第13話 傷跡が消えても消えなくても

 テレビ台の下に置かれたゲーム機はまだ真新しく、差し出された派手な蛍光色の小さなコントローラーも、手に馴染む事はない。

 アイボリーとベージュを基調とした家の中で、そのカラフルな色合いは何だかとても似つかわしくなくて、幸喜は思わず眉を顰めていた。


「これ、いつ買ったんだよ」


 問いかけると、修司は笑みを浮かべたまま首を傾けている。

 一切答える気がないのだろう事はそれで理解出来たので、幸喜は深く溜息を吐き出した。

 三つ程並べられたゲームソフトは外側のフィルムこそ外されているものの、一度も開封された様子はない。

 恐らくごく最近に購入されたものなのだろう。


「うちにもあるから言ってくれれば貸したのに」

「幸喜のは幸喜が遊びたいから買ったものだろ? これは、俺が幸喜と遊びたくて買ったものだから、用途が違うんだよ」

「はいはい」


 修司も志穂も昔から過保護で、今でも何処か自分を子どものように感じている節がある、と幸喜は思う。

 それはとても心地いいようで窮屈で、申し訳なさと有り難さを上手い具合にないまぜにしたような、言いようのない気持ちにさせられる。

 幼い頃によくやっていた、パズルゲームのリメイクだろうソフトを取り出して本体にセットすると、懐かしいなあ、と修司は眼を細めている。

 青、赤、緑、紫、黄色のブロックがランダムで落ちてきて、四つ揃えれば消えるという簡単なパズルゲームで、単調ではあるけれど奥の深いゲームだ。


「で、茅乃はちゃんは幸喜の彼女なの?」


 ゲームをしながら事もなげに問いかけてくる修司は何処か楽しそうで、それに苛立ちを覚えながら、幸喜は彼の足を軽く蹴りつける。


「そんなわけあるか。未成年だぞ」


 既に此処へ連れて来ているので罪悪感が酷いけれど、と複雑な表情を浮かべると、それを見た修司はからからと笑っていて。


「年齢なんて年とっちゃえば大して変わんないよ」


 人生なんて三十過ぎるとあっという間なんだから、などと妙に説得力のある事を言うので、幸喜は呆れた顔で、そういう問題じゃない、と返しておいた。

 テレビ画面の中ではカラフルな色合いのブロックが次から次へと落ちていて、チープで楽しげな音楽に合わせてポップなキャラクターが端の方で楽しそうに動き回っている。

 昔から、勉強だろうが運動だろうが、何をやっても一定以上の結果を出せる修司は、一度も触った事のないゲームですらそれなりに上手く操作してしまう。

 器用貧乏なだけだよ、と本人は笑っているけれど、幸喜が相当やり込んだゲームでさえ、気を抜けば負けてしまう事がしばしばあった。

 慎重にブロックを組み上げて消していく幸喜とは違い、修司は規則性もなく適当そうにブロックを消しては積み上げているけれど、時間経過と共にブロックが落ちてくる速度が速くなると、途端に気の抜けるファンファーレが鳴り響いていて。

 一つ、二つ、三つ、四つ……、落ちてくる灰色のブロックで幸喜側の画面が埋め尽くされると、蛍光グリーンのコントローラーがひらひらと視界の隅に映っている。

 クソ、と幸喜が舌打ち混じりに睨みつければ、おかしそうに笑った修司が頭を撫でていた。


「何か気になる事があるんだ?」


 修司の言葉に一瞬理解が及ばなくて、幼い子供のように瞬きを繰り返した幸喜は、それを噛み砕くと同時に眉を顰めた。

 茅乃の事を言っているのだろう。

 彼が昔から人の機微に聡いのは理解していたけれど、心の中を見透かされたようで何だか釈然としない、と幸喜は思わず溜息を吐き出してしまう。


「別に。此処に連れてきたのは、志穂さんみたいに年上の女の人で頼れる人と知り合えたら相談しやすいんじゃないか、ってちょっと思ったからだよ」


 その言葉に修司は納得したように頷くと、口元に指を寄せて考え込み、僅かに眉を寄せている。


「うーん……、まあ学生さんだし、何かあるとしたらやっぱり学校か家庭辺りだと思うけど、まだはっきりしないかな。身なりも良いし、見た目には傷や痣もないから行政に頼るような状況ではなさそうだけど」


 何だか少し危なっかしい感じはするけどね、と苦笑いを浮かべる修司は、頬杖をつきながら肩を竦めてみせた。

 見た限りで助けが必要な状況ならば手を差し出す事は容易だけれど、そうでない場合は幾ら外側の人間が干渉しようとしたとしてもどうしようもないのは、幸喜自身よくわかっている事だ。

