第20話

 吸った息を口の中で転がす。漏れ出ていた思考は、もう元には戻せない。猫神様のガラス玉のような目に、自分の顔が映っていた。それは酷く憔悴していて、ひび割れた唇から僅かに血が垂れていた。その血を拭うようにして、唇に指を置く。

 ふと、その指先までも、割れていることに気付いた。痛みは無い。血液も流れ出ていない。けれどそれは確かに、皮膚の下を見せていた。


「綾人君、君には酷いことを聞くかもしれないけど」


 一瞬だけ手放した意識の傍、守道さんがそう言って僕の顔を見つめていた。眉間には僅かながら皺が寄っていた。咄嗟に手を机の下へ置いたのは、無意識だった。


「道人先生を……自分の父親を殺したいと思ったことはある?」

「ありませんよ。思う理由がない」


 思春期特有の口走ってしまった、だとかなら、覚えがないだけで呟いたことくらいはあるのかもしれない。けれど自分から、父を殺したいなどと思ったことは一度も無かった。


「何故それを僕に聞くんですか」


 もっと、別に考える人間がいるのではないか。そんな疑問が浮かんだ。例えば、作家としての父に対して殺意を抱く人間くらいなら、創作の世界には多くいるだろう。それこそ、一人や二人どころではない。創作をする人間の憎悪がどれだけ理不尽かは、近くで見て来た僕も理解している。何より、そんな父の担当編集であった守道さんが、わからない筈がない。


「神様の叶える願いって言うのは、人間の願いなのでしょう? 認識が形を作るのだと、昼間言ってましたよね。だとするなら、父を殺したいと願っている複数の人間の願いが、採択された……そういうことではないんですか」


 怪異というものを概念として捉えるのであれば、そういった考えになる筈だ。それでも、守道さんは僕を見て、殺意の有無を確かめている。僕の問いを聞いても、彼は数秒、考えるようにして僕に疑いの目を向けているようだった。眼球が震えていた。彼は視線を横に反らして、再び口を開いた。


「……神は全ての人間の願いをそのまま叶えるわけじゃない。多くの場合では、自分が気に入った人間……自分と血縁にあるか、奉仕している人間の願いを叶える。縁故が要になるわけだ。現実は認知の多数決かもしれないが、あんな首を引き千切られて死ぬなんてこと、人類の大半が考えつくわけがないだろ」


 一瞬。ほんの一瞬だけ。守道さんの口元から牙が見えた。彼の言葉尻は何処か攻撃的で、苛立ちを見せていた。目の前に自分を慕っているだろう神を前にしながら、彼は苦々しく歯を鳴らす。それらを全て見透かしたかのように、猫神様は欠伸をかいていた。


「詩節の隙間に棲まう者が神だとして、僕より縁の深い者くらい、沢山いるんじゃないですか。例えば、彼女を祀る神社の人間だとか……僕はもう何年も前に、


 僕の訴えを耳に、守道さんは「そうだったね」と静かに唇を閉じた。その言葉の意味を理解出来ないほど、彼は愚鈍では無い。


「血が流れている時点で、縁が切れているかと言えば、そうではないかもしれませんが」


 自然と溢れた事実は、僕の脳裏にフラッシュバックを呼び起こす。目の前に広がる火と、胎児のように蹲って黒く焼けていく母や姉の姿。それはかつて、僕が『織幡綾人』であり、父が『織幡道人』であった頃の記憶。


「酷いことを聞いたね。ごめん。疲れただろう。お風呂に入るなら、沸かすけど、入るかい」


 短く、出せるだけの言葉を吐いていく。守道さんの眼球は震えていた。どうにも居心地が悪い。ここに居る誰が悪いわけでもない。謝られる理由も無い。故に、彼の謝罪を受け入れる脳など、僕には無かった。ただこくりとだけ頷いて、了承の意を示す。そこに意味は無い。僕の脳も、皮膚も、四肢も、受動的にしか動くことは出来なかった。


