第26話

 深くも短い沈黙の後、詩織ちゃんは本殿の奥へと進んだ。香ばしい木の匂いが鼻腔をくすぐる。上質な杉に囲まれた本殿の最奥には、乾いた紙の束が納められた棚が敷き詰められていた。


「焼け残った名簿はこれだけ。昔はもっとあった。知ってるでしょ」


 静かに、けれど重々しい感情を乗せて、彼女は僕を睨んだ。否、睨んでいるのではない。彼女は何か、表に出せないものを、噛み殺しているのだ。声を、掛けたかった。詩織ちゃんと、名前を呼びたかった。しかしそれに何の意味も無いことも、理解していた。

 紙の山を分けて、更に奥へと進む。その空間の形に、覚えは無かった。かつて母と姉だけが進んで行ったその場所に足を踏み入れる。それだけで、心臓が早く動いた。脳を埋めるのは、罪悪感と、不安と、好奇心。その全てが混ざり合って、喉を上下した。


「遅い。帰ろうと思っていた」


 紙に遮られていた本殿の、その奥。ご神体と呼ばれるものが、ある筈の場所。そこで胡坐をかいていたのは、薄暗さにより神々しさを増した七竈さんだった。彼女は男性的なその姿勢のまま、詩織ちゃんを睨んだ。


「すみません、後ろのが、ぐちゃぐちゃと話すものだから」


 そうか。と七竈さんは彼女の言葉を叩き落とした。そんな七竈さんの隣では、居心地の悪そうに正座をする識さんがいた。その彼の手の中に、黒い箱があるのが見えた。それは、恐らく、彼が持っていた写真の中にあった、それだった。


「コトリバコ、見つかったんですね」


 僕がぽろりとそう言うと、識さんは眉を落として困った様に笑った。そんな彼の言葉を聞くよりも前に、波瑠さんが僕の肩を叩いた。座って欲しいということらしい。詩織ちゃんが腰を下ろしたのを見て、僕はその場に座り込んだ。正座をした瞬間、何か木に亀裂が入るような音が聞こえた。どうも、足のヒビが増えてしまったらしい。自分の足裏を撫でる指先で、その感触を得る。だが、音が聞こえたのは、僕の足からではなかった。僅かな覚えを頼りに、その方向を見る。そこにあったのは、識さんが持っていたコトリバコだった。


「割れそうだな。接着剤でも塗るか」


 ハッと鼻で笑ったのは、七竈さんだった。彼女の言葉に、詩織ちゃんが静かに睨みつけた。


「接着剤なんかで元に戻るなら、誰も消えてはいないんですよ」


 牙を剥いた彼女は、膝に爪を食いこませながら、そう言った。そんな彼女の後ろには、黒い正方形の集まりがあった。否、それは識さんが持っているものと同じ、黒い漆塗りの箱が、大量に並べられたものだった。それらは一つの黒いピラミッドのようになって、埃を被っていた。


「消える……もしかして、あの、失踪事件にも関わってる?」

「こういう時に勘が鋭いのは、有難い限りだな」


 僕の問いにそう返したのは、七竈さんだった。彼女は一度だけ溜息を吐くと、そうしてまた口を開いた。


「このコトリバコには、七歳までに死んだ子供の指が入っている」


 人形のように無機質に、彼女の白い頬が動いた。その目は何処にも合わず、ただ、空中だけに向いていた。


「子を取り戻すための箱。故にコトリバコ。この箱に指を入れ、指織姫がその名を書き記して献上する。それが子戻りの簡単なルールだ。子詠み神事とされているのは、この名を献上する行為を切り取ったもの。そうだな、お姫様」


