第3話
走って、走って、走って。恐らくは一時間弱、体力の持つまで走っていたと思う。上がった息は、電話越しの父のものと似ていた。唾液が口の端で白い泡となっていた。僕は痛む喉と肺に空気を送り込みながら、アスファルトの上に座った。ぼやけた視界と耳鳴りに掻き消される聴覚情報は、僕の無意識が何処へ辿り着いたのかを教えてはくれない。脳に酸素を送って、壁にもたれた。熱帯夜の空気と体温に侵された僕には、小汚いコンクリートの冷たさが心地よかった。
そうして、ようやく晴れた視界は、困惑の表情を浮かべる人々の流れを、僕に見せつけた。ヒソヒソと僕を見て眉を顰める女性、僕を一瞬だけ見て顔を背けるサラリーマン。パシャリと僕にフラッシュを浴びせて笑う若者。じんわりと痛む足裏は、僕が裸足でここまで走り抜けたことを示していた。
「最近の学生さんは、肖像権というものをご存じない?」
ふと、朦朧とする意識の中で、聞き覚えのある声が聞こえた。スマホを取り上げられたらしい男が、誰かに文句をつけていた。目線を上げる。そこには、手際良く他人のスマホを弄る青年――
「守道、さん」
未だに刺さる視線を追い払って、彼は一直線に僕の下へと駆け寄った。
「綾人君、大丈夫……じゃないね、どうしたの。お父さんからメッセージ貰って。君のことを任せたなんて……何があったのか、説明出来るかい」
僕が首を横に振ると、彼は穏やかに眉を下げた。そうして、僕の頭を撫でると、その少し高い目線を下げる。
「とりあえず、足の怪我を看よう。家から駅まで、遠かったでしょ。膝も擦りむいて、転んだんだね。消毒してあげる」
その言葉で、僕はようやく、ここが駅の入り口であったことに気がついた。周囲は高層ビルが立ち並んでいて、その一つには、守道さんが勤める出版社があった。「少しだけ我慢してね」と彼は笑って、僕の手を引いた。僕が歩き出そうとすると、軽やかに体を引っ掴んで、背中に回す。そうして守道さんは、背中に僕をおぶさると、そのまま横断歩道を駆け抜ける。我慢しろというのが痛みではなく羞恥であったことに、僕は僅かながら体温を上げた。
「着いたよ。少し待っててね」
しなやかな肢体で街を駆け抜ける守道さんは、暫くして、明るいガラス扉の前に僕を置いた。出版社ビルの玄関では、夜の見回りに出ようとしていたらしい守衛が、きょとんとした顔で僕を見ていた。その顔は幼い頃の時分に見たことがあった。小学校の放課後、預け先が無い僕は何度かこの出版社でお世話になっていたことがあった。中学に上がった頃には一人で留守番をするようになったので、目の前に広がる古臭いビルの入り口と言うのは、実に数年ぶりの光景だった。
「守衛さんからサンダル借りて来たから、履いて」
守道さんは汗で濡れた顔を拭いながら、そう言って僕の前にそれを放り投げた。ゴムサンダルに足先を乗せた。割れた爪と切れた足裏から、血と汗が滲んでいた。ペタペタと幼子のように音を立てながら、僕は守道さんの肩を掴んで、前に進んだ。
守道さんに導かれる中、夜の二十時が及ぼす不安感は、人工的な光に掻き消されていた。心拍は既に平常に戻っていて、背中を伝っていた冷や汗は熱帯夜を乗り切ろうとする薄い汗液に変わっていた。
廊下を突っ切って、紙とモニターだらけの部屋に放り込まれる。僕が落とされたのは、おそらくは社員の誰かが先程まで座っていたデスクチェアだった。「そこの人、もう帰ったから」と言って、守道さんは何処かに走って行った。
一人残された社内では、見知った作品のポスターやらが目に入った。アニメ化だとか受賞作品だとか、景気の良い部分だけが誇張されたそれは、視覚情報と言語情報が混ざり合って、輝かしく見えた。
「落ち着いた?」
声の方に目を向けると、守道さんが湯気の立つ紙コップを手に立っていた。僕がそれを受け取ると、彼は隣の椅子に座って、一つ溜息を吐いた。彼のデスクには、父の名前が書かれたファイルや、白い猫のようなクッションが置かれていた。一息入れた後、彼はそのクッションの下にあった救急箱を取り出して、僕の前に跪く。何も言わずにただ処置を施していく彼は、僕が言葉を自ら発することを期待しているようだった。
「あらー、痛たそう。何かあったの」
ふと、背後から聞こえたのは、若い女の声だった。耳元で囁くあの赤い唇が、脳裏を駆ける。僕はその一瞬で手元を狂わせて、熱い珈琲を守道さんにかけた。
「あつッ……って、綾人君、大丈夫? 足にかかったでしょ。すぐに冷やそう」
「え? あ、いえ、僕にはかかってないです。あの、守道さんこそ」
僕達がわたわたと空虚に言葉を交わしていると、「あら、ごめんなさい」と、声の主が僕の顔を見た。短い髪と長身のその女性は、僕を認識するとパッと笑った。
「綾人君じゃない! 久しぶり!」
「あ、あぁ……
兎月さんは僕の頭を撫でると、ケラケラと笑っていた。守道さんと同じく、彼女もまた、僕達父子とは仕事の付き合い以上に好意的な関係で、いつぞや父に頼まれて自宅まで食事を届けてくれたこともあった。そんな彼女は、僕の足元を見ると、訝し気に顔を顰めた。
「何、本当に何があったの。守道君がさっき飛び出してったのは、これが原因よね」
「彼が駅の方に走っていくのが窓から見えたので、保護しに行ったんですよ」
「榊守先生には連絡したの」
「その先生から不審な連絡があったので、それも踏まえて、ここに」
話が見えない。と言った表情の兎月に、守道は眉を下げた。そんな二人のやり取りを見て、僕は詰まっていた喉に、唾を通した。そうして僅かに開いた声帯を震わせた。
「その、父の、ことなんですが」
やっとのことで出た言葉を二人に投げかけようと、僕は顔を上げた。その視界には、自分のデスクに座る守道さんと、その隣に腰を下ろした兎月さんがいた。
「電話があって、それで、僕に、逃げろって――――」
言葉が詰まる度にした、瞬き三回。その度に変わる視界は、僕の心臓を再び強く掴んだ。
心配そうに僕を見る二人の隙間、その腕と腕の間。そこには、小さく赤い唇を湛えた顔が浮いていた。
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