第12話 もう履けないトゥシューズ

 志穂の用意してくれた食事は、テーブルが埋まってしまう程の品数と四人でも多すぎる程の量で、茅乃は驚いて周囲を見回してしまったけれど、三人にとってはそれが普通の事らしく、落ち着かない様子でその中の一つに口をつけた茅乃は、その美味しさにすぐ顔を綻ばせていた。

 茅乃が料理の隠し味や食材の細やかな切り方や、盛り付け方の工夫に気づくと、志穂は嬉しそうに顔を綻ばせていて、いたく茅乃を気に入ったらしい。

 いい子だね、気遣いの出来る子なんだね、と褒めそやしてくれていて、その穏やかさに、いつの間にか茅乃の緊張も解けてしまっている。

 志穂は小学生の頃に近所に引っ越してきて以来の幼馴染だそうで、幼い頃から二人を知っているらしい。

 修司と志穂は幸喜をとても可愛がっているようで、食事をとる僅かな間だけでもそれを感じ取るのは容易であり、家族という形の中に彼がいる事に、茅乃はほっとしたような、淋しいような、そんな気持ちに駆られたのは確かだけれど、二人のその様子は、いっそ過保護な親のようにも感じられた。

 まるで、彼が傷つく事を極端に恐れているような。

 だとしたなら、幸喜があの時動揺していたのは、志穂や修司の事でもなく、何か別の事だったのかもしれない、と茅乃は静かに考える。

 それが何なのかは、まだ、わからないけれど。


「茅乃ちゃんは、お洗濯が好きなの?」


 そう言った志穂の驚いた顔を見て、茅乃は手にしていたグラスをテーブルの上へ置き、小さく頷いた。

 茅乃にとっては別段おかしな事でも不思議な事でもないのだけれど、大抵は志穂と同じように感じている人が多いのだろう。

 自分にとって好きな事を好きと言える事はとても幸せな事で、救い、だから。

 だから、ちっともおかしくも不思議でもないのだけれど、と思いながら、ことりと首を傾けていると、志穂は垂れた目元を和らげて笑顔を浮かべている。


「それなら、うちで余ってる洗剤、持っていく?」


 その言葉に茅乃は眼を輝かせたけれど、流石に図々しい物乞いのように感じられないのだろうか、と考えてしまい、思わず唇を引き結んだ。

 隣の幸喜が口元を押さえて顔を背け、おまけに肩まで震わせているので、一瞬の喜びを、彼はどうやら気づいているらしい。

 羞恥で顔が熱くなるのを感じていると、楽しそうに笑った修司が「俺が仕事先とか知り合いからたくさん貰ってくるから、色んな種類の洗剤があるよ」と更に追い討ちをかけてくる。

 その言葉に思わず飛び上がるほど喜びそうになる自分をどうにか押さえ込み、うぐぐ、と茅乃が堪えていると、堪えきれない笑いを零しながら幸喜が頷いていて。

 彼の笑い顔を見るのは貴重なので普段ならば嬉しいのだけれど、今ばかりは複雑だ、と茅乃は口先を尖らせる。


「めちゃくちゃ欲しいんだろ。遠慮しないで素直に貰っとけば?」


 そう言われてしまえばもう反抗する気も無くなってしまい、茅乃は素直に志穂へお願いしますと頭を下げた。


「じゃあその間に幸喜はお兄ちゃんとゲームしよう!」


 幸喜の好きそうなゲーム用意しておいたんだ、とテレビの前まで強引に引きずられていく幸喜を苦笑いを浮かべながら見送って、茅乃は志穂に促されて二階へと上がった。


 ***


 志穂に連れられて二階へ上がると、廊下の右手にある大きめな収納の前へと案内された。

 両開きの扉を開けると、上から下まで沢山のものが詰まっている。

 上から順番に見ていけば、三分の二は衣料用洗剤で埋まっていて、残りは住居や台所に使用する洗剤のようだ。


「わあ、本当にたくさんありますね!」


 粉末洗剤から液体洗剤やジェルボール、仕上げ用の物や、香り付けを主にした洗濯ビーズまでも揃っていて、思わず茅乃は眼を輝かせる。

 柔軟剤に至っては期間限定で出されていたものもあるようで、茅乃にとって此処は宝の山とも言えるものだ。

 収納を一つ圧迫してしまう程の洗剤など、今の茅乃には経済的にも住居的にも難しいけれど、いつかは自分でお金を稼いで収納を圧迫する程の洗剤で埋め尽くしてみたい、と両手を握り締めて誓いを立てていると、その様子を見ていたらしい志穂が微笑ましそうに笑みを浮かべている。

