第24話
息が荒れているのがわかった。現実逃避の中にも、守道さんの動きは音だけで理解出来た。彼はスマホを耳に当てて、「はい」と何処かに返事をしていた。きっと、僕の言葉の全ては、韮井先生にも通じていたのだろう。それくらいは理解していた。引っかかっていた違和感と現状の打開策を欲して、言葉にしてはいけなかった記憶を、ずるずると引き摺り出して見せたのだ。
冷えた四肢に、獣の感触を覚える。薄らと目を開ければ、猫神様が両足の先を包んでいた。外への威嚇をやめて、僕のひび割れた足先を舐める。ザラザラとしたヤスリのような舌先が、肉なのか土塊なのかわからない僕の足を削っていた。
「……足に痛みは無い?」
ふと、頭上から守道さんの優しげな声が聞こえた。見上げた彼の額には、僅かに皺が寄って、笑っているのは口元だけだった。
「気付いてましたか」
「会社で応急処置をした時に、少し。変な傷だなって、思ったんだ。それで、その……韮井先生なんかと話してね……」
「手の方にも出来てるんですよ。痛みは無いです。何なんでしょうこれ。守道さんは知ってるんですか?」
自分の言葉が酷く投げやりであることは理解していた。けれど、僕の身に何が起こっているのかは、僕よりも彼の方がよく知っているような気がした。
「私は君と同じだよ。殆ど何も知らされていない。知りたいとも思わなかった。知るということは認識を変えるということだ。私が君の正体を、過去のことを知れば、私はそういうものだと見ざるを得ない。その時、君が……榊守綾人がどうなるかは……想像に難くない。私はそれが嫌だったから。何も、知らない」
知るということが何かを失わせるということは、感覚的にわかっていた。例えばサンタクロースが来なくなった理由を知った時。例えば枯れ尾花が幽霊に見えなくなった時。僕の正体というのは、そういった類のものなのだろう。事実を突きつければ、矛盾を暴けば消える程度の幻想なのだ。息をしているのも、不安感に苛まれているのも、本当に自分なのか、わからなくなっていく。自分が現実に溶けていく感触は、不快な心地良さと、判然としない細胞の動きが同居していた。
「綾人君」
ゆらゆらと揺れるような瞳で、守道さんは僕と目を合わせた。引き戻された現実は、まだ数分も経っていないようだった。遠くから、足音が聞こえた。それに伴って、部屋の外を覆っていた爪を剥ぐような乾いた音が消えていく。守道さんの声に耳を傾けて、こちらに向かって歩く新たな現実を待ち望んだ。
「君のその傷は、きっと、君の存在が揺らいでいることを表しているのだと思う」
「それは、僕もそう考えています。少しずつ広がっているようですし」
ヒビの増えた指先を、猫神様が舐めていく。それは母猫が子猫をあやすときと似ていた。
「けど、この傷が出来たのは、僕が何も知らなかった時からです。具体的に言えば、父が死んだ、そのすぐ後になります」
故に、僕の存在が父が行った何かに紐づいていることは理解していた。それこそが子詠みの神事なのだろう。父は母が指織姫であったことも、そこで何をしているのかも知っていたはずだ。けれど、それを父に遂行できるとも思わなかった。かの神をその身に宿して儀式を行うのは、指織姫なのだから、その真似事をその伴侶であった程度の父がやったところで、達成される筈がない。
「では榊守道人が榊守綾人を甦らせたというのは、事実だというわけだ。その方法は未だ解明出来ないにしても」
ふと思考の中に飛び込んだのは、部屋の外から聞こえた韮井先生の声だった。襖の隙間に手を入れて、空間を広げる。こちらを見る翡翠の瞳は、昼間に対峙した時のそれに反して、酷く冷淡だった。
「織布留美紀代姫が詩節の隙間に棲まう者であったとすれば、その性質は道人先輩の手で……作家として書かれた物語によって、変質している可能性がある。それが今回の『事故』に繋がったと想像しても、悪くはないだろう」
猫神堂の静寂を壊す彼は、艶やかな裸足を僕の前に揃えた。膝立ちで近づく顔からは、感情が感じられなかった。けれどその感覚器だけは、僕の全体を捉えるように、僅かに動いていた。
「だが、説明は後だ。二人とも、外へ。少々急ぎの用がある」
大きく開かれた襖の外、暗がりの廊下からは、腐った肉の匂いがした。僅かに点けられたままの電灯の傍、赤と黒が混じった手跡が無数に散らばっているのが見えた。
「あの……」
「もうアイツはいない。隠れたんだろう。だが再び出てくるともわからん。さっさと歩け。車は玄関につけてある」
僕が問いを傾ける前に、先生はそう言って、廊下の体液を踏みつけていった。そんな彼の右手は、手形と同じ色で濡れていた。それがあの化け物を殴りつけた後である事は、何故だか理解出来てしまった。
そんな先生の後ろを歩いているうち、猫神様が肩に乗った。彼はヒクヒクと鼻を鳴らして、韮井先生を睨みつけていた。
――――海の匂いがする。
ふと、そんな声が脳の右から左へと流れていった。自分の感覚が言語化されたのか、それとも猫神様がそう言ったのかはわからなかったが、確かに鼻腔には磯臭い匂いが微かにこびりついていた。逆立つ猫神様の毛を撫でる。その興奮具合は次第に落ち着いて、玄関で夜風を受ける頃には、僕の腕の中で白い猫が眠っていた。
「行きの道で適当に服を買おう。素肌に浴衣じゃ、男前だが
車に乗り込んだ頃、エンジンに手をかけた先生がそう笑みを含んだ。その意味を問うよりも前に、彼はアクセルを踏んで、アスファルトの上を進み始めていた。素足に履いたスニーカーが嫌に冷たかった。汗が垂れる。それを舐めとるような、そんな気配が背中に落ちた。
――――いる。
また、声が聞こえた。ガタつく中古車の中、その後ろに着いてくる何かがいるのは、勘違いではないだろう。それがあの化け物であることも、理解は出来ていた。「守道さん」と縋る声が喉から溢れた。けれど、彼はそんな僕に、眉を落とすばかりで、口を開かなかった。
「追わせれば良い。問題無い」
僕の不安感に同調したのは、誰でもない先生だった。彼は足音も無いその存在をチラリとミラー越しに確認すると、眉を顰めていた。
「アレが本当に神か、それともまた別の……榊守道人の業か……確かめようじゃないか」
そう言って切ったハンドルの先の、その遠くには、小さな赤い鳥居があった。それは、かつて僕が何度も潜った指織神社の入り口だった。
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