第34話

 波瑠さんの車は、大学一年生にしては上質な国産車だった。新品ではないものの、比較的新しいタイプのそれは、エンジン音も静かで、車内の沈黙に拍車をかけていた。体積の大きな識さんが助手席に座ったは良いが、後部座席に三人も座れば、息苦しさは計り知れない。何より、僕の隣で車窓の外を眺める花鍬さんは、時折足を汲んだりするもので、端的に言えば少々迷惑であった。


「神社、今は関係者以外立ち入り禁止だそうだけど。波瑠、貴方、車両の乗り込み許可証とか、貰ってるの?」


 ふと、外を眺めていた花鍬さんが、そう言ってバックミラー越しに波瑠さんに微笑んだ。波瑠さんは「いや」と短い否定を置いて、アクセルを踏んだ。青信号を過ぎ去って、少しずつ神社の参道に近づいていく。確かに、花鍬さんの言う通り、神社へと続く大通りにはパトカーが止められていた。その傍には何処か見慣れた雰囲気の警察官が立っていた。彼は参拝に来たであろう人々を止めては、外に出るように促していた。


「でも門番がアレだからね。多分通れる」


 そう言って、波瑠さんはゆっくりと速度を落とした。近づいたその警察官は、大きなその四肢を振り回した。


「お疲れ様です、葦屋さん」


 運転席の窓を開けて、波瑠さんはそう声を上げた。すると、警察制服を着ていた男は、パッと顔を明るくして、その制帽を取り去った。


「溝隠君か。何か用事? 後ろは地楡ちゃんだね。仕事かな」

「地楡がコトリバコの修復に呼ばれていて……その連れと、ついでに、綾人君を連れて来たんです」


 そう言って、波瑠さんは後部座席に目線を送った。それだけで全てを理解したわけでは無いだろうが、葦屋さんは「そっか」と笑って、その巨躯を道の横にズラした。


「関係者ってことだね。入って。あ、識君もコトリバコの修復作業やるの?」


 助手席に座っていた識さんを見て、ふと葦屋さんがそう訊ねた。その問いに識さんが首を横に振ると、彼は大きく口を開けて笑って見せた。

 

「本殿の奥で、七竈が仕事してるから、もし良ければ手伝ってやって。詩織ちゃんもそっちにいる筈だから」


 彼はそう言って、僕達を笑顔で見送る。そこに悪意が無いことは明らかだった。彼が数日前、あの叔母を地面に抑えつける鬼神の如き姿は、僕の脳から霞みのように消えた。


「刑事さんって、制服着てる時もあるんですね」


 僕がそう呟くと、隣でクスクスと花鍬さんが微笑んでいた。彼女はそっと僕に「違うわ」と囁く。


「あの方はね、怪異に関わる仕事だったら何でもするの。だから刑事の時もあれば、そうじゃない時もある」

「怪異に関わる仕事って……警察の仕事になるんですか」

「そりゃ法治国家ですもの。最終的な公的処理は警察だのお役所だののお仕事よ。多分、七竈さん達がやってるっていう作業も、そっちの延長線のお話じゃないかしら」


 コロコロと鈴を転がしたような声で、彼女は笑っていた。何をしても、何を言われても口角を下げない彼女は、まるで仮面をつけた人形のようにも見えた。

 そうやって言葉を交わしている内に、砂利の上を跳ねていた車体が止まった。境内の裏手、本殿の後ろで、波瑠さんはブレーキを踏んでいた。


「駐車出来る場所を探して来る。全員ここで降りて」


 波瑠さんがそう言うと、重たい何かが外れるような音がした。それを合図に、識さんが助手席のドアを開けた。彼は花鍬さんの座る席のドアに手をかけていた。


「僕達も出ようか」


 隣で守道さんがそう笑った。彼に手を引かれるまま、車から降りる。数日ぶりに踏んだ砂利の感触は、新鮮味に満ちていた。本殿の裏は薄暗く、夏だというのに肌寒さすら感じられた。砂利に混じる岩の表面、僅かに残る黒い炭化の痕跡が、嫌に目についた。唾を飲み込んで、足に力を入れる。寝たきりの状態だったにしては維持されている筋力は、正常な歩行を可能としていた。僕がフラフラと歩き始めたのを見て、波瑠さんが再びアクセルを踏んだ。緩やかな速度の鉄の塊から守るようにして、識さんが花鍬さんの前に出ていた。