 彼女は心の内を話したくはないくせに、適切な距離を取ろうとはしない。

 それは確かに、そう、危なっかしい、のだろう。

 先日コインランドリーで見せたあの表情も、今までの言葉の端々も。

 一歩間違ったら、呆気なく落ちていってしまうような場所へ、足元すらまともに見ずに歩いてしまうように、思えるから。


「どうしようもなかったら頼るかもしれないけど、あんまり首突っ込むなよ」

「はいはい」


 そう修司に釘をさしていると、二階から微かな物音が響いている。

 洗剤を貰うと言っていたので、きっと今頃あれこれ悩んでいるのだろう。

 柔軟剤の試供品程度であの喜びようだったので、ちゃんとした洗剤を貰えるとなったなら、今頃年相応の笑顔を浮かべて楽しそうに選んでいるに違いない。

 その姿を想像すると何だか少し微笑ましく思えて、自然と口元を緩めてしまう。

視線を感じて顔を向ければ、修司がやけににこにこと笑っているので、幸喜は慌ててそれを誤魔化すように咳払いをして、口を開いた。


「ていうか、妊婦ほっといて飲みに行ったりすんなよ。ちゃんと支えてやんないといけない時期だろ」


 修司は流石に痛い所を突かれたのか、困ったように眉を下げ、すみません、と頭を下げている。

 まだ腹が膨れていないけれども、そういった時期の方が身体の負担も大きく、会社の先輩や上司にも、妊婦は不安定になりやすく、産前産後の恨みはとんでもなく怖い、ともよく聞いている。

 志穂は穏やかで我慢強い性格をしているが、案外脆い所もあるのは、幼い頃から一緒にいる幸喜も知っているからこそ、兄を諫めなければならない、と思うのだ。


「いい加減、俺の事より自分の家族を優先にしろって」


 ごめんごめん、と抱きついてくる兄を引き剥がそうとすれば、一層強い力で頭を抱え込まれてしまう。

 スキンシップが激しい方ではあるけれども、その様子はいつもとは違い、まるで幼い頃のようで、幸喜は小さく息を吐き出した。


「幸喜、悪かったな」

「別に。俺もいきなり全部切って逃げてたし」

「いっぺんに色々あったから、混乱したんだろ」


 修司は手を離すと困ったように笑っている。

 幸喜が二人と連絡を途絶えさせる直前、父親と修司は派手に大喧嘩をしていて、それが何故なのかを、幸喜は修司から聞いていた。

 丁度その時に、志穂の妊娠が発覚した事、も。


「でも、志穂さんとの事はいい加減ちゃんとした形をとって欲しいと思ってたよ。可哀想だろ、いつまでも待たせて」


 その理由に自分が入っていた事も確かなのだろうから、それ以上の何も言えずに、幸喜はコントローラーを握った手に力を込めた。

 修司や志穂が自分を可愛がってくれる事も、心配してくれている事も、良く理解してはいるし、有難いとは思う、けれど、その反面、それがあの時に齎された罪悪感からきているのだろう事も、良く理解している、のだ。

