第14話 ネバーランドはもう見えない

「半分持って貰ってすみません」

「別にいいけど」


 やけに重い荷物を片手に前を向けば、前を歩く茅乃は軽やかな足取りで楽しそうに笑って振り向いた。

 修司には帰りも車で送っていくと言われたものの、流石に何度も茅乃を車に乗せていく事も憚られ、のんびり電車とバスを乗り継いで二人は帰ってきていた。

 それも、沢山の洗剤を詰め込んだ大きな布製のバッグを二つ分ぶら下げながら。

 茅乃は最後の最後まで、志穂が取り出してきたお中元に送られてくるような大きな箱まで羨ましそうに見ていて、そればかりは止めておくよう言っておいたのは正解だった、と幸喜は溜息を吐き出した。

 それなりに嵩張る上に重さもあるので、見かねた幸喜が重い方の袋を持っているのだけれど、流石に住んでいる所まで送る事は出来ないので、バス停の少し先まで荷物を持って行ってやっている有様だ。

 果たして彼女の住処にこれ程の洗剤を置けるスペースが存在しているのだろうか。


「お前、こんなに洗剤貰っといて、ちゃんと置き場所あるんだろうな」


 床が抜けるんじゃないか、と呆れたように幸喜が言えば、流石にそこまでありません、と茅乃は頰を膨らませている。

 まあ収納からは溢れてますけど……、と小声で付け足された言葉は聞かなかった事にしておこう、と幸喜は再び溜息を吐き出した。

 茅乃は修司達の家にいる間も家を出てからも、ずっと上機嫌で楽しそうにしている。

 いつもより明るく振る舞い過ぎているような気もしなくはないけれど、話している限りでは無理をしているようには見えず、曖昧な笑い方もしていないので、単に大量の洗剤を貰った事で機嫌が良くなっているだけなのだろう。

 少し不安定に見えていた時もあったのだけれど、笑顔でいられているのなら、あの家に連れて行ったのは良かったのかもしれない、と幸喜は思う。


「志穂さん達、いい人達ですね」

「そうだな」


 茅乃は志穂と随分仲良くなって、連絡先の交換をしたらしい。

 今度はチーズケーキを作ってくれるだとか、お中元に洗剤を貰ったらまたくれるだとか、色々と約束もしたようで、とっても楽しみです、と満面の笑みを浮かべている。

 良かったな、とその様子に自然と口元が緩むと、茅乃が悪戯に眼を細めて顔を覗き込んでくるので、幸喜は何だかむず痒い気持ちになって眼を逸らした。


「何だよ?」

「ふふ、何でもないです」


 そう言って上機嫌になって楽しげに歩く茅乃は、軽やかに踊るようにくるりと回りってはしゃいでいるので、どうにも危なっかしい。

 あっちにふらふらこっちにふらふらと、覚束ない足取りで歩くので、見ているこちらとしてはハラハラしてしまう、と幸喜は思う。


「おい、あんまり車道に寄るなって」


 曲がり角で車や自転車でも出てきたら轢かれかねない、と幸喜は声をかけるけれど、案の定、言ったそばから茅乃は躓いて、重心を崩してしまった。

 倒れそうになる彼女の腕を慌てて掴めば、茅乃は大きく眼を瞬かせて、どさりと荷物をその場に落としている。

 見た目より案外細くて柔らかい腕の感触に、しまった、と幸喜はすぐに手を離したけれど、茅乃は口元を押さえたまま俯いて固まっていて。


「あー……、ええと、急に触って悪かった」


 いくら危なかったからとはいえ、いきなり触れるのは良くない。それも、彼女は未成年の女子高生だ。

 修司達と一緒にいたから、というのもあるのかもしれないが、どうも距離感をはかり損ねてしまっている気がして、絶対に気をつけなければ、と幸喜は自分に何度も言い聞かせる。

 苦し紛れにちゃんと周りを見るよう伝えれば、はしゃぎすぎてごめんなさい、と頭を下げて謝った彼女が何故だかじっと見つめてくるので、幸喜は思わず視線を逸らして、彼女が落としてしまった荷物を拾い集めた。

 壊れていない事を確かめながら袋に入れ直して差し出したけれど、彼女はそれを受け取る事はせずに、ずいと距離を詰めてくる。

 なるべく近寄らずにいようとしているのに、どうして、と慌てて身体を引くと、茅乃はそれに合わせてますます近寄ってくるので、幸喜は彼女の目の前に手にした袋を差し出して、それ以上の侵入を拒んだ。