まるで幼い子どもでも見ているかのような優しい眼差しが擽ったく、茅乃は気恥ずかしさを誤魔化す為に慌てて視線を洗剤へと向けた。


「こ、これだけあると迷っちゃいますね!」

「そうね。けど、そろそろ色々準備しなきゃいけないし、困ってたから助かるわ」


 そう言って眉を下げて笑う志穂を見て、茅乃はこの家に来てから幸喜が妙に志穂を気遣っている様子が何故なのか、その時初めて理解してしまった。

 無意識に触れる手が撫でる、その滑らかな腹部の流線に、茅乃は微笑ましいような、それでいて居た堪れなくなってしまうような、どうにも言い表せない気持ちになって、口籠もりながら言葉を発する。


「ええと、食事も洗剤も無添加の物がいい、とか、聞きます……、よね?」


 下から上へと視線を動かし、顔色をうかがうような仕草になってしまった茅乃に対し、志穂の表情は静かで穏やかで優しい、いつかの少女の面影を失う代わりに、新しい命を慈しむ事へと一心になっているようで、ある。

 茅乃がそれをはっきりと言葉にしなかったのは、志穂自身が未だ自らに起こった変化に、慣れるようにも戸惑いを隠し切れているようにも見えなかったからで、それらを肯定するかのように、彼女は困ったように笑みを浮かべている。


「気にし過ぎるのも良くないから、ほどほどにしようとは思ってるんだけどね」


 いつかの母もそうであったのだろうか、と思いはするけれど、その答えを茅乃はもう二度と聞く事は出来ない。

 幼い頃に亡くなった母親の顔は、忘れないよう何度も写真を見ているけれど、その声や体温、家に染みついていた筈の気配は、もう、記憶が薄れてしまっていて、酷く曖昧だ。

 気まずい沈黙に耐えかねて、何か話題をふらなければ、と考えた茅乃は、どうせなら幸喜の話を聞こうと、今までの彼との会話を思い返し、口を開いた。


「あの、志穂さん」

「なあに?」

「ええと、あの、そう、幸喜さんが、前にハンバーガーを食べてた時に照り焼きのものしか食べない、みたいな事を言ってたんですけど、何でなのか、ご存じですか?」


 咄嗟に思いついた事を口走ってしまい、流石に会話を繋ぐにしては変な質問をしてしまった、と茅乃は己の失敗を内心で恥じたけれど、志穂は不思議そうに首を傾げ、何か思い当たる事があるのか、首を傾けて考え込むと、僅かに眉を寄せていた。

