったままだった。
そんな澱みに、私は生唾を飲んだ。これは夢だろうかと、目を瞑ってみる。眠気は全く起こらない。皮膚に当たる布の感触はしっかりとしていた。
動かない時間の割には、風景はどんどん変わっていく。赤い光は紫に、そして、黒に塗りつぶされる。明るかった田園風景は、既に深い木々の中へと変化していた。
「だ、誰か、いませんか?」
不安が漏れる。誰もいない車内で、幼子のように声を張る。
そんな無邪気さを孕んだ精神が背を推して、私の足は半分無意識に、ゆっくりと電車の先頭へと移動していった。
電車が進む先、先頭車両に辿り着いても、そこには誰もいなかった。電車という名前の動く箱は、私だけを乗せていた。外の暗さが、車内の照明で際立つ。もう外を見ることは出来なかった。
先頭車両のソファに腰を落ち着ける。手に持っていたスマホで、一一○を押す。なめらかな動作は、電話口で言葉を発した直後にかき消された。「無人の電車が止まらない。都心の地下鉄から田舎の山奥まで来てしまった」そう言って、信じてくれる公共機関など、存在するわけがなかった。
実家の電話番号を押す。出たのは母だった。けれど彼女は「この親不孝者」と言って、数秒でその受話器を置いた。
何も出来ないまま、動かない時間が過ぎていく。時々、家屋か何かの光が車窓を蛍のように横切った。窓を開けて叫んでも、きっとそこには届かないだろうと、私は無気力にソファに横になった。
眠気も、空腹も来ない。止まっているのは私の体だけなのかもしれない。私はセーラー服のスカートを握って、膝を抱えた。
帰っておいで、と、赤い唇の女が笑っていた。
そうやって一人、孤独を啜っていると、ガタンと一際大きな音が耳に響いた。僅かに浮いた体が、ソファから床に落ちる。叩きつけられた半身をさすりながら、周囲を見渡した。
ゆっくりと、だが確かに、電車は止まり始めていた。キューッと金属が擦れる音がして、慣性の法則が私を前に押し出す。
がこん。電車が止まる。気の抜けるような音を立ててドアが開いた。暗闇の中にあったのは、僅かな蛍光灯があるだけの、無人駅だった。
「きさらぎ、駅?」
ひらがなで書かれた駅名に、私は覚えがなかった。それらを挟む「やみ駅」だの「かたす駅」だのも、身に覚えがない。どうやら私は、かたす駅から運ばれてきたらしい。車両の先頭はやみ駅の方を向いていた。
恐る恐る電車を降りる。ローファーの裏に感じるコンクリートが、酷く冷たく懐かしく感じた。赤い唇の女は「逃げなさい」と言った。
私がホームに降りた途端、電車のドアが閉まった。そうして、金属の箱は「やみ駅」へと進んでいった。
まさか、ここで帰りの電車を待たないといけないのか?
一種の絶望感のようなものが、腹の底から沸き立つ。通学鞄を落として、私はその場に蹲った。何処からか聞こえてくる祭囃子の笛の音が、心臓を震わせた。息が上がる。心臓の音が早い。酸素が上手く吸えなくなって、私はコンクリートの上に座り込んだ。そのまま延々と声を上げて泣いていた。それが解法の一つも産まないことはわかっていた。それでも、私に出来ることはそれくらいしかなかった。
込み上げるものを全て涙で流した頃、スカートのポケットが震えた。携帯電話が震えていた。その表面には「着信:アヤト」と小さく表示されていた。縋るようにして、私はその着信を取った。
「あ、良かった、繋がった!」
アヤトは私の中学での友人で、両親以外に私の電話番号を知る唯一の人間だった。電波の向こうで、彼は朗らかに笑うと、泣きじゃくる私を宥めながら、優しく言った。
「怖かったね。大丈夫。君のお母さんから、迷子になっちゃったって聞いたんだ。今迎えに行くよ。もう大丈夫。助けに行くから」
そう言って、彼は通話を切った。その数秒後、やみ駅の方から、がたんがたんと音が近づく。伊佐貫と書かれたトンネルの向こう、光が見えた。それは、私が乗って来た筈の車両だった。淡々と、正しく機械的に、その電車は私の前で止まる。ドアの向こうに、見知った顔があった。
「お待たせ、これに乗れば、帰れるから」
ドアから降り立ったアヤトは、私にそう言って、腕を引いた。無理矢理に私を立ち上がらせると、半分、押し込むようにして電車の中に誘う。一人で立ち上がることも出来なくなった私は、電車の床に座った。アヤトの微笑みを見上げる。
「アヤトは、乗らないの」
きさらぎ駅のホームでニコニコと笑うばかりの彼に、そう疑問を放つ。自分の声が震えているのがわかった。
「僕が行くのは反対側なんだ」
そう言って、彼はまた朗らかに笑った。その微笑みを遮るように、ドアが閉まった。赤い唇の女は悲しそうな顔でこちらに手を伸ばしていた。
目覚めると、私は白い部屋の中にいた。白いカーテンが私の周りを遮っていた。その布の隙間から、一人の女性が私の顔を覗き込む。目があった瞬間に、彼女は私の名前を叫んだ。管に繋がった腕をとって、その女性は、母は、咽び泣いていた。
あぁ、そうか、私、生きてるのね。
ホームから身を乗り出した時の、その視界を思い起こす。そこにはただ、明日はもう会社に行かなくていいという安心感があった。それと同時に、やってしまったなあ、という妙にふわふわとした呆れがあった。
そんな現実の隙間、私は、踏切でバラバラになったアヤトのことを思い出していた。
赤い唇の女は「早く逃げろ」と叫んだ。
――――……二千五百と少しの文字を読み切って、『僕』はその雑誌を閉じた。その文芸誌の表紙には「夏の洒落怖特集」と銘打たれ、見知ったの作家達の間、父の名前――
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