外聞 識

第17話

 溝隠がスマホの画面を見て首を傾げたのは、駅前に差し掛かってすぐのことだった。彼は無言で僕を睨むと、「すみません」と声を上げた。


「僕と識は近くで落としてください」


 何かあったのかと尋ねる守道さんに、彼は「明日話します」と言って、察することを強要していた。溝隠の視線は揺れていた。多分、綾人という少年と、師匠である榊守道人に関連する事なのだろう。

 口先だけで了承を語る兎月さんは、適当な道路脇に車を着ける。その途端に、溝隠に引き摺り出されて、外の熱気を浴びる。


「お前なあ、もう少し優しく……」


 出来ないのか。と言いかけて、それらは全て喉の奥に仕舞いこまれた。視界が青く染まったのだ。青い硝子で覆い尽くされたように、確かに目の前にはアスファルトと駅があると理解できている筈なのに、全てが、青い蝶に埋まっていた。


「溝隠」


 その原因であろう人間の名を呟く。ボロボロと崩れて煙となる蝶の隙間、彼の顔が見えた。ギリギリと歯を合わせて削る。愛嬌のある顔には、不安が刻み込まれていた。


「……図書館に行く」


 零れかけていた唾を飲み混んで、溝隠は目も合わせずに歩き出した。


「図書館って、何か調べるのか」

「確かめる」


 確かめる? と僕は疑問符を浮かべながら、口の足りないその背を追った。なぞる道は、僕も良く知っていた。街の図書館は、駅の近くにある自然公園の中にある。そこには、大学図書館には無い大衆娯楽や児童書、地域の史料が多く蒐集されている。

 それがの図書館である。けれど僕達のような怪異を知る者にとっては、全く別の意味を持った。


「溝隠波瑠と申します。司書の鳥居とりいさんはいらっしゃいますか」


 閉館時間の迫った受付に、彼はそう迫った。狼狽える若い女の後ろ、カタンと音がした。


「はい、鳥居ですよ。溝隠さん、今日はどうしました」


 長い黒髪を纏めて、赤い軽そうな眼鏡をかけた彼女は、そう笑って僕達を見た。「ここは私がやるから」と先程の受付を退けて、小さく唇を尖らせる。


「『怪書架』なら、すぐにご案内出来ますよ」

「話が早くて助かります」


 溝隠が微笑むと、鳥居さんはカウンターの裏から鍵を取り出した。彼女のしっかりとした足元を追って、僕達は図書館の奥へと歩を進めた。

 薄い鉄で出来た螺旋階段を下りる。カンカンと立つ音は、鉄筋コンクリートに密閉された地下に響いた。けれどその音に誰も文句をつけないのは、この地下の書架が殆ど無人であるためだ。そんな中、誰にも見られないままの、ずらりと並ぶ本棚は、奥に行くほど古びた背表紙を見せていた。


「ご存じだとは思いますが、棚の並びは年代順、本の並びは著者名順になっています。お探しの本がありましたら、私が案内しますが、如何しましょう」

「大丈夫です。凡その位置は覚えているので」


 そうですか。そう微笑む鳥居さんを置いて、溝隠は書架の奥へと足を入れた。その後ろを着いて歩く。確かに、彼の歩みには澱みが無かった。


「……榊守道人の小説を探しているのか」


 僕がそう呟くと、ぴたりと溝隠の足が止まった。肩に一匹、蝶を乗せて、振り返ることもせずに再び歩き出す。その歩調は僅かに速度を落とした。


「先生の作品が持ち出されたかもしれない」

「論拠は」

「先生の胃から、作品の一部が見つかったと。筆跡からして、先生の作品であることは間違いない」


 祓い屋の中でも物語の中に怪異を描き、それらを封じる者を作家と呼ぶ。彼等の手によって怪異が封じられた作品は、こうした街の図書館で管理されるのだ。特にこの図書館では作品以外の怪異の資料や記録をも収容しており、『怪書架』と呼んで厳重に守っている。榊守道人がこの街で活動していた祓い屋だったとすれば、その作品や資料がここにあるのは何もおかしいことではない。


「貸出記録見れば良いんじゃないの」

「そういう情報は図書館から引き出すことは出来ない。怪書架となれば更に厳重だ。どんな情報から怪異が外に漏れ出すかわからない。何より、ここに入っている書籍は全て、作家本人か、その弟子しか持ち出すことが出来ないんだ。貸出記録というもの自体、あまり意味を成さない」

「じゃあ、今回も作家本人が持ち出したんじゃないの」

「そうだろうね」

「あのな、だったら何を確認するんだ」


 しびれを切らして、ほんの少しの感情を声に乗せる。その途端、溝隠は左に九十度身を翻して、片目で僕を睨んだ。


「問題は何を持ち出したか、だ。結果的に現在、その作品は紛失したことになる。怪異について記したものならまだいい。けど、怪異そのものを封じた作品だった場合、そいつも外に出ているわけだ」


 そう言って、彼は細い本棚と本棚の間に足を入れた。が、その瞬間に、その足は止まった。「どうした」と口にすると同時に、彼と同じ方向を見る。

 狭く薄暗い空間。大量の本が並ぶ、その間。


 そこでは、少女が一人、肩を震わせて僕達を見ていた。


「君は」


 その少女の名を言葉にしようとした時、彼女はするりとその身を翻して、僕と溝隠の間を通り過ぎる。しなやかで細い肢体が掴めば折れてしまいそうで、その皮膚に触れることを躊躇させた。


「捕まえろ! 本が無い!」


 彼女がいた棚を見て、溝隠が声を上げる。足裏に力を入れて、一歩、前に出した。少女の後ろ姿は、確かに何か数冊の本を抱えているように見えた。出口に向かって走る彼女の首筋に、指先が触れる。その瞬間、少女の足が止まった。


「図書館ではお静かに。基本のルールですよ、お三方」


 地上へと向かう螺旋階段の下、鳥居さんはそう微笑んだ。少女の手から本を取り上げると、彼女はゆっくりと唇を滑らせる。


「貴女に持ち出し権限のある書籍は無いと説明した筈ですよ……――――織幡詩織さん」


 後退りに伴って、僕の手の中に倒れ込んだ彼女は、夏だというのに酷く震えていた。僕が肩に手をやると、びくりと震えて、その箇所を摩る。


「本は預かります。一度、上に戻りましょうか。消毒液と冷やすものくらいはありますから」


 鳥居さんはそう呟いて、詩織の肩を優しく撫でる。セーラー服の白い布越し、じわりとにじんで見えた皮膚は、赤黒い打撲痕を浮き上がらせていた。

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