第28話

 識さん本人に脅迫しているという考えは無いのだろう。けれど、その手を凝視する波瑠さんの首筋は、青白かった。


「魂とは情報。その人間が生きていた記憶。そう定義して、道人先生は僕に織幡綾人の魂を呼ばせた」


 それを。と、彼は置いて、その細い指を識さんに向けた。否、波瑠さんが示したのは、彼の持つコトリバコだった。


「それを、入れたんだ、その箱に。歪だけれど、子戻りの儀式は成立した。僕の目の前で、彼は織幡綾人の姿と記憶を得た」

「じゃあ、この中には綾人君の魂が入っているわけだ」


 識さんがそう言って、波瑠さんと目を合わせた。識さんは困ったような、けれど穏やかに、首を傾げて波瑠さんを見上げていた。波瑠さんの舌打ちを、彼は鼻で笑った。


「そりゃあ、探すわけだよ。これが壊れれば自分の息子が消えるんだ。だが、何故そんな大事なものを、榊守道人は紛失したんだ?」

「……紛失ではなく、窃盗にあった、人質に取られていたというのが正しい」


 訂正を口に、波瑠さんは僕の背を撫でた。


「僕がこの街に戻って来た理由の一つは、道人先生からの一報だった。綾人君のコトリバコを織幡美登里に盗まれ、何処かに隠されてしまったと。その上、以前から織幡美登里はコトリバコを外部に流出させていた。いや、その手の団体に売っていたというのが正しいか。人体蘇生を肯定する呪物だ。何より名前だけは有名だったし、適当な説明でも買い取り手は多かったんだろう」

「それで、街の祓い屋達にも捜索の依頼を出したわけだ」

「恐らく。先生は綾人君のものではなくとも、回収を急いでいた筈だ。既に子戻りで戻って来た人々が、死者の失踪という形で消える現象が確認されていたし、そこから子戻りの儀式に辿り着く人間が出て来る可能性は十分にあった。混乱が続けば最終的には指織神社の秩序が、祓い屋である作家達の力が、失われかねなかった」


 ふと、その言葉で思い出したのは、葦屋さんと守道さんの会話だった。葦屋さんの言っていた都内の失踪事件。七歳までに死んだ筈の人間が、確かに生きていて、それが失踪したという話。それらがコトリバコを壊されたことによって引き起こされたのだとすれば、成程、納得が行った。


「それ程に重要なモノだと、織幡美登里が分かっていたかと言えば、恐らくそうではない。ただ、道人先生が大切にしているものだから、という理由だったんだろう。彼女は盗み出したコトリバコを、ここに納めた。一見して他のコトリバコと外見は変わらないから、隠せるものと思ったのだろう。だがそれを一瞬で見抜いた人間がいた。当代の指織姫である織幡詩織だ。装飾の違うそれが、新しく加わっていたことに気付いた彼女は、それを綾人君のものだとも気付いたそうだ」


 そうだったね。と、波瑠さんは優し気に詩織ちゃんへ目を配った。彼女は一度だけ首を縦に振ると、白い裾を口元に置いた。


「私が子戻りの儀式をしていない以上、新しいものがそこに置かれる筈がない。けど、紫織姉さんが亡くなった後に蘇った子供が、一人だけいたから。だから、わかった。それはここで作られたものじゃないって、それが綾人のコトリバコだって」


 一息を置いて、詩織ちゃんは再び口を開いた。見えた口元は、僅かに牙を剥いて、一種の興奮を示していた。


「だから、道人さんに届けようとしたのよ。私が管理をする義理は無いし、どうせ母さんがこれで道人さんを揺すってるんだろうって、わかってたから……でも、出来なかった。母さんの目を盗むのは難しかったし、それに……やっと、あの別荘まで辿り着いた日、母さんも別荘にいたから、渡せなかった」


 目線が落ちる。その意味を汲むことが出来たのは、これまで経緯を聞いて、僅かに脳が冷えていたからかもしれない。僕は自然と口を開けていた。

 

「別荘まで届けに行った日って、もしかして、その、父さんが」

「道人さんが死んだ日の夕方よ。家にも神社にも母さんがいなかったから、渡しに行ったの。でも、その日そこには母さんがいた。いつもの喚き声と、初めて聞く道人さんの怒鳴り声が聞こえて、逃げたの」

「言い争ってたってこと? 何で? そもそも、何で叔母さんは父さんに……」

「アンタ、母さんに自分がどう見られてるか、まだわからないの?」


 唐突に吐き出された詩織ちゃんの言葉は、僕に向いていた。彼女はジッと僕を睨むと、溜息交じりに喉を震わせた。


「あのね、母さんは道人さんのことが好きだったの。昔から。それこそ依頼を出した理由だって、道人さんと繋がりを作るためだったんでしょう。でも道人さんは綾女さんと愛し合った。次の指織姫まで産まれて、自分の存在価値すらそこで失って……そして綾人が生まれた。道人さんとそっくりの、綾人が」


 吐き散らされた言葉は、床に落ちて、捨てられた。彼女の声に恨み辛みが混じり合っていることは、鈍感な僕でも理解出来た。同時に、その言葉の先に何があるかも、凡そ推測出来てしまった。


「だから急いで子供を作ったのよ、母さんは。いつかの自分と道人さんを再現したいがためだけに、娘を産む事に必死になった。私を産んで神社に何度も通ったのだって、相続の為じゃない。私と綾人を会わせるため、自分が道人さんと会うため」


 右の耳から左の耳に流れていく情報の中、思い出したのは、父が死んだ日に駆け付けた叔母の、その目線の湿度だった。粘液にも似たそれは、言われてみれば、恋慕の情の一種だったのかもしれない。無理矢理連れて行かれた家の居心地の悪さは、恐らく無意識による拒否感だったのだろう。

 心臓の上を掠めるような不快感は、僕だけのものではなかった。語り続けた詩織ちゃんの顔は、怒りなどとは違う、今にも吐きそうな表情を浮かべていた。


「……そっか、ごめんね、詩織ちゃん。今まで、気持ち悪かったでしょ。気付いてあげられなくてごめん」


 荒い息を吐く彼女の顔を見て、僕はそう唱えた。口角が上がってしまったのは、緊張があったのかもしれない。だが、彼女はそんな僕の顔を見て、今度は確かに牙を剥いた。


「本当に、気持ち悪い。母さんも気持ち悪いけど、アンタはもっと気持ち悪い。綾人の姿で歳をとって、綾人が言いそうなことを言って、綾人が考えそうなことを考えてる。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い」


 幼い少女の様に、詩織ちゃんは言葉を繰り返した。そこにあるのは、指織姫という巫女の姿ではなく、ただ一人の少女の姿だけだった。

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