 茅乃は渋々袋を受け取るけれど、むう、とあからさまに不満そうな顔をしている。

 からかっているのか、それとも別の何かなのか。

 今一掴めない彼女との間にある、気まずい沈黙に耐えかねて、さっさと先に進んでしまおう、と足を踏み出すと、後ろから名前を呼ばれた。

 少し舌足らずの、柔らかな声。

 躊躇ったものの、無視する事も出来かねて、頭の後ろを掻きながら幸喜は振り返って茅乃を見た。

 にっこりと笑う彼女に僅かな違和感を覚えて眼を眇めると、目元がうっすらと赤くなっている。

 まるで泣いた後のようなそれに気を取られていれば、彼女は楽しそうにことりと首を傾けて口を開いていて。


「幸喜さん。私の事、好きになってくれませんか?」

「……は?」


 一体何を言っているんだろう、と、自分でも間抜けな程に顔を歪めてしまった幸喜は、上手くその言葉を咀嚼出来ないまま、首を傾けた。

 かろうじて少しずつ状況を整理して理解したものの、よく聞こえなかった、という事でどうにかならないかと考えていた矢先に、茅乃はどんどん距離を詰めてくる。


「だから、私の事を好きになってくれませんか?」


 からかっているのか本気なのか。

 どうにもつかめないその言葉に幸喜が渋面を浮かべれば、何ですかその顔、と茅乃は頰を膨らませて怒っている。


「私、若いですし一途ですし洗濯が得意ですし、何より若いですよ」

「何で若いを強調すんだよ……」


 だって他にアピールポイント思いつかないんですもん、と言われ、幸喜は頭の後ろを掻いて深く長く息を吐き出した。

 他にもっとあるだろうと言いたくはなるけれど、擁護した所で結論は変わらないのだから、と口にしないまま喉の奥へと留めておいた。


「阿呆言うな。女子高生に手を出したら犯罪者だろうが」

「もう少し待ってもらえれば高校も卒業しますし、成人だってすぐですよ?」

「待つって、そこまで付きまとう気か?」

「幸喜さんが私を好きになってくれるなら、そのつもりです」


 話にならない、と幸喜が大股でがしがしと歩き出すと、茅乃はめげずに後ろから小走りで追いついてくる。

 それどころか逃げられないよう、幸喜が持っている袋の取手を握ってまで、先に進むのを阻止しているのだ。

 無理に振り離す事も戸惑われて、離せ、と言っても、彼女は絶対に譲らない。

 どうしてこう、妙な所で頑固なのだろうか、と溜息が次から次へと溢れていく。


「大人を揶揄うなら同年代の子と合コンでもしてろよ」

「私が通っているの、女子高ですよ」

「友達に紹介してもらうとかあるだろ」

「幸喜さん以外で洗濯に興味持ってくれそうな人がいると思っているんですか?」

「俺もそこまで興味はない」


 ばっさりと切り捨てるように言うと、茅乃は口先を尖らせて俯いた。

 流石に言い過ぎただろうか、と唇を緩く噛むと、茅乃は拗ねたように、言う。


「でも、いつもちゃんと話に付き合ってくれてるじゃないですか」

「それは、……」


 言いかけて、はた、と幸喜は考える。

 志穂に連絡先を教えたのなら、これで別に茅乃と連絡を取り合う事をしなくても良いのではなかろうか。

 志穂ならば年上とはいえ同性で、茅乃が通う学校の関係者に友人もいる。

 元より面倒見が良い性格だし、いい相談相手になるだろう。

 茅乃自身、志穂を気に入っているのなら、これで疎遠になった所で問題はない、筈だ。

 茅乃の話に付き合わなくても、こうして荷物を持ってやらなくても、自分のいない場所でも楽しそうに笑顔でいられるのなら。

 もし距離を取るなら、今しかない。

 だけど、この繋がりはきっと、離したら二度と元には戻らない。

 それを躊躇っているのは何故なのか、考えなくてはいけないのに、まとまりもしない言葉の羅列は意味も成さずにぐるぐると同じ所を巡り巡って、辿り着く場所さえ見えやしない。


「幸喜さん?」


 不思議そうに名前を呼ぶ声に沈み込んでいた意識を浮上させると、幸喜はのろのろと顔を上げた。

 見つめた彼女は首を傾けて、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

 先程気になっていた目元は、やっぱり、うっすらと赤みを帯びている。

 自分のいない所で、密かに泣いていたのだろうか。

 頰に触れそうな手を緩やかに避けて、幸喜は眉を下げて笑った。

 そんな顔をして欲しくない。

 そう願っているのに、そう願わないように、と思っているのは、なんて滑稽なのだろう。


「変な事言ってる暇があったら、さっさと帰って勉強しろよ」


 特に英語な、と付け足せば、茅乃はぱちぱちと瞬きを繰り返し、すぐに頰を膨らませて怒っている。

 英語は関係ないじゃないですか、と言って叩いてくる彼女の手から逃げるように、幸喜は苦笑いを浮かべて足を踏み出した。

 少しでもこの道の終わりが来ないように、なんて。

 そんな事を、考えないように。

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