 七竈さんが訊ねた先、詩織ちゃんは小さく頷いた。彼女は、七竈さんの言葉を呼び水に、言葉を吐き始めた。


「理屈は知らない。けれど、方法だけ言えば、そう。そして、戻って来た子供達は、死んでいたことなんて忘れられて、普通の人間として死ぬの。コトリバコさえ壊れなければ」


 そう言って、彼女は識さんの抱えた小さなコトリバコを指差した。溜息のような、震えと不安を吐き出すような息を吐いて、また吸った。


「そのコトリバコには、綾人の指が入っている。焼けて僅かに肉が残った、右手の親指が」


 詩織ちゃんがそう言った途端、黒い箱に入った亀裂が、少しずつ広がっていった。それを抑えつけるように、識さんの指先に力が入った。亀裂の拡大が止まる。そうしてやっと、自分がその一瞬、息をしていなかったことに気付いた。僅かに上がった僕の息を、詩織ちゃんはまるでゴミでも見るかのように見下していた。


「コトリバコが壊れれば、どうなる?」


 口を閉じた詩織ちゃんに、七竈さんはそう訊ねた。それはわかりきった答えを引き出す時のそれだった。


「いなくなる」

「死ぬのではなく、いなくなる?」

「子戻りで戻って来たのはコトリバコの中に入った人間を真似しただけの、模造品。真似をするために必要な情報が消えれば、元に戻って、母親の元に戻るだけ。人間のフリをするという目的を全う出来なかったら、それは、人間ではないモノに戻るだけ。つまり、人間としては、消えるの。だって、その人間の死は、最初から存在していたから。全てが元に戻るだけよ。記憶のみを残して」


 哲学の問答のようだけど。と、詩織ちゃんは口を閉じた。問いを浮かべた七竈さんは、「そうか」と無理矢理の納得を飲み混んでいた。


「そう、だから。だから、消えたの。七歳までに死んでいた人間が、少しずつ消えた。母さんが壊したから。コトリバコを」


 そう言って、詩織ちゃんは、積み重なったコトリバコの傍、風呂敷を開いた。そこには、欠片となった黒い箱達が、無数に寄り集まって、山となっていた。「何故」と僕が言葉を零すと、彼女は眉間に皺を寄せて、小さく口を開いた。けれど、それが言葉を発するよりも前に、僕の隣、波瑠さんの声が聞こえた。


「始まりに詩織さんは関係無い。あるとすれば、道人先生。そして僕だ」


 色素の薄い彼の瞳が、ジッと僕を見下ろす。そこには惑いがあった。言葉を選んでいた。その時間は長かった。ようやく意味を成した唇は、重く、鈍かった。


「かつて、まだ祓い屋として現役だった道人先生は、織幡の娘から、自分達を縛る神を殺してほしいという依頼を受けた。それは指織神社で祀られ、子戻りという奇跡を起こす怪異、織布留美紀代姫を殺せということだ。だが先生は殺さなかった。織布留美紀代姫こそが、この街で作家に怪異の非現実化という力を与えていたからだ」


 波瑠さんはそう言って、懐から古びた紙の束を取り出した。床に広げられたその紙面には、びっしりとミミズのような文字が走っていた。それは確かに、父の汚らしいメモの筆跡だった。


「織布留美紀代姫は怪異だ。そも、神とは怪異の中でも、現実への干渉力が強い者を言う。彼女の力は強い。物語として成立しなければならないという縛りはあれど、現実を非現実に落とすという干渉が出来た。その力を借りていたのが、祓い屋の中でも作家と呼ばれる者達だった。彼女は作家が現実を非現実にする度、逆のことを等価交換的に行っていた。それが子戻り。死んだ子供が生きていたら。そんなフィクションを現実にする。全てはそういうバランスの上に成り立っていた」


 波瑠さんの言葉をなぞるようにして、父の書いた文字を網膜に感じ取っていく。ふと、その中で、文字が動いた気がした。ついに幻覚までも見るようになったかと、脳すらも壊れたかと、目を擦る。だが、それは現実だった。動いた文字に、目の前にいる詩織ちゃんも、目を丸くしていた。


「その事実を道人先生に教えたのは、織布留美紀代姫と、彼女を宿した指織姫、織幡紫央里だった」

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