 

「それじゃあ、私はコトリバコの修復に向かうわ」


 車の排ガスを眺めながら、ふと、花鍬さんはそう微笑んだ。その目線の先には、眉を下げる識さんの顔があった。彼は荷物によって塞がった手をそのままに、目線を下げた。

 

「道具、何処に持って行けば良い」

「そうね、一度私に着いて来て。近くに作業場所を確保して貰っているから」


 顔を合わせた二人は、そうやって微笑み合っていた。そうやってお互いに了承を示し合うと、くるりと花鍬さんが僕達に顔を向けた。揺れる前髪の向こう、爛れた皮膚を引き攣らせて、彼女は大きく口を開けた。


「お二人は本殿にいらっしゃって。そのうち波瑠も識君もそちらへ向かうでしょう。お先に七竈さん達と合流してくださいな。詩織ちゃんとお会いしたいのでしょう、綾人君は」


 ならば、その方が。と、彼女はコロコロ喉を鳴らした。それに対して間髪入れずに「はい」と応答を返したのは、僕ではなく守道さんだった。彼に導かれるまま、砂利の上を歩いた。本殿の中に入れば、ギシギシと木の板が軋む音が耳を支配する。時折足元を見ては、靴下から体液が滲み出ていやしないかと、視認する。だがそこにあるのは、僕の体から溢れるそれではなく、すでに乾いてこびりついた、あの母の体液だった。赤黒い手痕は、床の上で引き摺るように線を作っていた。同じものが天井にも張り付いて、幾つかの電灯を割っていた。薄暗い廊下を進めば、紙と紙が擦れ合う懐かしい音が微かに聞こえた。父の書斎で昼寝をする、小学校の夏休みのこと。そんな風景を頭に掠めて、僕は一歩、その空間へと足を入れた。

 ギシ、と、木の床板を軋ませる。その音に反応して、六つの目が、こちらを覗いた。


「何だ、お前か」


 そうやってハッと鼻でほくそ笑んだのは、七竈さんだった。彼女は黄ばんだ紙束の中に埋もれて、こちらを睨んでいた。


「何しに来た。手伝いでも頼まれたか」

「え……いや、僕は」


 七竈さんに対する否定を込めて、僕は彼女の隣に座り込む詩織ちゃんを見つめた。だが、彼女は僕と目が合うと、すぐにその視線を手元に移した。まるで僕のことを見ていなかったかのように、止まっていた手の動きを再開させる。淡々と、和紙を束ねては、紐で括る。それを繰り返す彼女の側で、七竈さんが足を伸ばした。


「冷やかしなら帰りな。見ての通り、喋っている暇は無いんだ」

「いや、あの……何をされているんですか。僕に手伝えるなら、手伝いますが」

「子戻りで戻った輩のリストアップだ。戸籍情報との矛盾が生じていると、役所が困るだろ。死亡届が出ているのに失踪しただとか、納税してるだとか発覚しても、予めそれが子戻りで戻ってきた子供だったってわかってるなら、ある程度は対応が出来る。何より、それ専用で仕組みを作っておけば、次の指織姫も多少気軽に神事を行える」


 そう言って、彼女は手元にあった紙の束を見せつけた。そこには、今までに奉納された子供の名前が連なっていた。


「奉納した名前を記した紙も、コトリバコも、本殿から出しても問題無いと証明されている。時代毎に束ねてまとめてそこにいる市役所員に押し付ける。以上」


 七竈さんが指差したのは、黙々と床で段ボールを組み立てる見知らぬ青年だった。彼は僕と目を合わせると、パッと口を開いた。


「後輩に紙束を押し付けられてる市役所職員の嘉内かないです。どーも」


 呆れたような息を吐いて、彼はそう笑った。

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