第25話

 赤い鳥居の古さと乱雑な修繕跡は、夜の暗さによって隠されていた。生前の母が、建て替えの吉日を探していたのを思い出す。その時よりも一層に塗装の割れが増えているのは、きっと、叔母がこれを直す必要は無いと断じているからなのだろう。彼女の横暴さは何となく想像出来た。そんな彼女の手で指織姫にされた少女の姿は、今、僕の目の前にあった。


「……詩織ちゃん」


 指織神社の境内、織幡詩織は温い夏夜の風に、その伸びた黒髪を捧げていた。巫女装束は裾が緩く、あまり着慣れていないがよくわかった。


「来て。話さないといけないことがある。母さんがいないうちに……今のあの人なら、何をしても止められないと思うから」

「叔母さん、どうしたの?」

「この場にいない方が良いって思ったから、神社と家から出てってもらった。今は父さんと神職の人達が抑えてくれてる。警察もそのうち来る。葦屋さんが、動ける人を集めてくれてる。でも間に合わないかもしれない」


 いない方が良いって、何故。そう唱えるよりも前に、僕の腕を掴む手があった。それは波瑠さんの細くて大きな手だった。詩織ちゃんの隣に陣取っていた彼は、静かな表情で僕を観ていた。


「ヒビが、増えたね。痛くはないだろうけど、あまり無理して動かないで。今は直しようがないから」


 僕の手を一瞬だけ撫でてそう囁く。そうして、彼は僕と目も合わせないままに、引きずるようにして歩き出した。その有無を言わさない姿勢が、何故だか今になって不審で、己の中に痛みにも似た不安感が構築されていくのがわかった。


「……波瑠さんも気付いてたんですね」


 そう言うと、振り返った波瑠さんはフッと口元を緩めた。下げた眉が、彼の思考を示していた。


「気付いていた? いや違う。知っていたんだ、貴方は」

「綾人君」

「貴方は僕が死んで、戻って来たことを知っていた筈だ。焼け死んだ後の、僕の記憶に、貴方と出会った日の思い出なんて無い。貴方は僕が死んでいる間に父と出会った。だから僕が死んでいることも、死んだ僕が戻って来た方法も知っている」

「……綾人君」

「貴方が地下倉庫で過ごしていたのも、僕が戻って来たことに関係している。三つの骨壺は、母と、姉と、僕だ。僕はこうして戻って来た。きっと、貴方のお陰で。でも、母さんと、姉さんは、ずっとあそこにいたんですね? あそこで化け物と成り果てたんですね?」

「違う。綾人君、一回冷静になろう。全部説明するから」

「冷静ですよ。だからここで聞いているんです。ここなら皆さん、いらっしゃるから。貴方がもっと何か隠そうとしても、きっと、韮井先生や、守道さんが、止めてくれるから。説明するだけならここでも出来るじゃないですか」

「僕の言葉だけじゃ駄目なんだ。事情が複雑過ぎる。こればっかりは」


 駄目なんだよ。困った様に笑う彼の顔は、蝶で隠されていて、もう見ることも叶わなかった。波瑠さんを覆う青い蝶達は、彼の意思なのだろう。この期に及んで優しく諭そうとする彼の唇が、苛立って仕方が無かった。自分が冷静でないのはわかっている。パラノイアのそれと成り果てている自分がいるのも、理解している。僕を抑えようとする手が増える。守道さんの細い指が、僕の肩に触れていた。


「綾人君、前へ。進んで」

「守道さんも何か言ってくださいよ。波瑠さんは父さんと一緒に猫神堂に来たんですよね? 何故そこで貴方に何も言わなかったのかって、それだけのことをやって、僕を生き返らせて、何故、母さんは、姉さんはって……」


 そこまで呟いて、ようやく、自分が願望を垂れ流していることに気付いた。僕は混乱している。冷静ではない。それはわかっている。そんな本能的心理の中で零れ落ちるのは、本心と現状の願望だ。


「そうだ……何故、僕だけ……僕だけが何故、今まで」


 零れ落ちる言葉の裾、それは唐突だった。顔面に、強い衝撃があった。多分、それは、人の拳だったと思う。柔らかで、人を傷つけることに慣れていない手。それが、守道さんの胸ごと僕の顔を打ち付けたのだ。


「いい加減にして。神の領域に化け物を連れて来てまで、ぐだぐだと。さっさと終わらせたいの、私は」


 守道さんに支えられる僕を、まるでゴミでも見るかのような目で見下す少女。詩織ちゃんはジッとそうやって、僕を睨むと、真っ直ぐにその背後へ指を向けた。


「アレと一緒にお喋りしたいってなら、貴方達だけでやって。私は嫌よ。あんな化け物と一緒になんて。いつ襲われるかもわからないのに」


 彼女はそう言って、背を向けた。詩織ちゃんが指差していた方向に目を向ける。そこには、仁王立ちで空を見上げる韮井先生の背と、そんな彼を見下ろすあの腕だらけの化け物の姿があった。全身の指は、僕を追いかけていた時とは違い、まるで写真を見ているかのように停止していた。ただ、胸の辺りだけは蠢いて、それが呼吸をしているのだということを示していた。


「先生、何したんですか」


 僕が呟くと、先生はハッと短く溜息を吐いた。手持無沙汰に、咥えた煙草に火を点けた。


「別に私は何もしていない。ただ付いて来て、ただここで私と待つ選択をしてくれただけだ。そも、彼女はここで暴れる気が無いらしい。安心して話して来い。私の言葉は、七竈に託してある。時間経つとアイツの方が怒って暴れるぞ。そうなれば葦屋以外じゃ手が付けられん。とっとと行け。待たせるな」


 早々に二本目を手にして、彼はそうククッと引き攣った様に笑った。それらに背を押されるようにして、僕は詩織ちゃんの背を追った。彼女と波瑠さんが向かう先には、神社の本殿があった。いつか焼け落ちたそれを、元あったそのままに建て直したそこには、仄かにオレンジ色の光が灯っていた。それらが全て電灯であると気づいた時、無意識に僕は胸をそっと撫でおろしていた。


「母さんはね、最初、蝋燭が使えれば良いって、電灯なんて要らないって言ったのよ」


 僕の言葉を見透かしたように、本殿の入り口で詩織ちゃんがそう呟いた。


「何で? 火事があったんだ、安全の為にも、火元は徹底して排除して……そうするのが普通じゃないか、いくら古い神社って言ったってさ」

「いつでも焼き殺せるようにでしょ」


 僕の問いに、彼女はただそう微笑んでいた。冷たい目のまま、唇を歪める。詩織ちゃんの言ったことが、上手く咀嚼出来なかった。


「綾女さんみたいに、紫織姉さんみたいに、焼いてしまうためでしょ。私を」


 何を分かり切ったことを。と、その言葉を彼女は言わないでも口元に含んでいた。

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