 だからこそ、いつまでも弟離れ出来ずにいる兄が、そろそろ自分だけの家庭を作って離れるには、きっと、丁度良かった。

 修司は何か言いたげに口を開きかけて止めると、幸喜の額を手のひらで撫でるように髪を上げた。

 ゆっくりと眼を細めている彼が見ているだろう額の右側、こめかみに近い辺りには、未だにうっすらと膨れた傷跡が残っている筈だ。


「何?」

「傷、まだ痛いのかな、って」

「いつの話をしてんだよ」

「痛いのを痛いって言えないのは、辛いだろ」


 あの時は痛いなんて思わなかったんだよ、とは言えずに、幸喜は頭を振って彼の手を緩やかに払った。

 幸喜が幼い頃に大怪我を負った時、修司はずっと泣きながら謝っていて、気丈に振る舞っていた志穂でさえ、身体の震えを隠し切れてはいなかった。

 それを、修司は今でも母親のせいだと思っているし、絶対に覆す事もしないだろう。

 修司は母親を嫌悪の対象として見ているけれど、幸喜の前でそれを口にする事はしない。

 けれど、密やかに隠しているその感情を、幸喜は身近にいてよく知っていた。

 修司は人と関わるのを好いてはいるけれど、根っこの部分でその相手が信用出来るかどうかを慎重に選んでいる。

 それは、そうした所からきている事も。

 だからこそ母親に関連した話題は出来うる限り出さないでいたけれど、と幸喜は考えて、コントローラーを置いた。


「前はさ、全然覚えていなかったのに、だんだん色んな事を思い出してきてて……、こんな年齢になってまでびびってるの、おかしいよな」


 それが恥ずかしくて、みっともなくて、居た堪れなくて。

 色んな感情がないまぜになって振り払いたくて眼を瞑るけれど、嫌な記憶ばかりが押し寄せてしまいそうで、幸喜は直ぐに瞼を開き、顔を歪めて溜息を吐き出した。


「あの事もあるだろうけど、ちゃんと向き合ってるって事だろ。俺は立派だと思うよ。少しもおかしくなんてない」


 修司はそう言うと、顔を歪めて俯いている。

 テレビ画面からはチープで楽しげな音楽が響いていて、それが余計にリビングの静まりを強調しているようだった。


「本当に、ごめんな」


 絞り出すような声で言ったその言葉に、幸喜は画面から視線を外して彼を見た。

 子供の頃に何度聞いたかわからない言葉に、今でも時々押し潰されそうに、なる。

 修司の泣いていた姿を見たのは、後にも先にも幼い頃の、あの時だけだろうから。


「誰も悪くないよ」


 その言葉に、修司は口端を引き上げたまま、眉を寄せた。

 眼を細めて笑っているのは、彼が静かに怒っている証拠だ。

 あの時から、ずっと修司は怒っている、から。


「……そうかな」

「そうだよ。誰かのせいにしたって、過去なんか変えられないだろ。それなら、もっと未来の事とか、先の事に目を向けた方がいいに決まってる」


 自分自身にも言い聞かせるようにそう言うと、修司は視線を床に落とし、静かに息を吐き出して、頷いていた。

 きっと納得はしていないのだろう。

 助けて欲しい時に助けて貰えなかった、などと、今まで思った事も口にした事もないのに、と考えて、幸喜は瞬きを繰り返す。

 乾いた唇を少し噛み、何度反芻したかもわからない質問を思い出してみても、到底答えは出そうにない。

 考えたくないだけ、なのかもしれないけれど。


「……ただ、あの事は、もう少し、考えさえて欲しい」


 その言葉に、修司はほんの一瞬、あの時のように泣き出しそうな顔をして、小さく頷いていた。


 ***


 茅乃がおずおずと顔を出すと、志穂は収納の前で座り込み、大きめの袋に丁寧に洗剤を詰め込んでいた。

 そのどれもが茅乃が触れていながら手に取れなかったものばかりで、ますますばつが悪くなってしまい、茅乃は両手を握り締めて頭を下げた。


「あ、あの……、さっきはごめんなさい」


 志穂は立ち上がると、そっと手を握り締めてくれて、柔らかくてあたたかいその皮膚の感触に驚いて顔を上げれば、何故だか泣き出しそうな顔で笑っている。


「ううん。大丈夫、いいのよ。私こそ、ごめんなさい」


 少し目元が赤いから下に戻るのはもう少し経ってからにしようか、と志穂は優しく笑っている。

 別に彼女が悪いわけではないのに、そう謝っているのは、きっと、自分ではない誰かに重ねているからだろう。

 だからこそ、茅乃は否定する事なく、小さく頷いた。


「そうだ。アップルパイがあるんだけど、まだ食べれそう?」


 志穂は努めて明るくそう聞いているので、茅乃は彼女の側に膝をついて座ると、「はい、アップルパイ好きです」と答える。

 アップルパイはよく母親が焼いてくれたお菓子だ。

 フィリングを目一杯入れるのが母親のお決まりで、よくパイから溢れて少し焦がしてしまい、失敗しちゃった、と照れたように笑う姿を見るのが茅乃は大好きだった。


「よかった。幸喜くんもアップルパイ好きなのよ」

「そうなんですか?」

「幸喜くんはお酒全然飲めないからか、大人になっても甘いものが好きみたいなの。修司くんは飲もうと思えば幾らでも飲めちゃうんだけどね」


 大人の人は皆お酒を飲めるものだと思っていた、と茅乃は思い、志穂へ視線を向けると、彼女は可笑しそうに口元に指を当ててくすくすと笑っている。

 よく考えてみれば以前チョコレートの菓子を美味しいと言っていたっけ、と考えて、自然と小さく笑みを浮かべていた。

 幸喜のいない所で幸喜について知らない事を知るのは、少し申し訳なさを感じたけれど、そういった所を知っていくのは、何だか嬉しく感じたのだ。

 そんな茅乃の様子に、志穂は目元を和らげると、そうだ、と頰にかかった髪を耳にかけて、悪戯っぽく笑って言う。


「アップルパイにアイスクリーム乗っけましょうか」

「良いんですか? そんな贅沢して」

「勿論。お腹いっぱいでもう食べれないって言うまで食べさせちゃうから」


 ね、と優しい笑みを返されて、茅乃は戸惑いながらも口元を緩めて頷いた。

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