 そうして数分の後に、軽快なメロディが部屋に響いた。守道さんの少しだけ大きな服を抱いて、導かれるままに脱衣所へと向かう。猫神様は僕の冷えた足を冷やす様にして、ぐるぐると脛の周りに体毛を擦り付ける。それらに反応を示せず、邪魔だとも言えないまま、僕は猫神様と共に洗面台と洗濯機の間へと置き捨てられる。

 数秒、動くことが出来なかった。服を脱ぐことも、風呂場の硝子戸に手を触れることも、出来なかった。ただ一匹、猫神様だけがこの小さな空間で生命的な動きをしていた。彼あるいは彼女が怪異であるということが、信じられなかった。温もりは僕のくるぶしばかりを温める。


「にゃあん」


 猫神様の一声を聞いて、膝を曲げる。抱き上げろと言われているような気がした。感じ取ったままに、僕はそのしなやかな白い塊を持ち上げた。


「餅のようですね、猫神様」


 延びる身体を下から抱え上げる。ゴロゴロと鳴る喉の音を聴く。近づいた顔からは、炭水化物と油の混じった、ニンニクとトマトの臭いがした。ちゃむちゃむと音を立てて猫神様は舌なめずりをする。そんな生活感に充てられて、脳が僅かに晴れた。

 餅のように伸びる白い体を床に落として、僕はシャツのボタンに手をかけた。その様子を見ながら、猫神様は洗面台の上に乗った。鏡を背にして、顔を洗う。そうしてまた、猫神様は一声「にゃーん」と鳴いた。


「一緒に入りますか。猫じゃないなら、お風呂お好きだったりするんですかね」


 硝子戸を押し開けて、蒸気を煽る。素肌に感じる熱と水分の前、猫神様が風呂場のタイルを踏んだのを確認して、僕はその冷たい床に足を置いた。

 ふと、その足先に、赤黒い線を視る。咄嗟に、僕は自分の指先とそれを重ね合わせた。僕の指に入った亀裂と同じように、足先にもまた、痛みの無いヒビがあった。


 ――――爪が割れている? いや、これは、そうじゃない。どちらかと言えば、肉が割れているのではなくて、もっと、無機質な。


 そうやって、思考が脳の右端から左端を巡っていった。正答が与えられない問いは、猫神様の一声で止まる。

 僕の視界に入り込んだ猫神様は、ジッとその金の瞳に僕を映していた。


『いるぞ』


 赤い口から、そんな声が聞こえた。白い猫の口は、確かに猫の声を発していた筈だというのに、それは人間の、女とも男ともつかない歪な声だった。


『てんじょう』


 再び聞こえた声は、やはり猫神様の口から発せられていた。その単語を理解したくなくて、僕は風呂場の壁に張り付けられた鏡へと視線を移した。


 ゆっくりと、顔を向けずに、眼球だけを動かす。僕の網膜に映るのは、反射した光景。僕の顔と、足。僕に目を合わせようとして顔を上に向けている白い猫。


 ぴちょん、ぴちょん、ぴちょ、ぴちょん。


 水滴の落ちる音が聞こえた。シャワーヘッドと冷たいタイルは乾いていた。けれど、唯一、僕の足元だけに、丸い透明な斑点が作られていた。


 臭い。僅かに、何か、肉の腐るような匂いがした。例えば、買って二週間たった、鶏肉の臭い。それが、僕の首元を濡らしていた。


 ゆっくりと、確かに僕は目を瞑った。そうしてもう一度、今度はその数倍の時間をかけて、瞼を開く。

 再び目に映った鏡は、少しだけ曇っていた。その鏡面の上部、赤と黒が垂れ幕が見えた。


『おまえのうえ』


 猫神様が、またニャーンと鳴いた。

 僕は冷たい廊下へと身を投げ出した。冷たい何かが、僕の冷え切った足を掴んでいた。

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