 常に穏やかに接してくれる彼女にしてはらしくない表情だったので、茅乃は内心驚いてじっと見つめてしまうが、瞬きの合間には笑みを浮かべて小さく何度も頷いている。


「……確か、前にお母さんが買ってくれたって言ってたわ。きっと、凄く嬉しかったんじゃないかな」

「幸喜さんのお母さんが?」


 母親にハンバーガーを買って貰う、という事が、特別に嬉しいものだろうか。

 その事に、茅乃は不思議に思うけれど、視線を俯かせた志穂は、緩く唇を噛み締めている。


「幸喜くんは……、色々あって、小さい頃からお母さんと一緒に過ごす事が出来なかったの。確か、その日は特別に買って貰った、とか言ってた、かな……」


 途切れ途切れの言葉は、彼女にとってそれだけ言い辛い事なのだろう。

 幸喜くん、は、と言ったと言う事は、彼だけが、とも言い換えられる。

 その事に気が付いた茅乃が顔を強張らせると、彼女は困ったように眉を下げて笑っていて。


「ごめんね。私からは、これ以上何も言えなくて」

「い、いえ、こちらこそ変な事をお聞きしてすみません……」


 自らに新たな命を宿すという事に彼女が戸惑っているのは、その事が原因なのかもしれない、と考えて、茅乃はぎゅうと両手を握り締めた。

 安易に踏み込んでしまった事を悔やんで俯いていると、志穂はゆっくりと瞬きを繰り返して階下に視線を向けて、それから優しい笑顔を浮かべている。


「でも、幸喜くんはきっと茅乃ちゃんに心を許している感じがするから、その内に何でも話してくれるんじゃないかな」

「……そう、でしょうか」


志穂の言葉に、ぽつりと呟くと、彼女は肯定するように頷いた。


「幸喜くん、警戒心が強い子だもの。普段はあんな風に笑ったりしないし」

「あれは単に面白がってるだけだと思います」


 口先を尖らせてそう返せば、志穂はころころと笑っていて、茅乃は小さく肩をすくめた。

 少し距離が縮まっているのは確かだけれども、きっと、幼さ故に庇護の対象と見ているだけなのだろう、と思うからだ。

 棚に入っている洗剤の中から気になっているものに視線を向け、茅乃は一つ一つそれらに指を滑らせる。

 からからと音が鳴る香り付けのビーズ、きらきらと光を弾くジェルボール、甘い花の香りがする柔軟剤。

 どれも欲しいし、手にしてみたいのに、躊躇ってしまうのは、少し我儘になりすぎている気がしたからだ。

 大事にされているだけでも十分なのに、あれもこれも、と次から次へと色んな事を考えてしまうのは、よくない事だ、と茅乃が指を引っ込めると、見かねたらしい志穂が、それらを一つ一つ手に取って床に並べてくれている。


「幸喜くんって、突然変に距離を取ろうとする所があるでしょう?」

「はい」

「あれってきっと淋しいからだと思うの。だから、茅乃ちゃんがずっと連絡を取っていられるなら、その内に話してくれるんじゃないかな」


 その言葉に、茅乃は思わず顔を俯かせ、ぎゅうと唇を噛み締めた。

 見開いた目の奥が、熱くて、痛い。

 知らず握り締めた両手に、爪が食い込んでいくのがわかる。

 皮膚の外側だけがやけに冷たくなっていて、内耳から響いてくる、何度言われたかわからない言葉が、頭の中を侵食していくよう、で。


「違います。距離を取りたいのは、自分から予防線を張りたいだけです」


 本気で誰かに拒絶をされた事がない人間には、到底わかる筈がないだろう、と茅乃は思う。

 人が誰かを本気で拒み、悪意を持って憎む時、どんなに醜くて恐ろしい顔をしているか、だなんて。

 眼を見開いて、その瞳に映った自分自身がどれだけの恐怖に染まった表情を浮かべているかを、きっと、知りはしない。


「だって、これ以上追い詰められたくない。苦しみたくない。惨めになんて、なりたくない、か、ら……」


 吐き出した言葉に呼応するように、目の前がぐにゃりと揺れる。

 たっぷりと水分が含まれた眼球から、それが瞼の淵へと溢れていかないように瞬きを堪えると、しなやかな指先が伸びていて。

顔を上げれば、心配そうな顔をした志穂が、歪んだ視界に映っている。


「茅乃ちゃん……」

「ご、ごめんなさい、ちょっとお手洗いお借りします!」


 茅乃は慌てて背を向けると、足音を立てて奥の扉を開いて中へ飛び込んだ。

 少しでも油断してしまえば涙が溢れ出してしまいそうな目蓋を手のひらで押さえて、しゃがみ込む。

息が、指先が震えて、それを誤魔化すように、丸めた身体を更に縮こませた。

膝に額を押し付ければ、自分の呼吸と鼓動だけが、身体の中に響いていて。

大丈夫、もう何も聞こえないし、何にも見られない。

だから、大丈夫、と言い聞かせて、茅乃は誰にも聞かれないよう、静かに震える息を吐き出していた。

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